2024年2月24日(土)、栄中日文化センター主催、「愛知の街道を行く シリーズ1」(2024年1~5月)「鳴海宿」へ行ってきました。 講師は、七種英康先生です。その様子を、数回にわたって紹介します。
街道シリーズは宮宿に続いての2回目です。宮宿については 「宮宿」-1- をご覧ください。
今回のルートです。前回のゴール「桜」駅から右下の有松駅までオレンジ色の線を歩きました。
この画像の出典は前回同様 Network2010!https://network2010.org/article/451
今回は、富部神社です。
前回紹介した長楽寺の南側にあります。
説明を見てみましょう。
文字起こししてみます。
当社は慶長八年(一六〇三)、津島神社の牛頭天王の眷属ともいわれる蛇毒気神を勧請したもので、天保十二年(一八四一)『尾張名所図会』をみると「蛇毒神社」または「蛇毒天王社」などと呼ばれていたことがわかる。牛頭天王はインド・中国・日本と伝播するに従って習合を重ね、インドでは祇園精舎の守護神とも、チベットの牛頭山の神だったともいう。これが中国に入って密教・道教・陰陽思想と習合し、日本においてさらに陰陽道との関わりを深めた。
主祭神である蛇毒気神は、明治元年(一八六八)に素戔嗚同体とされ、社名も富部神社と改称され現在に至ってる。また明治十一年(一八七八)には田心姫命・瑞津姫命・市
杵島姫命・菊理媛神の四柱の神を合祀した。
慶長十一年(一六〇六)、清洲城主 松平忠吉(徳川家康の四男)が病気平癒の祈願をしたところ快方に向かい、日ならずして回復したことからその報恩のため、本殿・祭文殿・廻
廊を寄進し、神宮寺として天福寺(真言宗智山派)を建立した。(明治元年神仏分離令により廃寺となる)その後、江戸時代を通して代々の尾張藩主により黒印地として毎年百石が
寄進された。
本殿は一間社流造、檜皮葺で正面の蟇股・手挟・脇障子等、桃山時代の建築様式を伝えるものとして、昭和三十二年(一九五七)、国の重要文化財に指定された。また平成八年(一九九六)には祭文殿・廻廊が名古屋市文化財に指定された。
摂末社として、八王子社・居森社・秋葉社・金毘羅社を祀る。
また、中世期の戸部城主 戸部新左衛門の慰霊碑を祀り、毎年四月二十九日には全国から戸部家の子孫が集まり慰霊祭が執り行われている。
境内の山車蔵には、享保十二年(一七二七)作といわれる高砂山車が収められている。高さ八メートル・横幅四メートルの大きな車体は、三階の上に更に屋形を据え、尉と姥の人形が置かれており、車輪が本体から外に出ている外輪形態の山車である。江戸時代、旧暦六月十二日の例祭日に東海道を曳行したが、現在では十月の例祭日に二階造りの屋根までの状態で公開され、祭りの象徴となっている。
よくわかる説明です。
「一間社流造、檜皮葺で正面の蟇股・手挟・脇障子等、桃山時代の建築様式を伝えるものとして、昭和三十二年(一九五七)、国の重要文化財に指定された」本殿です。
『尾張名所図会 – 蛇毒神社』(現 富部神社境内)
画像出典 https://www.tobe-shrine.org/
戸部新左衛門の墓地を移転した記念碑が残っています。
その説明です。
文字起こししてみましょう。
戸部新左衛門政直公
悲運の武将
尾張の織田氏と駿河の今川氏が敵対していた戦国時代。 戸部城主の戸部新左衛門は今川義元の忠実な家臣で武勇に優れ最前線で善戦していました。手をやいた織田信
長は何とか新左衛門を亡き者にしようと画策し、新左衛門の筆跡を家来に真似させ、信長に内通している旨の偽書を書かせました。 そして家臣(森蘭丸の父三左衛
門)を商人に仕立て偽書を持たせ駿河に送り込みました。偽書を信じた義元は烈火の如く怒り、新左衛門を呼び寄せ、途中吉田(現在の豊橋)で有無を言わさず切腹を
命じたのです。弘治三年(一五五七年)五月一日、新左衛門は無念にも非業の死をとげました。今川義元が桶狭間の戦いに没した三年前の事でこの謀略が無ければ義元の上
洛があり得たかもしれないと言われています。
人質交換事件
岡崎より駿河へ人質として送られる途中の松平竹千代(後の徳川家康)が略奪され尾張の織田方へ送られました。その頃、信長の兄信広が安城の戦いで今川・松平連合軍に
敗れ捕虜となっていました。天文十八年(一五四九年) 新左衛門の仲介によって笠寺観音境内で竹千代と信広の人質交換が円満に執り行われたと伝えられています。
戸部蛙
勇猛なことで知られる新左衛門は、自分の前を横切る者を「無礼者」と切り捨てることがあったそうですが、飛んで逃げる蛙は切ることが出来なかったという言い伝えがあ
り、これに因んで「戸部蛙」という郷土玩具が作られるようになりました。
戸部新左衛門政直公霊位
明治七年、子孫にあたる美濃国本巣郡軽海村の戸部新吾氏が新左衛門の霊を慰めるため戸部城跡に墓碑を建立しました。昭和四年の区画整理で戸部町三丁目に移さ
れ、金原鈴夫氏書の戸部城趾の碑が設置されました。そして有志(戸部保存会)により毎年命日に戸部家の子孫を招いて供養祭が実施されてきました。平成十八年、新
左衛門政直公没後四五〇周年慰霊祭が営まれ、この霊位は平成二十八年ここ富部神社境内に移築されました。
なるほど・・・・
明日に続きます。「鳴海宿」-3- へ
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「社楽の会」HP:中国ODAみてある記 韓国研修・その2 ブリスベン
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