この長勝寺は、伊豆に配流されていた日蓮が鎌倉に戻り、この地にあった石井長勝の邸内に草庵を結んだことが発祥と門前の案内に記されています。伊豆配流は「日蓮の四大法難」の一つ。四つの法難とは、松葉ヶ谷の法難(1260年)、この伊豆の法難(1261年)、小松原の法難(1264年)、龍ノ口の法難(1271年)です。何れも命を落とす寸前に救われ、今日の日蓮宗の隆盛があるわけです。
松葉ヶ谷の法難はまさにこの地で起き、日蓮は白猿に導かれ、今の安国論寺の山中にある「南面窟」に隠れ助かりました。その後、下総に逃れ、若宮領主・富木常念(のちの日常)と中山領主・太田乗明(のちの日高)に招かれ、釈迦像を安置した法華堂の開堂供養を行いました。それが中山法華経寺のもとになっています。日蓮、そして日蓮宗にとって、法華堂は特別な意味を持つものであることがこれで理解できると思います。
さて日蓮は、伊豆への配流後、1263年に鎌倉に戻りましたが、その時、この地に草庵を結ぶ場所を提供したのが石井長勝でした。この草庵は後に法華堂となり、名越法華堂として宗門にとって重要な場所となりました。近くの妙法寺にも法華堂がありますが、日蓮が活躍した鎌倉時代にはこの松葉ヶ谷のどこかに法華堂が建てられていたと思われます。
長勝寺の山門横の石柱に「宗門根本法華堂本圀寺𦾔地 石井山長勝寺」と彫られています。別の面には、「寛政元巳酉年九月三日出訴、同四壬子年七月四日御裁許」の文字が読み取れます。江戸時代にこの長勝寺と妙法寺で正当性を主張しあう争いがあったといわれていますが、いずれにしても日蓮はこの一帯を住まいにし、鎌倉での布教活動に励んだものと思われます。