遠州FW -15-
令和5年12月10日、いつものメンバーで、遠州にFWに行ってきました。その様子を数回にわたってお知らせします。
諏訪原城の2回目です。
場所の確認。右上の○印です。
空から見てみましょう。
ビジターセンターをもう少し紹介します。
この中にいろいろな展示がありました。これがわかりやすい!
イラストが秀逸です。
諏訪原城の特長です。
文字起こししてみましょう。
一諏訪原城の特徴一
1. 武田氏の築城法を受け継いだ城
攻撃のために備えられた三日月堀と曲輪(平坦地)がセットになった大きな 「丸馬出」 が残っています。 発掘調査により徳川氏
によって改修された可能性が高いことがわかりました。
2. 地形によって守られた 「後ろ堅固」 の城
大手(表口) 側は平坦ですが、本曲輪東側が断崖絶壁で、当時、城の眼下を流れる大井川によって守られていました。
3. 街道と密接に結びついた城
東海道が城域内を通過し、 東西交通の要衝に位置していました。
4. 縄張の傑作の城
本曲輪の扇の要にたとえ、 扇状に曲輪が広がっていることから、扇城とも呼ばれるようになりました。
縄張・・・曲輪や堀の配置のこと。
城の説明です。
諏訪原城は、 武田勝頼が天正元年(1573) に遠江を制圧するために、のちに築城の名手と評された馬場美濃守信春に命じて牧之原に築かせたとされてます。 その際に城内に武田氏の守護神である諏訪大明神を祀ったことから「諏訪原城」と命名されました。 当城は、 高天神城 (掛川市) を攻略するための拠点施設として、 武田軍最前線基地の役割を担っていたと考えられています。
天正2年(1574)5月に勝頼は、 高天神城を攻略し、翌年5月には長篠城 (愛知県新城市) を包囲しましたが、 織田・徳川の連合軍に大敗したことにより、遠江の武田方の城は守りに転じました。 徳川家康は、 早速諏訪原城の攻略に移り、 同年7月中旬から対陣した結果、8月24日に城兵たちは小山城 (吉田町)に逃れ、 諏訪原城は徳川方の城となりました。 諏訪原城を手に入れた徳川家康は城を 「牧野城」 と改め、城番を置いて駿河に対する最前線拠点とし、 駿河の前国守今川氏真を入れて駿河進攻の旗印としました。 その後、天正5年(1577) に氏真が浜松に移された後も、 家康の譜代である松平康親や松平家忠が城番となり、 城を守りました。 このうち家忠が記した 『家忠日記』には、 武田氏との攻防戦や、 家忠が城番のたびにおこなった普請に
かかわる記述が見られます。
天正10年(1582) に武田氏が滅亡したことにより牧野城の軍事的役割は終え、徳川家康が関東に移った天正18年(1590) 頃には廃城になったと考えられています。
明日に続きます。
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