人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 長勝寺 法華堂 ーー

2017-03-20 13:09:11 | 日記

この長勝寺は、伊豆に配流されていた日蓮が鎌倉に戻り、この地にあった石井長勝の邸内に草庵を結んだことが発祥と門前の案内に記されています。伊豆配流は「日蓮の四大法難」の一つ。四つの法難とは、松葉ヶ谷の法難(1260年)、この伊豆の法難(1261年)、小松原の法難(1264年)、龍ノ口の法難(1271年)です。何れも命を落とす寸前に救われ、今日の日蓮宗の隆盛があるわけです。

松葉ヶ谷の法難はまさにこの地で起き、日蓮は白猿に導かれ、今の安国論寺の山中にある「南面窟」に隠れ助かりました。その後、下総に逃れ、若宮領主・富木常念(のちの日常)と中山領主・太田乗明(のちの日高)に招かれ、釈迦像を安置した法華堂の開堂供養を行いました。それが中山法華経寺のもとになっています。日蓮、そして日蓮宗にとって、法華堂は特別な意味を持つものであることがこれで理解できると思います。

さて日蓮は、伊豆への配流後、1263年に鎌倉に戻りましたが、その時、この地に草庵を結ぶ場所を提供したのが石井長勝でした。この草庵は後に法華堂となり、名越法華堂として宗門にとって重要な場所となりました。近くの妙法寺にも法華堂がありますが、日蓮が活躍した鎌倉時代にはこの松葉ヶ谷のどこかに法華堂が建てられていたと思われます。

長勝寺の山門横の石柱に「宗門根本法華堂本圀寺𦾔地 石井山長勝寺」と彫られています。別の面には、「寛政元巳酉年九月三日出訴、同四壬子年七月四日御裁許」の文字が読み取れます。江戸時代にこの長勝寺と妙法寺で正当性を主張しあう争いがあったといわれていますが、いずれにしても日蓮はこの一帯を住まいにし、鎌倉での布教活動に励んだものと思われます。

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鎌倉を知る ーー 安国論寺 御法窟 ーー

2017-03-20 08:21:47 | 日記

江戸時代の『新編鎌倉志』では鎌倉の妙本寺の末寺で「安国寺」いう。門には大永元年(1521)幽賢書「安国論窟」の額、門を入って右の岩窟、『立正安国論』が書かれたところであると紹介されています。

写真は御小菴です。その奥に御法窟があります。この場所で日蓮が書いたとされ、その後、松葉ヶ谷法難の原因となる『立正安国論』には何が書かれているのでしょうか。まず時代背景を理解する必要があります。日蓮がこの書を北条時頼に提出したのは文応元年(1260)。その前、正嘉元年(1257)には鎌倉で大地震。その翌年には大洪水と自然災害が続きました。多くの家屋が倒壊し、路上には行き倒れの亡骸が放置され、そんな悲惨な状況を日蓮は看過できず、時頼に意見書を提出したのでしょう。

手元の『日蓮 立正安国論(佐藤弘夫)』よると、『立正安国論』は客(北条時頼)と主人(日蓮)の問答形式で書かれていますが、二人の「仏法なくして安国はない」という議論の前提となる認識は一致しており、主人は今の世の乱れの原因は仏法の乱れ、その仏法の乱れの原因は、「他の教行を拒否して念仏を専修するという法然的な選択主義にある」としています。この徹底した専修念仏批判が浄土宗門徒の怒りをかい、松葉ヶ谷の法難となるわけです。禅宗や忍性の真言律宗を批判するのは、まだ先のことです。私個人的には、なぜ日蓮が法然の専修念仏批判を繰り返したのかまだよく理解できていません。

もう一つ『立正安国論』では大事な部分があります。それは日蓮が蒙古襲来を予言したとされる 「薬師経の七難のうち五難はすでに起こったが、まだ二難が残っている。他国侵逼の難と自界叛逆の難である」の箇所です。この「他国侵逼の難」が1268年の蒙古から国書到来、1274年の文永の役、1281年の弘安の役を予言したとされています。また「自界叛逆の難」は1272年の北条時輔が討たれた二月騒動といわれています。因みにすでに起こったとされる五難は、疫病の流行、星の運行の乱れ、日食月食、暴風雨、日照りを言います。

最後になりますが、境内には、墓地にIHIや東芝社長、経団連会長を歴任した「ミスター合理化」こと土光敏夫氏の墓、日蓮を信奉した正岡子規の歌碑などがあります。日蓮の生き方に惹かれたのでしょうか。日蓮は人を魅了する不思議な人です。

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