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今日は何の日?徒然日記

2018-09-17 05:41:00 | 歴史関連情報
今日は何の日?徒然日記

「今日は何の日」はよくありますが、これは歴史上何があったかを詳しく教えてくれます。



たとえば、9月17日は・・・・(以下、一部引用です)

敬老の日
文学者ウィーク
マッターホーン初登頂(1854)
枕崎台風 死者行方不明2400人(1945)
東京モノレール開通(1964)

そして9月14日に起こった出来事が書かれています。

最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転

天文十五年(1546年)9月14日、細川氏綱が亡き養父の仇を撃つべく細川晴元を攻めた嵯峨の戦いがありました。(細川家内訌)

・・・・・・・・・・

父=細川勝元(ほそかわかつもと)の後を継いで応仁の乱を収め、自らの意のままになる将軍を擁立する明応の政変をやってのけた室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)=細川政元(まさもと)・・・

その後継者を争った3人の養子の中で、一歩抜け出て、第12代室町幕府将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して我が世の春を迎えた細川高国(たかくに)でしたが(5月5日参照>>)、大永六年(1526年)、自らの重臣に謀反の疑いをかけて殺害してしまった事から、その遺族の恨みをかい、土台が揺らぎ始めると(10月23日参照>>)、以前の養子同士の後継者争いで負けた細川澄元(すみもと)の遺児=細川晴元(はるもと)が、このタイミングで畿内へと攻め登り(2月13日参照>>)、大敗した高国は近江(おうみ=滋賀県)へと逃走・・・その後も、何度か刃を交える高国VS晴元でしたが、享禄四年(1531年)6月、高国は京都を奪回する事無く戦いに敗れて自害します。

その遺志を継いで政権奪回を計り、細川晴元と戦ったのは、高国の弟の細川晴国(はるくに)でしたが、彼もまた、晴元に通じた三宅国村(みやけくにむら)の反乱によって天文五年(1536年)8月に命を落とします。

そして、その後を継いだのが高国の養子であった細川氏綱(うじつな)でした。

氏綱は、高国の従兄弟(父の弟の子)に当たる細川尹賢(ただかた)の実子でしたが、高国の嫡男である細川稙国(たねくに)が18歳の若さで病死してしまったため、そのタイミングで、後継者候補として養子に迎え入れられていたのでした。

また、氏綱の実父=尹賢は、高国没落のおりには晴元に同調していたものの、結局、その後に晴元の命によって殺害されてしまうという・・・つまり、氏綱にとっては養父と実父の両方が(もちろん叔父も…)晴元によって死に追いやられた事になるわけで・・・

当然、跡目を継いだ氏綱は、晴元に抵抗すべく、天文十二年(1543年)7月、槇尾山城(まきおやまじょう=大阪府和泉市)に拠って旧臣たちをかき集め、反晴元の狼煙を挙げたのです。

氏綱出兵の報を受けて摂津(せっつ=大阪府中北部と兵庫県南東部)芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)に出陣した晴元に対し、氏綱勢は堺(さかい=大阪府堺市)を攻撃しますが、この時には、晴元の重臣=三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)らに敗れて兵を退きました。

----------以下略----------

充実した内容ですが、ここに紹介したのはまだ3分の1。
まだ続きます。

歴史好きな人はぜひご覧ください。
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2012/05/post-d125.html

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