虎姫町で、学芸員の福田さんからおもしろい話を聞きました。
水利権を巡る争いから、自ら犠牲になった清水清介の子孫は、今でも草刈り等が免除されているというものです。
次の話です。
天正17年(1589)、「才勝井」に近接する青名村・八日市村(現湖北町青名・八日市)と中野村が相論となり、ついに死傷者が出てしまいました。
そこで、このあたりを治めていた豊臣秀次は、けんか両成敗として、各村からの代表1人ずつを処刑することとしたのです。
そこで、中野村からは、百姓の清水清介が自ら進んで犠牲となったのです。
時の奉行が大口出身の堀尾吉晴。
彼は、清介の望みのまま、屋敷を娘に永代与えるように認めました。
これが清水文書で、近々大口町歴史民俗資料館に複製が展示されると思います。
中野村では、清介の恩に報いるため、彼の田畑にかかる不役を免除して、娘に相続させています。
この取り決めが現在も効力を持っているのが興味深いところです。
その才勝井は現在でも豊な水を湛えているそうです。
中野では、後に「義人清介氏之碑」を建立し、毎年8月19日には「清介感謝祭」を執り行い、その恩恵を今に伝えています。
水利権を巡る争いから、自ら犠牲になった清水清介の子孫は、今でも草刈り等が免除されているというものです。
次の話です。
天正17年(1589)、「才勝井」に近接する青名村・八日市村(現湖北町青名・八日市)と中野村が相論となり、ついに死傷者が出てしまいました。
そこで、このあたりを治めていた豊臣秀次は、けんか両成敗として、各村からの代表1人ずつを処刑することとしたのです。
そこで、中野村からは、百姓の清水清介が自ら進んで犠牲となったのです。
時の奉行が大口出身の堀尾吉晴。
彼は、清介の望みのまま、屋敷を娘に永代与えるように認めました。
これが清水文書で、近々大口町歴史民俗資料館に複製が展示されると思います。
中野村では、清介の恩に報いるため、彼の田畑にかかる不役を免除して、娘に相続させています。
この取り決めが現在も効力を持っているのが興味深いところです。
その才勝井は現在でも豊な水を湛えているそうです。
中野では、後に「義人清介氏之碑」を建立し、毎年8月19日には「清介感謝祭」を執り行い、その恩恵を今に伝えています。