今日の画像は英彦山登山のときのものです。
この本で著者休憩の取り方について特にふれていません。しかし、前回紹介したように、、、、
このような歩き方は、恐ろしくスローペースに見えるかもしれない。だが実際にやってみると休憩を頻繁に取らなくても歩き続けることができるので、目的地まで意外に早く到着できるのだ。
このように書くと言うことは、タカ長と同じような考え方をされていると推察しています。
その休憩ですが、色々な本を見ると50分歩いて10分休憩と言うパターンが一番多いように思います。
50分で10分、30分で5分、その意味は一応理解できますが、タカ長が不満なのは時計を見ながら休憩を決めている、その指導しか無いことです。
山を登るのは生身の人間です。
山を歩き始めて、「なかなか調子が上がらないなぁ、、、、」とか
「やっとエンジンがかかってきたようだ」とか
長期登山の場合は「都会の垢がぬけてきて、3日目くらいから調子が上がってきた」とか、、、、
そのような会話は登山者なら誰でもがしているはずです。しかし、休憩の取り方となると、時計を見て決めることだけ。
そこに不満を感じているのです。
限られた紙数の中で論じるのは難しいのかも分かりませんが、それぞれの登山者の体の状態や心の問題をまったくスルーしているのはおかしいと思うのです。
タカ長の独断ですが、登山関係の本を書く人は皆さん屈強な登山者で、タカ長のような軟弱登山者のことまで心がまわらないのではないかとひがんでしまいます。
この種の本をすべて読んだわけではありませんから、大きなことは言えないのですが、50分歩いたら10分の休憩と言うような指導しか無いとしたら、やはり片手落ちだと思います。
この本で著者休憩の取り方について特にふれていません。しかし、前回紹介したように、、、、
このような歩き方は、恐ろしくスローペースに見えるかもしれない。だが実際にやってみると休憩を頻繁に取らなくても歩き続けることができるので、目的地まで意外に早く到着できるのだ。
このように書くと言うことは、タカ長と同じような考え方をされていると推察しています。
その休憩ですが、色々な本を見ると50分歩いて10分休憩と言うパターンが一番多いように思います。
50分で10分、30分で5分、その意味は一応理解できますが、タカ長が不満なのは時計を見ながら休憩を決めている、その指導しか無いことです。
山を登るのは生身の人間です。
山を歩き始めて、「なかなか調子が上がらないなぁ、、、、」とか
「やっとエンジンがかかってきたようだ」とか
長期登山の場合は「都会の垢がぬけてきて、3日目くらいから調子が上がってきた」とか、、、、
そのような会話は登山者なら誰でもがしているはずです。しかし、休憩の取り方となると、時計を見て決めることだけ。
そこに不満を感じているのです。
限られた紙数の中で論じるのは難しいのかも分かりませんが、それぞれの登山者の体の状態や心の問題をまったくスルーしているのはおかしいと思うのです。
タカ長の独断ですが、登山関係の本を書く人は皆さん屈強な登山者で、タカ長のような軟弱登山者のことまで心がまわらないのではないかとひがんでしまいます。
この種の本をすべて読んだわけではありませんから、大きなことは言えないのですが、50分歩いたら10分の休憩と言うような指導しか無いとしたら、やはり片手落ちだと思います。