北海道でノンビリと

タブタブの何処かへ行こう を改題しました。
何処かへ行く機会も減ってきたので 北海道を楽しもうと思ったからです

最終章

2024-12-31 21:46:07 | 日記
カーテンを開けたら下界が白くなっていた。
それが午後から軽い吹雪になった。

昨日、買い物を終えてから車を車庫に入れたのは正解だった。


数日前に病院で予約した検査をすべて終えたのだが、実は既に病名は出ている。

検査を受けている総合病院で初日に受けたCTと血液検査で予想通りの診断名を告げられたのだ。

照会状を書いてくれたクリニックの先生は、多分※印を付けて 私に読影能力があることを書いていたようで、診察室でCT画像をディスプレイに表示させた状態で、病院の先生は私に「ご自分で読んでみますか?」と云った。

私は画面を凝視し、スライス断面を動かして「コレですねぇ」と云ったら、「さすがです」と先生から お褒めの言葉。

褒められても全く嬉しくない私は、「造影すれば」と云ったのだが腎機能があまり良くないので避けたとの返答。成程と納得するしかない。

MRIを含めて追加検査を受け最後にポツリと先生の口から出た言葉を聞き逃さなかった私。
先生は確かに「●●●の値が少し高くなっているのが気になるのですが・・・」と云った。

炎症でもその数値が上がることはあるが、その特徴である発熱や痛みも無いのだから、これはヤバい上昇の仕方だと思うしかない。

何の病気? と気になるでしょうが、私の口から個人情報を漏らしはしない。

病院の年始休暇が明けたら、家内同伴で再受診することになっている。

改めて病名を告げられ入院、治療方法を告げられるのだと思う。

手術が出来れば、良いのだが・・・・どうなんだろう。
感の鋭いフォロワーさんは、突然祖母のことや両親のことを続けて書いたので、私に違和感を覚えていたようだが、「さすが」と云うしかない。

と云うことで、今回を最終章とした。
長い間、応援して頂きありがとうございます。
もし生きていて元気になれたら、また逢いましょう・・・・・ね。

ピンポイント的 故郷

2024-12-30 21:14:03 | 日記
昔、私が現役で働いていた時、職場は両親の暮らしている場所から2キロ程の所にあった。
少しずつ中性脂肪が溜りポッコリ型になっていた私は昼食を済ませると両親の住む家までウォーキングすることが多くなった。
自分の運動も含め、両親の無事を気遣ってのことだ。

普通に歩くと20分の距離を15分で歩き鉄製の階段を上がって2階にある親の住む家のドアをピンポンもしないで開け「大丈夫? 元気?」と云うのが常だった。

母は私を見ると必ず仏壇に供えていた菓子を私の前に並べて「どれでも好きなのを食べて」と、ウォーキングでカロリー消費を頑張っている私の努力を無にする言葉を発し「俺は痩せるために歩いているんだから 食べない」と拒否すると「美味しいのにねぇ・・・・」と残念そうな顔をして自分の口に入れ私を羨ましがらせた。

父が「最近 胃の具合がわるくてねぇ どうしたら良い?」と云うので「病院へ行けば」と突き放そうと思ったのだけれど、「試しに牛乳を飲んでみたら」と云ったら、それがドンピシャだったようで翌日には珍しく電話をくれ症状が消えたと喜んでくれたのは良いのだけれど、電話口の横にいる母からは色々な種類の牛乳を毎日買いに行かされると嘆かれた。
母は牛乳が嫌いな人だったのを思い出した。

数日後、また昼休みに鉄の階段を駆け上がり玄関のドアを開けたら、ほんの1m先にあるトイレのドアが全開で、父がズボンを全部下げ、尻丸出しで放尿しているのが見えた。

いつも掛ける言葉が口から出ず、尻とお玉ちゃんを眺めていたら放尿を終えた父がこちらを向いて
「おぉ 来たのか」と恥ずかし気もなく、私の2倍はある立派なアレをブランブラン。

「父さんのはデカイんだねぇ」と羨ましそうに云う私に、ブランブランに手を添えて
「これか? もうダメだぁ」と悲しそうに呟いた。

その時、私は確かに見た。
ブランブランの先から、涙のような雫が数滴落ちたのを。

私は家の中へ入らず「じゃ 帰るからね」の言葉を残して玄関から出たのだが、今思い出してみれば、あのブランブランが、私のピンポイント的な本当の故郷ではないかと思った。

滴(しずく)なんか気にせず、きちんと握手して挨拶しておくべきだったと、今頃思っている。

お許しください

2024-12-29 13:36:05 | 日記
一昨日、MRIを撮り昨日は年内最後の検査だ。
心電図をとり、心臓のエコー検査などを行う。

心電図は過去に何度も検査を受けているので、患者として優秀な私は待合室にいる時から準備開始。
上着を脱ぎ時計を外し、両手首を出した。
続いて両足首を出すために、股引を少し上げ靴下も下げた。
外からは見えないが、シャツ類もズボンから出し、ヒョイと上げれば乳首の上まで一秒で露出する。

女性の技師さんに番号を呼ばれて検査室へ入り、荷物かごに私物を入れて検査台に横になり、
「手首と足首が出るように・・・・」と云った時には、既に準備が出来ている私。それを見て、彼女は目を丸くした(笑)

心電図の見方はよく分からないが、心臓が動いているのは確認できた。まだ生きていると云うことだ。

次に心エコー検査。これは初めてだが、エコーを使うのだから多分心臓の弁の動きを見るのだろうと思ったがゴロゴロと機械を運んできた彼女は、「このまま この台で行います」と云う。

体位を少し変えてエコー検査が始まった。「息を吸って止めてください」を繰り返しますから頑張ってくださいと云うのだが、時々息を吸っての後に「息を吐いて」があったりするので少し騙された気がしないでもない。

今度は別室で肺機能検査だ。多分吸ったり吐いたりして肺活量を測定するのだろうと思ったが、考えは甘かった。

「もっと吸って まだまだ吸えるから もっと吸って・・・・」と云う。
もう無理だと思っても赦してくれない。肺が破裂するのではと心配になるほどたくさんの空気を吸った。

そして今度は「そこから勢いよく息を吐きだして・・・」だ。

これだって「もっと吐いて まだまだ吐けるよ 手抜きしないで吐きなさい・・・」と叫ぶ。

ヒールの高い靴を履いて変な衣装を着せ鞭でも持たせれば まるでSMの女王様だ。

私は涙を流し、女王様に赦しを乞いたい気持ちを押し殺し、何度も 何度も命令に従った。

ツルツル

2024-12-27 22:09:56 | 日記
ツルツルだ。
私の頭のことではない。
玄関を出た途端、ツルっと滑って転びそうになった。

昨夜降った雪の後に雨が降り、気温が下がって凍ったようだ。
スケート場のように平面ならまだ良いのだが、至る所に斜面が潜んでいるので油断できない。

後から知ったが、北海道の大部分の地域がツルツルになったらしく、転倒者が続出。
救急車で搬送された人が92名も出たと云う。

それでも車を運転しなければならないのは、検査の予約日だから。
車は勝手な方を向いたりタイヤが空転したりするのでドキドキ運転だ。
国道に出て橋を渡るために交差点を左折しなければならないのだが、何か様子が変だ。

交差点で曲がりきれなかったトレーラーが中央分離帯に乗り上がった状態で動けずにいるのが見えた。
そして中央分離帯の向こう側、反対車線には乗り上げてきたトレーラーを避けようとしてブレーキを踏んでも停まれず、次々と衝突した車が6台ほどいて上り車線を塞いでいる為、通行不能で大行列。

幸い私の走る方向は通行できたので、滑りながらも何とか無事に病院へ到着。検査を受けることができた。

後から聞いたのだが、バスも全線が半日近く運休したらしい。
冬休みに入り帰省のために空港行きの連絡バスを待っていた学生が並んでいたのを思い出した。

飛行機に乗れたのだろうか。
それが心配だ。

部分ハゲの原因は

2024-12-25 23:14:13 | 日記
※またまた昨日の続きのようになるけれど

祖父と祖母が始めた店は、私が生まれた時は移転していて、俗に云う駅裏と云う場所にあった。
未舗装ながらも片側1.5車線はある広い通りに面していて、風呂屋や歯医者に薬局や郵便局、酒屋や市場もある活気ある場所の一角に、祖母の店はあった。

店の奥には、台所や便所に風呂があり、その近くに祖母の部屋、叔母夫婦の部屋、そして廊下の突き当りに父母や私の暮らす部屋があった。

つまり三世代部屋別の同居と云うことだ。

私がしっかり歩けるようになった頃だから多分3歳頃だと思うが、気が向いた時しか相手にしてくれなかった父と部屋の中で相撲をとった。

敵う分けは無いけれど喜んで何回も挑んでいる内に、父に強く押されて仰向けにひっくり返り、頭の右後ろを柱の角に ゴンした。当然私は火の出るように泣いたし、もう父とは相撲をしないと決めた。

柱にぶつかった場所は 線状にハゲた。

数年後、母がそのハゲを見て「どうしてハゲたか知っている?」と訊いてきたので「お父さんと部屋の中で相撲をとっていて投げられ、柱にぶつかって そこがハゲになった」と云ったら「覚えているものなんだねぇ」と驚き
「何処の柱だかも知っているの?」と云うから「部屋に入って最初の右角にある柱」と詳しく説明したら絶句した。

私は得意になって「夜中にお父さんとお母さんが相撲しているのも見たことあるよ」と云ったら、近くにいた叔母が急に忙しそうにして茶の間から消えた。
「最初 喧嘩しているのかと思ったけれどお母さんは泣いていなかったから相撲だと思って安心してまた眠った」と云ったら、父は下を向き、お婆ちゃんは珍しく「バカ」と云う言葉を残して茶の間から出て行った。

今は分かる。喧嘩でも相撲でも無かったのだろうと云うことを。
ゴメンね、余計なことを言って・・・・・

でもそのハゲが残っている限り、私の記憶が消えることはない。