気が重いよ…伊那篇

落ちるところまで落ちた男の日記

巨星堕つ

2019-10-07 20:09:04 | 日記
「ジャイアント馬場さんが頭を下げるのを初めて見た」金田正一さんを大仁田厚が悼む
10/7(月) 11:12配信  スポーツ報知

プロ野球で歴代最多の400勝を達成し、ロッテで監督も務めた金田正一さんが6日、急性胆管炎による敗血症のため86歳で死去した。

訃報を受けて、元参院議員でプロレスラーの大仁田厚(61)がコメントを発表した。

「ジャイアント馬場さんの付き人をしていた1970年代、あるゴルフトーナメントで『馬場!』と大きな声で叫ぶ人がいた。
すると馬場さんが頭を深く下げながら『金田先輩、お疲れ様です!』上には上がいるもんだと痛感した。
馬場さんが頭を下げるのを初めて見て同じ世界の中で大先輩に敬意を表することは素晴らしいことだと感じたし金田さんの功績を痛感した。
それから何年後かに金田さんが飛行機で隣に偶然座られた『大仁田!元気か?』声をかけてもらった瞬間、感動したのを覚えている。
数時間のフライト中色々な話を聞かせていただいた。
『俺はたまにリキパレスに力道山を見に行ったんだよ』その頃に若手だった馬場さんの試合もよく見たという。
『相撲界の大鵬、プロレス界の力道山、野球界の金田正一。俺たちは3人で義兄弟だ』ともおっしゃっていた。
飛行機を降りるときに、金田さんのカバンを持とうとすると、笑って『これは杖がわりだからいいんだ』と言われた。
また巨星が逝ってしまった。
心からご冥福をお祈りします」



また1人、昭和の大スターが逝ってしまいました。
金田正一さん、国鉄・巨人で投手として活躍し、前人未到の通算400勝を達成したスーパースターです。
私は、残念ながら金田投手の現役時代を覚えていません。
現役引退したのが昭和44年ですから、当時5歳です。
親父が大の巨人ファンでしたから、当然毎晩(ん!?当時長野県の民放はSBCだけか---)ナイター中継を見ていたとは思うのですが、私の記憶にはありません。
私が鮮明に覚えているのは、タレントとしての金田さん。
昭和45年から始まった日本テレビ系の「特ダネ登場」。
この番組に回答者として出演していました。
声がでかくて、オーバーアクションで、面白いことを言うおじさんでした。



その面白いおじさんが、なんと伊那に来たのです。
確か、昭和48年3月だったと思いますが、ロッテオリオンズ対大洋ホエールズのプロ野球オープン戦であります。
金田新監督を迎えたロッテが、伊那県営球場でお披露目をしてくれました。
対する大洋は青田昇監督。山下大輔が新人の年でありました。
(奇しくも上のゴルフの写真、左から力道山・青田昇・金田正一)
主催のロッテは、観客にロッテのお菓子を配ってくれたのを覚えています。
そして、金田監督、パフォーマンスいっぱいで、観客を楽しませてくれました。

金田監督は、乱闘が多くファンを熱くさせてくれましたね。
何かやってくれるんじゃないかという期待感。
パ・リーグ人気が上昇した立役者ではないでしょうか。
人気だけではなく、昭和49年はパ・リーグ優勝・日本一に輝いております。



私が唯一面白くなかったこと。
それは、名球会の設立です。
当時は、「昭和名球会」と言って、昭和生まれの200勝以上投手、2000本安打以上の打者が入会条件でした。
まだ、大正生まれのプロ野球選手OBが沢山いた時代です。
例えば、大正14年生まれの杉下茂投手(215勝)。
大正9年生まれの川上哲治選手(2351本)。
金田さん自身が代表(法人の社長)に就任して、名球会の運営にあたっていました。
名球会の設立は、本当に大正生まれの大選手たちが気の毒でなりませんでしたよ。
結局、後に金田さんも代表辞任と名球会自体を退会することになってしまいましたが。

享年86歳ですか。
最近では、巨人のOB戦でときどきお姿を拝見するくらいでした。
80歳を超えても、お元気だなぁと思っていました。
こうやって、次々に昭和の灯が消えて行くのが淋しくてたまりません。
謹んでお悔やみ申し上げます。

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