萩原宿・起宿-2-
2025年3月9日(土)、愛知ウォーキング城巡りクラブ(AWC) 「一宮市の美濃路・萩原宿~起宿ウォーキング散策見学会」へ行ってきました。 講師は、七種英康先生です。その様子を、6回にわたって紹介しています。今日はその第2回。
今回訪問したところです。2枚続きです。
前回の付け足しです。
本陣や問屋場の東に 萩原城 がありました。
萩原城は、秀吉の姉婿 長尾(三好)武蔵守吉房の居城とされています。 吉房は豊臣秀次の父です。1590年秀次が尾張を領した際、吉房は10万石を与えられ、犬山へ移ります。1591年に秀次は秀吉の養子となりましたが、側室淀殿との間に秀頼が生まれたため、高野山に幽閉され、1595年自刃させられました。それにより、吉房も追放され萩原城は廃城となりました。
この辺りは新説が出ています。
江戸時代に入ると、徳川義直〔1600~1650年〕が鷹狩りをするときの休憩所として御茶屋御殿が築かれた。場所は、萩原電話交換所の南辺りで、現在は住宅、畑地に変わり、遺構は残っていません。
このあたりの地名も、萩原字御茶屋です。地名には意味があるのです。
美濃路は、西へ折れ日光川を渡るのですが、今回は直進しました。
すると、すぐに宝光寺があります。次回に説明します。
さらに北へ進みます。
都会では、なかなか見られない光景です。
正面に鳥居が見えてきました。
梅です。天神様です。
この碑に注目です。「史跡 天神の渡し跡」
拡大します。
文字起こしします。
天神の渡し跡
いまの日光川が木曽川の本流であったころ、安土桃山時代から江戸時代へとうつるころの美濃路の渡し跡。当天神社と対岸にある尾西市・天神神社との間にあったとされる。この渡しのあたりは萩原川ともいった。1586年の大洪水以降、主要流路が現在のように起(おこし)のほうに移り、萩原川は川幅もせばまっていたばしとなり、渡しも起側に移った。この間の経緯は、起宿本陣加藤家文書中の1591年と推定される豊臣秀吉四奉行からの「萩原船頭給継目証文」などによって知られよう。江戸時代おわりごろの「名区小景」には、萩原川にかかる板橋が見える。
織田信長がはじめて斎藤道三と富田・聖徳寺で会見した帰り、道三がこの渡しまで見送ったともつたえられる。江戸時代には、東海道と中山道とをむすぶ脇往還として美濃路は繫栄し、萩原宿や起宿もにぎわいをみせた。徳川家康が関ケ原の戦いから凱旋してとおったので、御吉例街道ともいわれる。
今では、川には思えません。
こちらが東の天神社。
それでは、西の天神社に行ってみましょう。
現在の日光川です。この川が、1586年までは木曽川本流だったのです。
北へ折れ、美濃路に戻りました。この東(右)側が、元木曽川の河原だったことになります。
確かに、東側は、元は河原だったようにも見えます。
河原に盛り土がしてあるのです。
こちらが、西の天神神社。
拝殿です。
その東に「西萩原秋葉山」があります。加納宿で同様、集落ごとに秋葉山がありそうです。
「史跡 天神の渡し跡」
説明がありました。
文字起こししてみましょう。
一宮市指定文化財
史跡 天神の渡し跡
一宮市西萩原二二四九の一部
天神神社
昭和五十二年一月十七日指定
天神の渡し跡は、かつての木曽川の主流であった現在の日光川の渡船場の跡で、「萩原渡し」とも呼ばれた。
日光川は、野府川と五城川(小信川)が合流し、古川、萩原川ともいわれた。
天正十九年(一五九一)と推測される豊臣秀吉の四奉行連署の「萩原船頭給継目證文」によると、この年六十石の船頭給が与えられていたことが知られる。その後、慶長の頃まで引き続き尾張藩によって六十石の給米が支給されていた。これは、天正十四年(一五八六)の大洪水で、木曽川の主流が現在の位置を流れるようになった後も、萩原川の流れが広く沼地化して渡船を必要としたのであろう。その後洪水のたびに川幅が狭められて、渡しは廃止され、萩原宿の西に板橋の萩原橋が架けられた。
天神の渡しの位置は、日光川左岸の萩原山の天神社(一宮市萩原町萩原字松山)と、右岸のここ天神神社のあたりといわれており、両神社の神殿の間は、直線距離でおよそ四百八十メートルあり、その頃の川幅の広さを物語る。
一宮市教育委員会
すなわち、こういうことです。
この矢印が、かつての木曽川の川幅だったのです。
画像出典 https://kaidou.nagoya/minoji/hagiwara.html
かつての木曽川をイメージしてみましょう。
現在の地形図です。
詳しくは、次の論文をご覧ください。
天正14年 (1586年〉の洪水による木曽川河道の変遷と天正地震の影響について
https://core.ac.uk/download/pdf/227968269.pdf
それより以前は、次のサイトが参考になります。
ブラタモリでも取り上げられた、濃尾平野の断面図です。
濃尾平野のプレートは西に下がっており、木曽川も、西へ、西へと移動して、長良川、揖斐川とくっついてしまったのです。
https://tokai-kiso.co.jp/blog/%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E4%B8%89%E5%B7%9D
かつては、五条川が木曽川本流でした。それが大洪水のたびに、西へ、西へと移動していったのです。
https://suimonken.server-shared.com/ksgwmngtr/kiso02.html
次の論文も取り上げています。
木曽川の地形史
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/97/2/97_2_69/_pdf/-char/ja
明日、第3回に続きます。
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