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龍馬伝

2010-01-05 12:51:34 | 社会科こぼれ話
一昨日は、NHKの新大河ドラマ「龍馬伝」を楽しみました。関東地区の平均視聴率は23.2%で、まずまずというところでしょう。

私が最も強く感じたのは、土佐藩の上士・下士(郷士)の差別の激しさです。

もともと土佐藩は、その区別が厳しかったことで知られていました。
関ヶ原の戦い以後、山内一豊が土佐に入った時、それまで土佐を支配していた長宗我部氏の家臣団や郎党らを下士とし、山内家家臣らを上士としたのです。

徳川幕府の,譜代・外様の違いと同じようなものです。

しかし、番組でもあったように、祝言の羽織も、上士に諫められていました。この他にも、足袋や下駄、日傘の着用も上士しか認められないことに気づきましたか?

実際に、この後、井口村で刃傷事件が起り、下士と上士の対立はさらに深まります。
それに嫌気がさしたのか、その翌年、龍馬は脱藩します。

他の藩でも多少はあった対立ですが、なぜ土佐ではこれほど激しかったのでしょうか?

その原因の一つが、山内一豊の統治ではないかと考えられています。
もともと、土佐は統治が難しいところでした。家康は、だから一豊に委ねたのでした。
一豊はこうした状況を十分に把握し、プレッシャーもあったことでしょう。短期間のうちに政情を安定させようと、武力で封じ込めようとしました。

最も有名なものが、種崎浜の惨事です。

長宗我部の遺臣(一領具足)に手を焼いた一豊は、入城祝いのすもうの試合を催すという偽りの布令を出しました。根っからのすもう好きな土地柄。土佐中から力自慢が会場の種崎浜に集まります。実際には、長宗我部の遺臣ばかり73名。そこで、隠していた鉄砲で皆殺しにしてしまったのです。

この粛正により、一領具足の反乱は一気におさまったのです。大きな遺恨を残して…。

これもあり、上士・下士の対立は根深く、これが明治維新の一つの力になったのです。

ちなみに、幕末に土佐勤皇党を結成した武市半平太や坂本龍馬らは下士であり、一方、明治維新後に重役に就いた土方久元、後藤象二郎や板垣退助らは上士でした。

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