人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --杉本寺と覆面観音--

2023-06-28 16:25:41 | 日記

江戸時代に書かれた『西国坂東 観音霊場記』の坂東三十三観音の第一番 相模国鎌倉杉本を読んでいると、本尊観音覆面因縁という項があり、そのまま書き写しました。

鎌倉第六代の執権、相模守時頼公の時、建長寺の開山大覚禅師上意に依って当寺に来たり七箇日夜懴法修禅して、袈裟にて本尊の御首を覆ひ奉る(行基大士彫刻の像なり)。かくて後は門前落馬の祟りなし。この故にまた覆面の観音と称す。それより数百歳の星霜を経て覆面の御袈裟今に損せず。この故に世々の住僧たちも秘蔵の面貌を拝する者なし。

さて今は杉本寺の内陣で三体の十一面観音像を拝むことができます。ただ内陣は薄暗くそのご尊顔を拝することは出来ません。この三体のうち一番左側にあるのが行基菩薩作の十一面観音像です。現在はこの像の覆面ははずされ、昭和41年に発行された『鎌倉の彫刻』(東京中日新聞出版局)ではそのお姿を拝することができます。美術本のため美術史学者が客観的にその像を評価しています。十一面観音像は数多く残されており、中でも法華寺、室生寺、聖林寺などの仏像は国宝となっている秀作です。この杉本寺の伝行基作の十一面観音像は、その解説では「素人作で、あるいは修行僧が造立したかもしれないが、制作年代は平安時代も後期であろう。中略。この杉本寺像ではきわめて省略化され、のみ痕もあらわに残して一種象徴的な味わいを見せる」と書いてあります。

さてここからが、何故覆面観音になったかの推理ですが、鎌倉時代の説話集『沙石集』にこんな行がありました。この説話集は無住法師が書いたもので、鎌倉時代には大いに流行った本と言われています。その巻第二「地蔵菩薩種々利益の事」を紹介しましょう。

前文略。古き仏像は、ただそのままにてあがむる一の様也。但し形見にくく、かたはしきをば、律の中には、戸張をかけよといヘリ。みめわろき姫君なんどは、かくれて見えねば心にくき様に、仏も只心にくく覚えて、行者の信心をもよほさるべし。

実に現実直視の文章ですね。私は先の美術史学者の文章とこの『沙石集』の文章、さらに経済に明るい北条時頼の存在を重ねあわせ、この覆面観音さまの話は意図的に創作されたものと考えてています。恐るべし北条時頼、さらに我が妄想。とは言っても、この伝行基作の十一面観音像は素朴で味わい深く、覆面が無くても十分に信仰の対象になりえたのではないでしょうか。

さて後日談。杉本寺の本堂は江戸時代に再建されました。その資金の集めるために出開帳を行ったようです。この三体の十一面観音像が持ち出され、資金集めに貢献したと思われます。もちろん行基作の像は覆面をした秘仏として登場したのでしょう。なかなか信心深い話でした。

 

 

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鎌倉を知る --杉本寺と光明皇后--

2023-06-28 13:35:54 | 日記

杉本寺は坂東三十三観音霊場の一番札所です。最近参拝する機会があり、ちょっと深堀りしてみました。お寺の由緒によりますと、杉本寺は光明皇后が開基で開山は行基菩薩とされています。奈良時代までさかのぼりますので相当古いのですが、周りの人は誰も信じようとしません。本当に根拠のない話でしょうか?ここは妄想を膨らませないといけません。まず杉本寺の隣に浄妙寺があり、浄妙寺の東側に鎌足稲荷があります。この鎌足稲荷は藤原鎌足ゆかりの社で、藤原鎌足がこの地(鎌倉?)に来た時に鎌を埋めたとされる場所です。本当に来たのか?

茨城県鹿嶋市には鹿島神宮があり、その近くには鎌足神社があります。神社の由緒をみますと、鎌足の父親は鹿島神宮の神官で藤原鎌足はかの地で生まれ、後に飛鳥に上ったと書かれていました。鹿島神宮の歴史は古く、神武天皇のご創建です。まさに神話の世界ですが、奈良の春日大社は鹿島神宮のご祭神を勧請していますので、全く根拠のない話ではありません。当時鹿島神宮まで行くには、古東海道で鎌倉に入り、三浦半島を横切って走水から船で房総半島に渡り、陸路または海路で鹿島神宮まで行ったようです。遠く蝦夷地を攻める最前線に鹿島神宮があり、途中の鎌倉が兵站地になっていたという伝承もあります。鎌(武器)の倉=鎌倉、大きい蔵=大蔵という地名が残っているのも偶然ではないと考えています。杉本観音は古くは大蔵観音堂という名前でした。杉本寺の背後の山(大蔵山)一帯は杉本城址であり、中世では三浦一族が治めていましたが、私はもっと古くからここに館や砦があったと考えています。山頂付近にあった観音堂が後に現在の場所に移されたと『かたちの美』に記されています。

ご存じのように光明皇后は藤原不比等(淡海公)の娘で聖武天皇の妃。藤原鎌足はお祖父さんになります。藤原鎌足がいたこともある鎌倉の地が、聖武天皇の時代には乱れ、それを心配した孫の光明皇后が平安を願い寄進して観音堂を創らせた。この光明皇后にしても同時代に活躍した行基にしても、実際に鎌倉の地を訪れたことはないでしょうが、遠地にいても十分に大旦那の役割を果せた筈です。歴史に記録がないということは、後世に残された伝承を肯定することも否定することもできない訳ですから、最初からあり得ない話だと決めつけない方が良いかと、最近考えるようになりました。

 

 

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