2025年1月25日(土)、名古屋市 中村公園 へ行ってきました。その様子を数回にわたって紹介します。
中村公園の位置は・・・名古屋駅を西方へ2.4kmほどの所にあります。
地下鉄東山線「中村公園」駅3番出口から徒歩10分です。
拡大してみましょう。
今日、第1回は中村公園までです。
地下鉄東山線「中村公園」です。
観光に力を入れています。
階段を上ると次のような展示が・・・・
中村の里です。
絵入りの図です。わかりやすい!
大鳥居です。
- 地下鉄東山線中村公園駅の真上に立つ、高さ24.2m、柱直径2.4mの巨大な鳥居です。
- 中村が、名古屋市に編入されたのを記念し、昭和4年(1929年)に建てられました。
- 豊国参道の入口にあります。
豊国参道の碑がありました。
周辺地図です。
左が北です
観光案内です
有名な和菓子の考和堂です。
HP http://ohagikowado.nagoya/index.html
動画で和菓子の作り方を見ることができます。⽼舗和菓⼦店の栗おはぎの作り⽅を初公開【ずっと⾒てられる職⼈のワザ】
▼内容 00:00 熊本県産の栗を⽔洗いし、汚れやイガを取り除く 01:57 洗った栗をせいろに並べて蒸す。 02:58 蒸し上がった栗を機械で細かくしていく。この時に状態の悪い栗を選別する。 05:33 ⼿作業でうらごしをしながら、残った⽪などの細かい不純物を取り除く。 06:51 砂糖・⽔・裏ごしをした栗を⽕にかけながら混ぜ、ゆっくりと⽔分を⾶ばす。 この状態を「栗粉」と呼び、「栗きんとん」のもとにもなる。 10:39 もち⽶を蒸し、砂糖と⽔を混ぜて蒸らす。 14:41 完成した栗粉をさらに裏ごしし、細かくするとともに残った不純物を取り除く 15:02 ⽩あんと栗粉を混ぜ「栗あん」にする 18:15 もち⽶を栗あんで包んで完成
【ずっと見てられる職人のワザ】老舗和菓子店の草餅の作り方①【餡】
【ずっと見てられる職人のワザ】老舗和菓子店の草餅の作り方②【生地】
【ずっと見てられる職人のワザ】老舗和菓子店の草餅の作り方③【包餡】
最近見なくなった公衆電話。周囲の景観に溶け込んでいます。
豊国参道の松並木。
剪定も大変です。
豊国神社が見えてきました
沿道では、地元出身の武将を紹介しています
蜂須賀正勝(小六)です
蜂須賀正勝は、大永6年(1526)、尾張国海東郡蜂須賀村(現あま市) の土豪 蜂須賀正利の子として生まれた。 当初小六と名乗り、美濃の斎藤道三に仕え、ついで清洲 (清須)の織田信長の家臣となった。 さらに10歳年下の豊臣秀吉に従い、天正8年(1580) の播磨三木城攻めの功により竜野城を与えられた。 四国攻めなど軍功を重ね、 阿波一国(現徳島県)の支配を秀吉から約されたが、高齢を理由に固辞し、阿波は長子家政に与えられた。
正勝は大坂城の秀吉に仕え続け、 天正14年(1586) 61歳で没した。 秀吉が最も信頼した側近の一人であった。
正勝没後、小六の名で盗賊をしていた若き日の正勝が、 日吉丸と名乗っていた幼い秀吉を三河の矢作橋で見出すという話が生まれた。 矢作橋は当時まだなく作り話とされているが、 小六と秀吉の出会いとして親しまれている。
加藤清正です
加藤清正 (1562~1611) は尾張国愛知郡中村で生まれた。豊臣秀吉の一族であった縁から秀吉に仕えたという。 天正11年(1583) の賤ヶ岳合戦で武功をあげ、 秀吉の九州平定後肥後北半国を与えられ、 熊本城を建てて居城とした。
慶長3年(1598) に秀吉が没すると、遺児の秀頼を守りつつ徳川家康に接近し、慶長5年の関ヶ原合戦では家康に属した。 慶長15年には、名古屋城天守石垣の普請を家康に命じられ、来名した。 この時、父母を弔うため故郷中村の妙行寺本堂を再建したと伝えられる。翌年の二条城での秀頼と家康の会見に臨席し、その帰路発病して50歳で没した。
この肖像画は、蛇目紋をつけた烏帽子形の兜をかぶり、片鎌槍を持つ清正を描く。 勇猛な武将であるとともに築城や治水に秀で、 名君として慕われた清正の実直な人柄がうかがえる。
福島正則です。
福島正則は、尾張国海東郡(現あま市)の出身で、幼名は市松。
母が豊臣秀吉の叔母であったともいい、幼い時から秀吉に仕えた。 天正11年(1583) 賤ヶ岳合戦の活躍により5千石を与えられ、いわゆる賤ヶ岳七本槍の筆頭とされた。 伊予今治城主を経て、文禄4年(1593) 清洲 (清須) 24万石の城主となった。
慶長3年(1598)に秀吉が没すると石田三成と対立し、同5年(1600)の関ヶ原合戦で徳川家康につき、その功により安芸広島49万石を与えられた。 しかし元和5年(1619) 広島城の無断修繕を理由に改易され、 信濃高井野藩4万5千石に移された。さらに寛永元年(1624) に正則が死去すると、 幕府の使者の到着前に遺体を火葬したとして高井野藩自体が取りつぶされた。
秀吉子飼いで怪力・剛直の猛者としての逸話も多いが、晩年は江戸幕府に翻弄され、不遇であった。
豊臣秀長です。
秀長は、豊臣秀吉の異父弟として尾張国中村に生まれた。 織田信長の家臣として頭角を表しつつあった秀吉につき、木下長秀と名乗った。天正3年頃から羽柴姓にかえ、天正10年(1582) に信長が本能寺で明智光秀に倒されると、天下をめざす秀吉とともに行動し、 秀長に改名した。
天正13年(1585)、四国出兵の軍功により大和、紀伊、和象を秀吉から与えられ、大和郡山城を居城とした。さらに大納言に任官し、 大和大納言と称された。
温厚で優れた人物であったといわれ、数少ない血縁者として秀吉を支えたが、天正19年(1591)、 病により世を去った。 実子は幼い頃に没しており、 郡山城は養子となっていた甥の秀保が継いだが、その秀保も文禄4年(1595) 17歳で死去したため秀長の家系は断絶した。
そして豊臣秀吉です。
天下人秀吉は、 天文6年 (1537)、 ここ尾張国愛知郡中村で生まれた。当初木下藤吉郎と名乗り、織田信長に仕えた。 天正10年(1582)、 本能寺の変で信長が明智光秀に倒されると、 光秀を討ち、信長の実質的後継者となった。 さらに全国を統一し、 刀狩や検地などを行なった。 関白太政大臣となったのち、天正19年(1591) 養子秀次に関白をゆずり太閤と称した。 慶長3年(1598) 愛児秀頼を徳川家康らにたくして世を去り、豊国大明神としてあがめられた。
慶長20年(1615) の大坂夏の陣により豊臣氏は亡びたが、秀吉は庶民の英雄でありつづけ、今も人気を集めている。
豊国神社の鳥居です。ここから奥が中村公園です。
【サイクリング】豊国参道
2018 中村区区民まつり紅葉狩車(豊国神社参道)
明日、第2回は、妙行寺です。
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