江戸時代に書かれた『西国坂東 観音霊場記』の坂東三十三観音の第一番 相模国鎌倉杉本を読んでいると、本尊観音覆面因縁という項があり、そのまま書き写しました。
鎌倉第六代の執権、相模守時頼公の時、建長寺の開山大覚禅師上意に依って当寺に来たり七箇日夜懴法修禅して、袈裟にて本尊の御首を覆ひ奉る(行基大士彫刻の像なり)。かくて後は門前落馬の祟りなし。この故にまた覆面の観音と称す。それより数百歳の星霜を経て覆面の御袈裟今に損せず。この故に世々の住僧たちも秘蔵の面貌を拝する者なし。
さて今は杉本寺の内陣で三体の十一面観音像を拝むことができます。ただ内陣は薄暗くそのご尊顔を拝することは出来ません。この三体のうち一番左側にあるのが行基菩薩作の十一面観音像です。現在はこの像の覆面ははずされ、昭和41年に発行された『鎌倉の彫刻』(東京中日新聞出版局)ではそのお姿を拝することができます。美術本のため美術史学者が客観的にその像を評価しています。十一面観音像は数多く残されており、中でも法華寺、室生寺、聖林寺などの仏像は国宝となっている秀作です。この杉本寺の伝行基作の十一面観音像は、その解説では「素人作で、あるいは修行僧が造立したかもしれないが、制作年代は平安時代も後期であろう。中略。この杉本寺像ではきわめて省略化され、のみ痕もあらわに残して一種象徴的な味わいを見せる」と書いてあります。
さてここからが、何故覆面観音になったかの推理ですが、鎌倉時代の説話集『沙石集』にこんな行がありました。この説話集は無住法師が書いたもので、鎌倉時代には大いに流行った本と言われています。その巻第二「地蔵菩薩種々利益の事」を紹介しましょう。
前文略。古き仏像は、ただそのままにてあがむる一の様也。但し形見にくく、かたはしきをば、律の中には、戸張をかけよといヘリ。みめわろき姫君なんどは、かくれて見えねば心にくき様に、仏も只心にくく覚えて、行者の信心をもよほさるべし。
実に現実直視の文章ですね。私は先の美術史学者の文章とこの『沙石集』の文章、さらに経済に明るい北条時頼の存在を重ねあわせ、この覆面観音さまの話は意図的に創作されたものと考えてています。恐るべし北条時頼、さらに我が妄想。とは言っても、この伝行基作の十一面観音像は素朴で味わい深く、覆面が無くても十分に信仰の対象になりえたのではないでしょうか。
さて後日談。杉本寺の本堂は江戸時代に再建されました。その資金の集めるために出開帳を行ったようです。この三体の十一面観音像が持ち出され、資金集めに貢献したと思われます。もちろん行基作の像は覆面をした秘仏として登場したのでしょう。なかなか信心深い話でした。