実朝の首塚と金剛寺
葉室 麟の『実朝の首』という小説を読みました。『吾妻鏡』によると実朝の首は公暁に殺されたあと忽然と消えたことになっています。慈円の『愚管抄』では雪のなかで見つかったことになっていますが、葬儀の際は「御鬢もって御頭に用いひ」とありますので、誤って京に伝えられたとあとがきにありました。また江戸時代に書かれた『新編相模国風土記稿』では、東田原村の項に「源実朝の墓 村の中程に在 塚上に五輪塔あり 承久元年武常晴 実朝の首級を当初に持来り」と書かれています。武常晴は三浦氏の家臣であり、三浦氏はのちに秦野の地に移ったといわれています。
ここまでは文献に出てくる記述ですが、これらを題材に後世の小説家や歴史家、評論家が想像力豊かに物語を作り上げてきた訳です。事件は大勢の人がいる右大臣の拝賀式で起きたのですから、実朝の首を取るということは余程のことで、その場にいない誰かに見せる必要があったからでしょう。それが誰か?そして鎌倉から数十キロ離れた秦野に地に実朝の墓伝説があるということ。謎です。
鎌倉国宝館には実朝の首塚にあったという木造の五輪塔が展示されています。首塚の近くにある金剛寺の所蔵で総高154.9cm、鎌倉時代のものと図録にありました。実朝の墓の話は、年代とか場所から推定すると信憑性があるのでしょう。多くの文献に載せられています。
写真は秦野市東田原にある実朝の首塚です。最寄駅から少し離れていますが「東田原中丸遺跡」に隣接しています。この遺跡は鎌倉時代の領主(波多野氏)の館跡とみられる遺構。さらに北側に金剛寺があります。この寺は波多野忠綱が勧請したという伝承がある臨済宗建長寺派の古刹です。
金剛寺はフォトアルバムをご覧ください。