ここ数日、自分のブログのアクセス解析で最近6時間のアクセス数の表示でません。これまでこんなことなかったので故障したのかと、画面を確認しますと60日間ブログの投稿をサボると出なくなると書いてありました。前回投稿したブログの日付は7月26日なので、もう2カ月も経ったのか?・・・。いつまでも暑い日が続いているせいでしょうか、季節の変化を感じなくなった我が身にがく然としました。
さて前置きはともかく、ブログを再開するにあたって、テーマを何するか迷いました。それで訳の分からいないタイトルになった次第です。写真は「染屋太郎太夫時忠邸阯」と書かれた、おなじみの鎌倉町青年団の石碑です。江ノ電由比ガ浜駅から文学館入口信号の手前の民家のところにあります。何度も通っている道ですが、お恥ずかしながら気づきませんでした。石碑の内容は次の通り。
染屋太郎時忠は藤原鎌足の玄孫(やしゃご、ひまごの子)に当たり南都東大寺良弁僧正の父にして文武天皇の御宇(皇紀1357-1362)より聖武天皇の神亀年中(皇紀1384-1388)に至る間鎌倉に居住し東八か国の総追捕使となり東夷を鎮め一に由井長者の称ありと伝えらるるも其の事跡詳ならず。此処の南方に長者久保の遺名あるは彼の邸阯と唱えらる。尚甘縄神明宮の別当甘縄院は時忠の開基なりしと云う
この文章の出典は『鎌倉事典』(白井永二編)によると、『詞林采葉抄』の注にあると書いてありました。また『鎌倉事典』には、鎌倉の始祖的人物。『大山寺縁起』に開基良弁は鎌倉由比郷の人、俗姓漆部氏、当国良将染屋太郎時忠の子とあるのが初見。とも書かれています。
いずれにしても確かな資料のない伝承の話でしょうが、「火のないところに煙は立たず」の譬えもありますので、妄想癖のある筆者としては見逃せない記述ではあります。鎌倉と藤原鎌足の関係については、浄妙寺そばの鎌足稲荷。杉本観音(以前は大倉観音)の開基は光明皇后(鎌足の孫)であること。光明皇后の生きた時代と染屋太郎時忠の時代は重なること。染屋時忠の子が鷲にさらわれ、それを供養するために鎌倉の七か所に塔の辻などの供養塔を建てたという伝承。光明皇后は鎌足ゆかりの鎌倉が乱れているのを憂い、大倉観音堂を創建したという杉本寺の縁起。甘縄神明宮の祭神は天照大御神であるということ。これらの点をつなぎ合わせると、藤原鎌足と鎌倉、鎌足の孫の光明皇后、玄孫と言われる染屋時忠、甘縄神明宮、行基菩薩が開いた杉本寺が結びつき、奈良時代に遡った鎌倉時代以前の鎌倉が見えてくるかもしれません。