この夏に、数回に分けて関ヶ原の合戦地を探索しました。そのレポートをシリーズで行います。
昨日の大河ドラマは直江状。いよいよ関ヶ原に向けて動き出します。
ここでは、家康最初の陣の様子を紹介します。
まず地図をご覧ください。
9月14日夜に家康が赤坂を出て、最初に陣を構えたのが桃配り山。
午前7時には到着していたのではないかと思われます。10時頃まで、この地で指揮をしました。
と言っても、陣は中山道から登ってわずかなところ。
3万人の軍勢は、すぐに動けるように平地に構えていたことが分かります。ここが、秀秋のいた松尾山との決定的な違いです。
家康の位置からは、三成のいた笹尾山はよく見えましたが、木が高いためか、山に隠れてか、秀秋のいる松尾山は視界に入りません。
指揮のためのベストポジションとは言い難いかもしれません。
家康は、指揮よりも、自分も動ける場所を考えたのかもしれません。指揮は情報網でカバーしていたのでしょう。
陣には、家康が指示をしたと言われる岩が残っていました。
いかにもという岩でした。
桃配山の名の由来は、壬申の乱ので大海人皇子に出陣した際に、兵を鼓舞するために桃を配ったところから来ているそうです。
歴史の地なのです。
昨日の大河ドラマは直江状。いよいよ関ヶ原に向けて動き出します。
ここでは、家康最初の陣の様子を紹介します。
まず地図をご覧ください。
9月14日夜に家康が赤坂を出て、最初に陣を構えたのが桃配り山。
午前7時には到着していたのではないかと思われます。10時頃まで、この地で指揮をしました。
と言っても、陣は中山道から登ってわずかなところ。
3万人の軍勢は、すぐに動けるように平地に構えていたことが分かります。ここが、秀秋のいた松尾山との決定的な違いです。
家康の位置からは、三成のいた笹尾山はよく見えましたが、木が高いためか、山に隠れてか、秀秋のいる松尾山は視界に入りません。
指揮のためのベストポジションとは言い難いかもしれません。
家康は、指揮よりも、自分も動ける場所を考えたのかもしれません。指揮は情報網でカバーしていたのでしょう。
陣には、家康が指示をしたと言われる岩が残っていました。
いかにもという岩でした。
桃配山の名の由来は、壬申の乱ので大海人皇子に出陣した際に、兵を鼓舞するために桃を配ったところから来ているそうです。
歴史の地なのです。