自己と他者 

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哲学 知を愛し求めるとは・・・

2004-07-22 08:22:19 | 国際・政治・社会・経済
ソクラテスとカントの哲学について

●ソクラテスの思想について
 「問題なのはただ生きることではなくてよく生きること」それにはまず、自分が知っていることなど何もないことを知っていなければならない。ソクラテスはそれを知っていたからこそ知を愛し求めること、つまり真理を探究することこそが人間にとって一番重要なことだと考えた。
だから彼は、知らないことは何もないというような知識人と呼ばれている人に対して強い違和感を持った。そしてそのような知らないことまで知っているような振る舞いをする人々に、お前は無知だ、ということを議論しながら暴いていった。ところが、この行動は快く思われなかった。そしてソクラテスのこうした知を愛し求める姿勢を邪魔と感じたうちの一人であるメレトスによって裁判にかけられてしまう。若者を新しい神々を導入して、たぶらかしているという理由で。その結果、ソクラテスは死刑判決となってしまう。
これは不正な裁判であったがソクラテスは死刑を受け入れた。なぜなら、不正とはいえ、民主主義であり、言論の自由が存在したアテナイで起きた裁判であったから。この不正裁判、判決で死刑を受け入れるソクラテスに対し、友人のクリトンはこんなでたらめな裁判の判決を受けることなどないではないか、と説得しようとしたが、ソクラテスはこういった。「不正裁判による死刑だからといって、自分が不正行為によってその死刑から逃れたら、その瞬間に自分の今まで言ってきたこと、生きてきたことを否定することになると。」死刑になったからといってそうした考えは揺らがない。なぜなら、ソクラテスの知を追い求める態度は、こうした時間や他人の言葉に左右されない価値観(原則といってもいい)に立脚していたから。人間にとって命よりも大切なものは真理を探究すること。それを自分で否定するようなことは死刑を受け入れることよりも不可能なことだった。
不正な裁判による死刑判決だからといって、不正にその状態から自分が抜け出したら、自ら信じていた不変の原理原則を破ることになる。それは自分を自分で否定することと同じことだった。なぜなら、人生はただ生きることではなくよく生きること、という考えは死刑になる前も後も変わることはない原理原則だったからだ。もし、死刑を不正によって逃れてもその後は、ただ生きる事を意味することになる。だから、彼には不正によって死刑を逃れることなど不可能なことだった。人生をよく生きるには、他人のいう言葉や時間によって変わることのないような不滅の価値観があり、それを守って生きること。それは不滅であり自分自身に当てはまることだけでなく、人間に共通することだからこそ命より大切だとソクラテスは言い切ったのだと思う。この考え方には納得できる。
②講義内容を踏まえてカントの思想について書け
カントは外にものがあるということは証明できない事柄なのになぜ当然のように考えてしまうのだろうかと考えた。それを人間の認識によって説明した。
認識は経験によってなされる。対象が感性に働きかけて印象となり、感性によって対象を捉えた印象は悟性によって結合され認識される。これは、現代の科学で言えば、右脳が感覚的な部分をつかさどるのに対し、左脳が分析的いわば悟性をつかさどっていて物事を捉えているというのと同じでないかと思う。時代を考えると驚く。
さらにカントは、外にものがあるということは証明できない事柄なのになぜ当然のように考えてしまうのだろうかという問いに、それは人間に感性の形式である時間と空間が、悟性には12種のカテゴリーがアプリオリに備わっているからだとした。



CAPITAL

2004-07-22 05:13:28 | 国際・政治・社会・経済
マルクス経済学ですが、資本とは何か?を考えてみます。

 資本は資本主義経済・市場経済が機能するためのエンジン的役割を果たしている。
資本が動かなければ、資本主義経済・市場経済は機能しない。資本が自己増殖する
価値の運動体として自由に動き資本主義経済・市場経済システムが機能するには、
①財産の私的所有が認められていること、
②労働力の商品化がなされていること、
③広範囲で社会的分業が展開されていること、
④遊休資本が存在すること
などがあげられる。

 では、これらの条件の下で資本はどのようにして資本主義経済・市場経済システム
のエンジン的役割をはたしているのか。
 資本主義経済とは、自己増殖する価値の運動体である資本が市場に流通し、
生産・消費・交換・分配が繰り返されることで剰余価値を生みだす経済システムである。
私有財産制と社会的分業の存在によって分離された生産と消費が流通過程=市場
によって結びつけられて貨幣と商品が分配がなされ、再び生産を可能とする。

 資本は一つの形ではなく形を変えて、その目的である剰余価値獲得のための運動を
不断に続けている。どのように資本は形を変えて再生産を可能とするのか。

 貨幣資本を元に、労働力・生産手段である生産資本を手に入れ、その生産資本によ
って商品資本を生み出し、そしてそれを販売することで、再び剰余価値を含んだ貨幣
資本を獲得する。

 このように最初の資本である貨幣資本が一連の過程を経て、剰余価値を含んだ貨幣
資本へと形を変えて戻っていく運動体を資本といい、これを私たちは会社や企業と呼ぶ
ものである。
 ゆえに、この資本の運動はフローレベルでは損益計算書で、ストックレベルでは貸借
対照表などの財務諸表によってあらわすことが可能となる。しかし、これらは資本の運
動を価格によってあらわすもので、商品または貨幣の関係であり、物と物との関係でし
かない。資本における人とモノとの関係はどうなっているのか。
 人と人との関係がモノとモノとの関係になって表れ、この物と物との関係の中で形成さ
れた資本の論理によって逆に人と人との関係を制御する。物象と人格との転倒的な相
互依存関係を資本は作り出す。
 では、人と人との関係がどのようにモノとモノとの関係に媒介されるか。
 資本の人格化によってこのような関係が規定される。資本の人格化とは資本家のこと
である。その資本家の目的はより多くの剰余価値を獲得することである。資本の運動の
中でそれは資本自身の目的となり逆に私的所有者を資本の人格化として関係が転倒
する。これが物象と人格との転倒的な相互依存関係という意味である。