自己と他者 

自己理解、そして他者理解のために
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想像力

2010-10-28 22:44:05 | 日記・エッセイ・コラム・メモ

山合いが続く田舎の福島を訪れた3歳の男の子と4歳の女の子。

家族4人でバカンスを過ごしにやってきたのだった。

しかし、不幸なことになることをこのときはまだ知らない。

男の子と女の子は、森遊びに出かけた。パパは、森へ行く場合には、深く入ってはいけないよ、と何度も言って聞かせた。

しかし、ある日、そんな忠告など忘れ、男の子と女の子は、どんどん、どんどんと奥へと進んでいく。そんな時、バシ、ミシッと小枝を踏みつける音が聞こえた。

ちいさなクマだった。男の子と女の子はまだ小さく、自然のクマさんを観るのは初めて、しかもこれがコグマと来ている。興味深々で近づいて行った。が・・・・、近くには大きなクマがいたのだった。小熊が危ないと思った親熊は、グワッーとものすごい迫力で、子供に襲い掛かり(自然の親グマならどんなクマだろうとそうしただろう)、男の子も女の子も鋭い爪でひとっかきされ、死んでしまった。

戻りが、遅いことに気付いたパパ、ママは森へ探しにでかけるも、自分たちのかわいいまだまだ、小さな息子、娘が無残な姿で死んでいるのを発見。

地元の狩猟会がすぐにライフルを持ち、クマの散策に出かけた。

そして、発見。親熊の爪には、血痕がついており、射殺。小熊も大きくなったとき、やがては親熊を殺された恨みを人間に持つため、射殺した。

これが、たまたま全国報道されたところ、親熊、小熊ともに射殺という見出しだけが先行し、全国から村役場へ、””クマ””がかわいそうだという抗議が殺到した。

さてさて、もし上記のようなことがあった(過去にあったため危険と判断し射殺した)場合でも、クマを射殺したことがかわいそうだったか。地元に住んでいない人間が、単純に上っ面だけ見て、暇だからかもしれないが、かわいそうなどと、クマと長年にわたり共存していた、そこに住んでいる人間の命に危険が及ぶ可能性があるのに、報道に取り上げる意味、上っ面(うわっつら)見てかわいそうなどという発言を取り上げる意味ってなんぞや???

メディアを観る視聴者のレベルが低いから、こういった中身のない報道が流れ、そこに過剰反応した人間にまたメディアのフォーカスが当たるという悪循環に陥っているのだ。

狭い檻に閉じ込められて、餌づけによって人間の観察物と化し、そのまま一生を終える動物園の動物には「かわいそ~」とは感じないのだろうか。

競馬で走らされている馬も同じだ。馬の足の骨は、一度折れてしまうとその複雑な構造により、絶対に治らないという。それが医学で証明されているのに、それをわかっていながら、馬を競走馬として、走らせることをやめようとはしない。これは残酷以外の何物でもないのではないか。人間が馬の立場だったら恐ろしくはないのだろうか。鞭で叩いて、走らせて、足の骨が折れてしまいました、もう使い物になりません、はい、薬殺。即ご臨終。(実際にはそんな簡単ではないだろうが)

本当にかわいそうだと思うなら、電話やメール一本なんぞの手抜き抗議で済まさず、自然のクマを捕獲して、または山を買い取って、責任もって死ぬまでクマの面倒を見てやればよい(クマにとっていい迷惑だろうが)。