仕事柄、懇親会が多くあります。
昨晩も、昨年度の校長会の集まりがありました。そこでの会長さんの挨拶が「下山の哲学」でした。
下山の哲学は、確か、五木寛之さんの「人間の覚悟」がもとだと思います。ネットで調べると、いろいろ出てきました。
以下引用:http://www.padoma.ne.jp/modules/padomablog/index.php?content_id=73
登山は登頂の一方通行のみならず、安全に下山(山を下りる)できてこそ成功したといえる。頂上を極めることだけが人生の目的ではない。きちんと安全、かつ優雅に山を下りていくことが人間の生き方ではないか、と五木さんが指摘します。
「人生の前半に登山の時期を終えたら、今度は下山の時期を考えるのです。下山はけっして惨めなことではない。穏やかで豊穣で、それまでの知識や情報では及びつかなかったような智慧にふれる、そういう期間であるはずです」(同書)
そういえば、お釈迦さまも29歳でそれまでの修行から下山し、浄土宗の元祖法然上人も43歳で比叡山を下山しています。人生50年にも満たなかった時代のことです。それらは人生からの落伍でも脱出でもなく、大きな「転機」として考えるべきでしょう。
「老い」は成熟と同義です。同時に「枯淡の境地」といわれるように、即物的な価値から離れた聖なる時間でもあります。老後の楽しみが、海外旅行やグルメだけでは少々さびしい。超高齢社会の現代、「老い」をどう生きるのか、日本人全体の問題だと思います。
---------引用終わり---------
この文は、「下山」を人生の後半にたとえています。しかし、今晩の挨拶は、国家の下山をも暗示していました。
人生は寿命があります。60歳や70歳を過ぎて下山を考えるのは無理もありません。登山は頂上しか見えませんが、下山は景色が見えます。地平線が見えます。
それに対して、国家の寿命はわかりません。滅びる事もあれば、続く事もあります。いえ、続けなければならないのです。
国家はともかく、人には、下山の時期があります。会社の社長、国家の首脳、その他、いろいろな立場があり、いろいろな下山があるわけです。麻生さんはどうするでしょうか?
景色が見え、地平線が見える下山を楽しむ人生にあこがれを抱きます。
昨晩も、昨年度の校長会の集まりがありました。そこでの会長さんの挨拶が「下山の哲学」でした。
下山の哲学は、確か、五木寛之さんの「人間の覚悟」がもとだと思います。ネットで調べると、いろいろ出てきました。
以下引用:http://www.padoma.ne.jp/modules/padomablog/index.php?content_id=73
登山は登頂の一方通行のみならず、安全に下山(山を下りる)できてこそ成功したといえる。頂上を極めることだけが人生の目的ではない。きちんと安全、かつ優雅に山を下りていくことが人間の生き方ではないか、と五木さんが指摘します。
「人生の前半に登山の時期を終えたら、今度は下山の時期を考えるのです。下山はけっして惨めなことではない。穏やかで豊穣で、それまでの知識や情報では及びつかなかったような智慧にふれる、そういう期間であるはずです」(同書)
そういえば、お釈迦さまも29歳でそれまでの修行から下山し、浄土宗の元祖法然上人も43歳で比叡山を下山しています。人生50年にも満たなかった時代のことです。それらは人生からの落伍でも脱出でもなく、大きな「転機」として考えるべきでしょう。
「老い」は成熟と同義です。同時に「枯淡の境地」といわれるように、即物的な価値から離れた聖なる時間でもあります。老後の楽しみが、海外旅行やグルメだけでは少々さびしい。超高齢社会の現代、「老い」をどう生きるのか、日本人全体の問題だと思います。
---------引用終わり---------
この文は、「下山」を人生の後半にたとえています。しかし、今晩の挨拶は、国家の下山をも暗示していました。
人生は寿命があります。60歳や70歳を過ぎて下山を考えるのは無理もありません。登山は頂上しか見えませんが、下山は景色が見えます。地平線が見えます。
それに対して、国家の寿命はわかりません。滅びる事もあれば、続く事もあります。いえ、続けなければならないのです。
国家はともかく、人には、下山の時期があります。会社の社長、国家の首脳、その他、いろいろな立場があり、いろいろな下山があるわけです。麻生さんはどうするでしょうか?
景色が見え、地平線が見える下山を楽しむ人生にあこがれを抱きます。