主宰五句 村中のぶを
長き夜の夢坑道をい行く我
遊ぶがにいのち得しかに鰡の飛ぶ
台風十九号三句
来るものは来るべく秋の星點々
荒ぶ夜の燈火いよいよ親しかり
颱風過水に浸かりし家茫々
松の実集
櫨 紅 葉 塩川 久代
椎の実を踏みゆく響き宮の午後
秋高し肩たくましき坑夫像
披璃ごしの秋の日返す遠賀川
櫨紅葉濃く山容は鮮やかに
菊焚きし庭の残り火とろとろと
日向ぼこ 小泉 晴代
日がな降る雨の中なる松手入れ
丹念に雨とて止めぬ松手入れ
晩秋の影長く引き坂上る
黄昏て未曾有の光枯尾花
遺されて杖がたよりの日向ぼこ
入 院 高橋すすむ
転落入院今年の年賀如何にせん
冬寒や悪鬼にも見ゆ担当医
九十年初の手術の冬の朝
秋場所や声無く見るも乙なもの
冬日さす向ひは支援の子等学ぶ
里 祭 西村 泰三
紅葉濃き谷来て数戸祭旗
祀り継ぐ粧ふ山の間に住み
狛犬も注連新しき里祭
祝詞奉ず女神主爽やかに
神酒献ず神楽や鈴に灯を返し
雑詠選後に のぶを
天高し天守地震よりよみがへり 松尾 照子
先に作者の修復中の城を詠じた句を挙げてゐますが、掲句は三年振りにその覆はれた鉄組みが取り払はれ、修復成った秋天の大天守を詠み取ってゐます。それも不要な形容は一切なく「地震よりよみがへり」と、より鮮明に対象の姿が見へて来る措辞を選んでゐます。それは真に対象を一点に詠むといふ、句の潔さに外ならないのです。
修道院の通夜の鐘かな後の月 坂梨 結子
作者は西教の方ですが「修道院の通夜の鐘かな」、修道院とは修造士、修道女の人たちが一定の戒律に従っての共同生活をする施設ですが、当院の通夜を偲んでの詠です。一体、修道院の通夜の次第を知る由もないのですが、通夜の鐘は祈りの時と思はれます。尖塔にかかる「後の月」は、故人への風土的な追想をもたらし、何とも心悲しい一句ではあります。それも一般の寺院と遠ひ、修道院だからでせうか。
見つめられ見つめて烏瓜燃ゆる 山並 一美
「烏瓜燃ゆる」は、烏瓜の燃え立つやうな光を言った古来の言葉、「見つめられ見つめて」はその光を人為的に捉へた鋭意な感覚の措辞、何れも作者自身に呼び込んでの詠として情感の沁み通った、極めて印象的な一句です。
手にあまるほどに折り取る吾亦紅 浅野 律子
「吾亦紅」、路傍の雑草に紛れて寂しげな、野趣のある花と言っても桑の実に似てゐると歳時記にありますが、実に哀れ深い花です。そして 「手にあまるほどに折り取る」とは、それは淋しさ余つての事でせうか。中村汀女に (曼珠沙華抱くほどとれど母恋し) の句があるのを思ひ出しました。
砕け打つ波の重さや秋の果 後藤 紀子
荒磯か浜辺か、寄せては返す波浪の様相を「砕け打つ波の重さ」と叙してゐます。波の重さとは作者の主観でせうが、読者にもその波の雄々しさ、量感が伝はつて来ます。と「秋の果」といふ季感と相俟つて、晩秋の頃の海浜に、なにか郷愁に似た思ひさへして-。
水鏡一文字引き鴨過(よ)ぎる 菊池 洋子
「水鏡」とは西行の歌集にも見える古い言葉、つまり閑かな池水の面に辺りの樹林や物影が映じてゐるのを言ふのですが、その水面を「一文字引き鴨過ぎる」と詠じてゐます。それは鴨が一羽、静やかに水尾を引き渡ってゐるのです。言はずと句は林間の池水の、静謐な小世界を描出してゐます。
改めて一句は単なる写生句ではなく、よくよく言葉を選んでの、こくのある詠出と言ふべく-。
推敲す句はわが命秋灯下 鎌田 正吾
「句はわが命」-、と告げられて、何か呼び止められた思ひに、「推敲す」と叙した、作者の俳句に対する厳しい一念が伝はつて来ます。そして俳句は誰の為ではない、自分の為にあるといふ声が聴こへて来るやうです。
秋の灯の終着駅の女学生 松尾 栄治
作者は奥球磨の人、其所の「秋の灯の終着駅」 の一光景、終着駅の乏しい明かりに、駅に着いても帰りもせず、何か寄合ってゐる「女学生」、昨今は女子高生と呼びますが、女学生とは古き良き昭和の始めを想起します。やはり掲句は、回顧的な思ひに駆られます。
子守唄流るる里や薄紅葉 竹下ミスエ
作者も球磨の人、「子守唄流るる里」とは他郷では見られぬ叙景、それも明らかに五木の子守唄ではないでせうか。それに山野の「薄紅葉」が哀愁を漆へて-。
鷺一羽我もひとりの秋の浜 多比良美ちこ
「鷺一羽」といふ光景に「我もひとり」と、わが身の有り様を透かさず投影してゐます。この詠情は、鷺とわが身との、情緒的なつながりを叙してゐて、「秋の浜」とはやはり物思ふ秋、しみじみとした心通ふ詠句です。
即位祝ぐ赤坂御所に秋の虹 福田 祐子
即位の礼は十月二十二日、雨の降りしきる日でした。夕刻には雨も上がり淡い虹が立ち、自然も祝ふ様で印象的でした。掲句は都心近く住む人の詠、自づと実感があります。
鰤をさげ自転車飛ばす力士かな 野田貴美恵
前に(即物即詠)と称して実作の道を唱へた、上田五千石といふ俳人がゐましたが、さうでなくとも掲句は実景を即活写してゐます。(鬢付けの匂ふ中洲や博多場所)も獨白の感覚で、中洲といふ博多の中心街で力士の往来を垣間見る、この頃の通りの活況を伝へてゐます。「鰤をさげ」は力士のちゃんこ鍋を直ぐ思ひますが、要するにいづれも(側目即吟)の個性的な句です。