goo blog サービス終了のお知らせ 

人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --泰時が信仰した明恵上人の言葉--

2022-09-24 10:47:03 | 日記

『明惠上人伝記』(平泉 洸全訳注 講談社学術文庫)の巻下は、秋田城介入道覚知、遁世して栂尾にすみけるころ・・。の書き出しではじまります。この秋田城介は安達景盛のことで、承久の乱時、明恵上人を捕縛し六波羅探題まで連れて来た縁で、明恵上人の高徳にふれ心酔した生涯をおくります。さて今回は、明恵上人の人となりを知るために、その言葉を抜き書きしてみました。まずはいただいた松茸のくだり。

●道人は仏法だにも好むと人に云わるるは恥なり。まして松茸好みなど云わるることのあさましきことなり。是を食すればこそかかる煩いにも及び候へ

次は糖桶を頂戴し、藤の皮をはがしさしだされた時のはなし

●糖桶は上を巻きたるこそ糖桶のあるべきようにてあるのに、あるべきようを背きたる

承久の乱時の上人が山中に逃げ込んだ人々を守る言葉

●この山(栂尾)は三宝寄進の所たるに依りて、殺生禁断の地なり。されば敵を遁るる軍士のからくして命ばかり助かりて、木の本、岩のはざまに隠れ居候ばんをば、・・。身命を奪われんことをかへりみぬことやは候ふべき

泰時のどうしたら生死の迷いから離脱できるか、裁判で私曲もなく道理のまま裁くのな罪にならいと思うがどうかの問い

●少きも理に違いて振舞う人は、後生までもなく今生にやがて滅ぶならいなり。其れは申すに及ばず、たとい正理のままに行い給うとも、分分の罪脱れぬことあるべし。生死の助けとならんことは思いも寄らぬ事なり

泰時の「どのような手段で天下を治めたらよいか」の問いかけに、病人に対する名医の処方を答える

●国の乱れて穏やかならず治まり難きは、何の侵す故ぞと、まず根源を能く知り給うべし。・・・。されば世の乱れる根源は、何より起こるぞと云えば、只欲を本とせり。この欲心一切に遍くして万般の禍となるなり。是れ天下の大病に非ずや。

他人がその教えを守らなかったらどうするのか

●其れ易かるべし。只太守一人の心に依るべし。・・・。この正しきと云うは無欲なり

この『明惠上人伝記』には、明恵上人があなたのように道理が分かった人が何ゆえに三人の上皇を配流したり、公卿たちを処罰したかの問いかけがあり、それに泰時が答える場面がありますが、その箇所は省略します。写真は高山寺の石水院の外観です。この建物は鎌倉時代に建てられた国宝であり、この伝記にも石水院の名前が出てきますので、ひょっとしたら明恵上人と泰時がこの屋根の下で語り合ったかもしれません。泰時が影響を受けた言葉は仏法ではなく、明恵上人が語る賢人の言葉だったと思われます。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る --北条泰時と明恵上人 その2--

2022-09-24 08:22:32 | 日記

前回のブログでは、司馬遼太郎が語る華厳について書きました。今回は梅原 猛の『仏教の思想 上巻』(角川書店)からの抜粋です。彼は、6世紀の中国の仏教思想家天台智顗の教説をもとに華厳思想を展開しています。

智顗は、釈迦を一人の巧みな教育者として考え、全経典を五時に分類しました。五時とは、華厳・阿含・方等・般若・法華の五つ。釈迦は寂滅道場でさとりを開き、彼の教えを語りました。そのはじめて語った純粋な教えが華厳なのである。この一即多、多即一の思想は、まことに純粋な大乗仏教の教えであったが、多くの人々はそれを理解することができなかった。それゆえ、彼はレベルを落して、人々の煩悩をのぞくために、はなはだわかりやすい実践的な教えを説いたのである。これが阿含であり、小乗といわれるものである。・・・。智顗は華厳を別教と考え、法華を円教と考える。別教とは、小乗とちがった大乗教の徒のみに説いた教えであるという意味である。それは純粋である。純粋にしてあまりに超越的である。・・・。華厳と天台、この二つの教えは、いずれも中国が生んだ大形而上学である。・・・。智顗は、『華厳経』を釈迦の青年時代の思想に配し、こうして、釈迦の青年時代の純粋であるが未熟な思想となった。

梅原の述べる智顗の教説により『華厳経』の位置づけがぼんやりと分かりかけてきましたが、この智顗の考え方では、何ゆえに明恵上人が厳しい修業のすえに華厳宗を中興したか?、北条泰時らが明恵上人のどこに心酔したか?に対する答えになっていません。なぜなら華厳の教え、例えば「一即多、多即一」の考え方は純粋であるがゆえに難解で、誰にでも理解できるものではないと思うからです。どうも泰時は『華厳経』そのものというより、明恵上人と語るなかで、彼の生きざま、人生観から感じ取るものがあったのはないでしょうか。

写真は高山寺の明恵上人の霊廟です。東側の敷地の一段と高い場所にあり、朝の光がさんさんとふりそそいでいました。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする