ケンのブログ

日々の雑感や日記

長良川鵜飼の小話

2024年06月20日 | 日記
今月の初旬に 岐阜長良川で鵜飼を見たときに とも乗りと呼ばれる、舟尾で舟を操る人が教えてくださった話し。

鵜呑みというたとえがあるほど 鵜は魚を吞み込むのが得意ですが、その鵜でさえも呑み込みこむのに難儀する魚があります。

とれはどんな魚かというと「うなぎ」です。つまりこういうことです。鵜も呑み込むのに難儀しはる、鵜もなんぎする、それで「うなぎ」と呼ばれるようになったそうです。

鵜もなんぎする魚それが「うなぎ」ということでございます。

また、鵜飼は鵜に呑み込んだ鮎を吐き出させることで成り立つ漁法です。

しかし、その鵜も呑み込んだら絶対に吐き出さない魚があります。

それは、鯉です。

なぜなら「こいは、はかない」こういうことだそうでございます。

なるほど、そういうことだったのか、知らなかった。

それはともかく 一日 いちにち無事に過ごせますようにそれを第一に願っていきたい。

名古屋フィルハーモニーの定期演奏会を聴きに行く(第524回)

2024年06月16日 | 音楽
6月15日 愛知県芸術劇場コンサートホールに名古屋フィル第524回定期演奏会を聴きに行く。

指揮は川瀬賢太郎さん

最初に演奏されたのはコダーイの「ハーリヤーノシュ」

録音 生演奏通じて初めて聴く曲なので印象と言ってもよくわからないけれど、全曲を通じて木管が転がるように進むところはなんとなくラヴェルの管弦楽曲を連想することが多かった。

特に曲調が速くなって盛り上がっていくような場面ではラヴェルのピアノ協奏曲ト長調の一楽章や三楽章終盤の盛り上がりを連想しながら演奏を聴いている自分がいた。

僕が20世紀前半の音楽を聴いてしばしばラヴェルを連想するのは、たぶん自分が20才代のころまでに比較的よく聴いていた管弦楽曲はほとんどラヴェルのものが多かったということに起因しているような気がする。

やはり、若いときに得た印象が心の中に物事を感じる時の基準として残るのだなと思う。

次に演奏されたのが
ハイドンの交響曲第45番ヘ短調 告別

小学生のころ初めて買ったハイドンのレコードがアンタルドラティ指揮 ロンドン交響楽団の演奏で ハイドンの交響曲第100番がA面で45番がB面だったという僕にとっては思い出の曲。

でも 演奏前にステージを見渡してみて この曲の管楽器はオーボエとホルンそしてファゴットというちょっと僕にとっては珍しいと思えるような楽器編成だと気づいた。

第一楽章はフレーズごとに強く入ったり弱く入ったりのコントラストがとてもはっきり出ていて、その呼吸がとてもスリリングだったことがとても印象的だった。

演奏の呼吸がスリリングだったことと 会場の空調がこの曲のころから寒くなってきたことが重なって 体に力が入りすぎて こわばったようになってしまったことも印象に残ったことの一つだった。
もう一つ 第一楽章の最後はスッと抜くような感じの終わり方で何回も聴いているのに 「あっ 終わったんか」と思えるようなちょっと拍子抜け感があったことも印象的だった。

たぶん、こういう終わり方は指揮者の川瀬賢太郎さんが好まれるところなのだと思う。

ハイドンの交響曲はたくさんあるので第何番かは忘れてしまったけれど 大阪のシンフォニーホールで川瀬さんの指揮するハイドンを聴いた時も同じような印象を持ったことがある。

第二楽章は本当に弦楽合奏に管楽器が色を添える趣だなということを生演奏を聴いて初めて感じた。

やはり録音を何度聴いていても生演奏は違うなと思った。

三楽章を経て第四楽章でまた音がスリリングに動くさまを感じたとき たまたまコンサートマスターの方に視線が行って 「ああ 第一楽章で強弱の出し入れがとてもスリリングだったのはこのコンサートマスターのリードによるところがきっと大きいんだろうな」と感じた一瞬があった。

その感じ方が正しいかどうかはともかくとして、そういう印象を持つことができるのも、コンサートならではの感動だなと思う。

おなじみの オーケストラの奏者が一人消え 二人消え 最後はバイオリン二人で曲が終わるという場面に接した時に 「ハイドンの音楽はエンタテイメントの中に真心と真実があるんだな」と思って 胸になにかこみあげてきて ちょっと泣いてしまった。


20分の休憩をはさんで次に演奏されたのは
モーツァルトのフィガロの結婚序曲 僕は個人的に この曲はオーケストラ曲の中で演奏至難の曲だと思っているので 多くを期待してはいけないと最初から思って聴いていたのだけれど とてもいい演奏だった。

演奏もさることながら ステージを見るとハイドンのときよりも多くの管楽器が並んでいるのでそれも見どころの一つだった。

最後にリヒャルトシュトラウスの「ばらの騎士」演奏会用組曲が演奏された。

この曲はワルツが結構長いのだけれど もう ほとんどというか まったくウインナワルツだなと思ってその気分に身をゆだねていた。

弦楽器が濃厚に響くような場面では同じリヒャルトシュトラウスの英雄の生涯を連想したり あちこち 頭が飛ぶような状態で演奏を聴いていた。

さて、この演奏会で 僕の席は 自動車のナンバープレートでほしがる人が多いような番号の組み合わせなのだけれど その席に 僕がたどり着いた瞬間に まだホールのバイトを始めて間もないという感じの女の子が「お席ご案内しましょうか」と僕に聴いてくれて、「いやあ いまちょうど席にたどりつきました」と言ったら軽い笑いになって、それも印象深い出来事だった。

演奏会が終わって外に出ても まだ 外は明るくて 夏至も近いなと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事過ごせますように それを第一に願っていきたい。


おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな

2024年06月13日 | 日記
先週 学生時代の友人が岐阜 犬山を訪ねてくれて 一緒に岐阜長良川の鵜飼いを見た。

鵜飼に先立って長良川の川岸で 鵜匠さんによる鵜飼の説明がある。

川岸に鵜匠さんが説明する台が設けてありそのうえで鵜飼の装束をまとった鵜匠さんが鵜飼について一通り説明をしてくださる。

これから鵜舟にのって鵜飼を見る人は川岸でそれを聴くことになる。

説明する鵜匠 それに川に向かって鵜匠を見る形で聴き入る人たち。

そのさまを見て、友人が「これは祭りだなあ」という。

確かにそうだと思う。これから鵜飼のために川に繰り出す出陣式のような雰囲気。

確かに祭りというイメージ。

例えば 岸和田でこれからだんじりで街に繰り出そうとしている人たちの気持ちと相通じるものがあるかも と思った。

舟が川に繰り出したのは午後6時過ぎ。でも夏至に近いのでまだ明るい。

川底の石が見える。 小中学生のころこの川の中流域で泳いでいた記憶をその石が呼び覚ましてくれる。

複数の船が川に繰り出したのだけれど 僕たちが乗った舟の最も近くにいた舟は とも乗り と言って船尾で舟を操る人が女性だった。

そのとも乗りの方の棹(さお)の操り方を見ていると かなり体力のいる仕事なんだなあと思う。

ちょっとした休憩時間にその方が 棹を斜めに立てるようにしてポーズをとっておられるのを見て 川と空の間の空間で長い棹がすっと伸びているさまは美しいものだなあと思った。

そして 葛飾北斎の「御厩河岸より両国橋夕陽見」という版画は舟の真ん中に乗る人が天に向かってやはり棹を立てていて その棹のスッとしたさまが とても印象深かったことを思い出した。

美しさには時と場所が違っても共通するものがあるのだなあと思った。

たぶん そういう 美の共通性を巧みにとらえ 統合性のある芸術が ずっと 後世にも幅広く残っていくのだろうと思った。

一通り鵜飼が終わった後にはあたりはもう暗くなっていた。

おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな 松尾芭蕉

といきたいところだけれど まだ やがて悲しき というには 街はにぎやかだった。

柳ケ瀬界隈はさびれてしまっているのに 長良川 金華山というと やはり 岐阜もいいところだなと思う。








京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く。(第689回)

2024年05月29日 | 音楽
5月25日 京都コンサートホールに京都市交響楽団第689回定期演奏会を聴きに行く。

指揮はヤン ヴィレム デ フリーントさん
ピアノ デヤン ラツィックさんで 
ベートーヴェンピアノ協奏曲第4番が演奏された。

この曲 たぶん 中学生のころハンスシュミット イッセルシュテット指揮 ウィーンフィル バックハウス ピアノのレコードで初めて聴いて、そのレコードをかなり繰り返して聴いたから その演奏が僕の心の中ではスタンダードになっている。

ピアノはとてもうまい けれど ちょっと僕が聴いたこともないようなタイプの音がしばしば出てきた。

第一楽章のカデンツァも僕の耳にはちょっと聴いたことがないタイプの即興演奏のように聴こえる。

ピアノだけでなく オーケストラの演奏も 例えば第二楽章の冒頭など あれだけ 音を短く切って 速いテンポで奏でられるパフォーマンスに今まであまり接したことがない。

僕は ピリオド奏法という言葉の定義を知らないので あいまいな言い方になるけれど きっとピリオド奏法的な表現だったのだと思う。

なので バックハウスのレコードが心の中のスタンダートとしてある僕にとっては とてもうまいけれど ちょっと違和感を覚える という演奏になってしまった。

ちょうど このコンサートの前日に ユーチューブで バーンスタインがショスタコーヴィチの交響曲5番を演奏する動画を見てというか聴いて 現在という時の地点から見れば ちょっと古いスタイルの演奏に思えるけれど 作曲した人の思いに同調しそれを聴き手に伝えるという精神においてはバーンスタインは素晴らしいなと思った。

カールベームさんの演奏なども 最近YouTubeでよく聴いていて やはり スタイリッシュな演奏ではないかもしれないけれど 作曲者の心 そして 長年はぐくまれてきた伝統 そういうものを伝えようとする意識が強いように思う。

そういう 動画を 見た直後に この演奏会でのベートーヴェンのピアノコンチェルトに接したので 新しいスタイルを求めようとする気持ち、自分はこんな表現をしたい という気持ちがややもすれば先行しているように僕には思えた。

うまいということなら とても うまかったと思うけれど、、。

特に 僕の場合は 交響曲第5番に匹敵するような このピアノ協奏曲第4番の主題労作の繰り返しの要素を楽しみたいタイプの聴き手なのでそのように感じたのかもしれない。

僕にとってはかなり変化にとんだ音が出てきたので 「ああ また同じこと繰り返してる」と思える楽しみがやや足りなかった気がする。

でも どうでもいいことかもしれないけれど 関西に住んでいたころは 京都市交響楽団の演奏を聴いて まあ プロなら このくらいはできるだろう と思っていた。

関西を離れて いわば お上りさんとして 京都市交響楽団を聴くと いやあ うまいなあ と思ってしまう。

暮らす環境の変化が思いを変えるのだないうことも感じた。

20分の休憩をはさんで次に演奏されたのがシューベルトの交響曲第1番Ⅾ82


第一楽章の思いイントロからアレグロに進むさまを聴いていて ハイドンのイメージかなと思った。

ただ、第一楽章に限らず全曲を通してハイドンやモーツァルトの交響曲よりも木管がハーモニーを伴いながら朗々と歌う場面も多く やはりシューベルトだなと思った。

そして 木管が ハーモニーを伴って朗々と歌う場面の 幸福感はもうシューベルト以外の誰にも創出することができない そういう 世界だなと思った。

演奏のいたる場面で 指揮者が 楽しそうに踊っているのを見て それもまたシューベルトだなと思った。

第三楽章メヌエットのワン ツー スリーの刻みが かなり早くて鋭く 実質はメヌエットとスケルツォの中間くらいの路線をいっているんだなと思った。

プログラムの楽曲解説に記された作曲年代を見ると1813年となっている。

もうベートーヴェンが 第九以外の交響曲を書き終えた時代の作曲なので いくら古典的と言っても やはり メヌエットもスケルツォに近くなるのかなと思った。
全曲を通して僕にとってはとてもいい演奏だった。

演奏が終わって カーテンコール でも 僕は端の席やからみんなが会場を出るときに すみやかに出られるように帽子をかぶって 会場を出る準備をしていたら 突如アンコール曲が演奏された。

定期演奏会ではアンコールってそれほどあるわけではないけれど 演奏が始まって 数秒後にモーツァルト アイネクライネナハトムジークの メヌエットとわかった。

エレガント ノーブル という形容詞はこういう音楽のためにあるのかな と思えるような演奏だった。

本当によかった。

それはともかく いちにちいちにち無事に過ごせますようにそれを第一に願っていきたい。







名古屋フィル定期演奏会を聴きに行く(523回)

2024年05月19日 | 音楽
5月18日愛知芸術劇場コンサートホールに名古屋フィル定期演奏会を聴きに行く。

指揮はアンガス ウェブウスターさん

最初にJ ウィアー作曲のニュー エヴリ モーニング が演奏される。

演奏を聴きながらラヴェルのダフニスとクロエの夜明けを思い浮かべたり、先月末に名フィルのメンバーの方の演奏で聴いたメシアンの音楽は木管は鳥の鳴き声という印象だったけれど この曲は鳥の鳴き声かな それとも 朝の心象風景かな などど演奏中に考えていた。

金管の音を聴くと これはきらきらした輝きだなとか考えていた。

金管が輝きに聞こえる音楽って僕にとってはシベリウスだけれど このニュー エブリ モーニングは スコットランドで初演されたと演奏会のプログラムに書かれている。

スコットランドと シベリウスのフィンランドの共通点は緯度が高いことかなと思う。

地図で見ると スコットランドはフィンランドほど緯度が高くないけれど それでもヨーロッパの中では スカンジナビア半島をのぞけば最も緯度の高い地域になる。

何となく 緯度の低いところは灼熱の太陽 そして高緯度のところでは きらめく太陽、そんな感じなのかなと考えてみたりした。

というよりも 高緯度の場所は 光と影という印象なのかもしれない。影が多いから日が差すときらめく そんな印象なのかもと思った。

演奏が滑らかに進んでいくので 指揮者の動きを見ると 滑らかだった。

結局は指揮者の動きの通りの音が出るんだなとか 考えていた。

次に演奏されたのがヴィオラ独奏パク ハヤシ さんで
ウォルトンのヴィオラ協奏曲1961年版

演奏を聴いていて もう 僕にとって20世紀の音楽は 決して退屈なものではないのだなと感じていた。

20歳代のころまでは 何となく 20世紀の音楽って退屈 と思っていたけれど もうそういう感覚は 自分の中からだんだんなくなってきているな と思った。
若い演奏家の方も どんどん20世紀の作品の演奏なさるし そういう音楽を聴く機会が増えて慣れてきたというのもあるし やはり 時代が進んできているのだと思う。

それで ヴィオラ協奏曲がどんな演奏だったのかというと あちこちの楽器に目移りしているうちに どんな演奏なのだか 忘れてしまった。

演奏の途中で コンサートミストレスの方が かなり 意欲的に指揮者の傍らから オーケストラに向けて気を送っておられるな と思い始めた。

どこかに 視線を向けて気を送っておられるのだけれど その 視線の先がどこは 僕の席からは判別ができなかった。

でも あれこれ 目移りしているうちに 演奏が終わっていた。

20分の休憩をはさんで
ドボルザークの交響曲第7番ニ短調作品70が演奏された。

第一楽章 第二楽章を聴いていて ドボルザークの音楽は本当に 心をホッとさせてくれる何かがあるんだな としばしば感じた。

これは この曲に限らず 新世界から でも 交響曲イギリスでも 感じることなのだけれど。

こういう 戦争の時代になると こういう ほっとさせてくれる音楽が とてもいとおしいものに思えてくる。

演奏は フォルテでも音量がそれほど 大きいものではなく 先月小林研一郎さんの指揮で聴いたスメタナのわが祖国とは ある意味 対照的だったけれど 僕は 名フィルをきき始めて 案外 音量を抑え気味の時に これって 結構いいやん と思うことが多いように感じる。

第三楽章あたりから コンサートミストレスの方が さかんに オーケストラに気を送っておられるけれど あの気は あまりにも意欲的で 指揮者がオーケストラに送っている気と ちょっと方向性のずれがあるかも と思い始めた。

指揮者の方は 案外 のほほんと そして 滑らかな感じだったので、、、。

あと 指揮者が 突発的に 強い気をオーケストラに送る場面が何度かあったけれど それに オーケストラがあまり反応していないと 感じられる場面もあった。

そんな あれこれが 気になり始めてからは 演奏を聴く 集中力がちょっと落ちてしまい、聴く側の僕にとっては演奏の後半は若干不完全燃焼になってしまったようにも思う。

でも まあ いろいろと 聴いたり 見たり 楽しい演奏会だった。

演奏会が終わったのが18時くらいだったけれど まだ 外は 明るかった。

「外はまだ 明るいね」と話しながら帰途に就く人もいた。

本当にもう夏至も近いなと思う。

それはともかく 一日 いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。