寺越武志さん一時帰国のときの話(R6.3.5)
令和6年3月5日火曜日「荒木和博のショートメッセージ」第1411号。
蓮池さんら5人が帰国する直前、寺越武志さんが労働組合の代表団の一員としてですが一時帰国を果たしました。
蓮池薫さんら5人が飛行機から降り立つ姿を見て、日本中が湧きました。
しかしその12日前に帰国した寺越武志さんの存在はあまり取り上げられなかったように思います。
テレビでの報道はありましたが、武志さんは中途半端な立場で、もう北朝鮮の人になってしまった印象でした。
最近の内外情勢 2002年10月 | 公安調査庁 (moj.go.jp)
当時の肩書は北朝鮮訪日団体(朝鮮職業総同盟代表団)の副団長として一時帰国(~12日)で、
本人や北朝鮮側は 帰国ではなく、あくまでも訪日との認識だったようです。
良い悪いは別としてそうせざるを得なかった立場だったのです。
蓮池薫さんら5人の帰国は北朝鮮も本人たちも一時帰国のつもりでした。
子供たち(曽我さんは夫)北朝鮮に残していましたから。いわば人質に取られていたようなものです。
それでも北朝鮮には戻りませんでした。
勇気ある決断だったと思いますし、政府間の交渉もあったのではと想像します。
しかし寺越武志さんの場合は北朝鮮人の奥さん、そして子供は北朝鮮に残っています。
更に、当時は父親も北朝鮮に住んでいました。
ですから日本に留まる選択肢はなかったと思います。
拉致被害者は北朝鮮と日本政府に翻弄され、そして今も翻弄され続けているのです。
拉致被害者もそのご家族も日朝両国に「我々の人生を戻せ!」と叫びたいと思います。
2002年(平成14年)10月3日、武志は朝鮮労働党員及び労働団体の代表団の副団長として「来日」し[8]、石川県の生家にも宿泊した。この来日は拉致被害者5人(地村保志・富貴恵夫妻、蓮池薫・祐木子夫妻、曽我ひとみ)が帰国する12日前であったが、日本政府と与党(自民党と公明党)関係者の出迎えはなかった[9]。帰国が近づいた頃、母親が「お前は日本人なんだから日本のパスポートを持つべき」と問いかけたところ、「私は(朝鮮民主主義人民)共和国の人間です。金正日将軍様の配慮で何不自由なく暮らしています」と話し、日本のパスポート所持を拒否した。「13で北朝鮮に行ったとき、本当に親が恋しかった。いま自分には子供がいる。子供に自分と同じ思いを味わわせたくない。自分は子供を捨てることはできません」、武志は母にそう語った[9]。
寺越武志氏のお母さん、友枝さんは今年2月25日に死去しました。92歳でした。
※参考:
北朝鮮船員に「救助された」寺越武志さんの一時帰国から20年…疑念持ったいとこの思い 急がれる真相究明【石川発】|FNNプライムオンライン