ケンのブログ

日々の雑感や日記

寒い季節

2025年01月10日 | 日記
昨日の午後、名古屋市内を歩いて、風が強く、かなり寒いと感じる。

名古屋で寒い風に当たると「伊吹おろし」という言葉を思い浮かべる。

冬に濃尾平野に吹く寒く乾いた北西からの季節風。

風が北西からどうかは歩いていてもわからなかったけれど 伊吹おろしかなと思う。

名古屋にあった旧制第八高等学校の寮歌のタイトルでもある。

マンションに帰ってくると気温が0度となっている。

やはり寒いなと思う。

一年で最も寒い季節だなと思う。

それはともかくいちにちいちにち無事に過ごせますようにそれを第一に願っていきたい。

京響の第九を聴きに行く

2025年01月05日 | 音楽
今となっては昨年のことだけど12月27日に京都コンサートホールに京都市交響楽団のベートーヴェン第九演奏会を聴きに行った。

北山の駅を降りる。

地上に出ると僕の後方から夫婦と思しきの方の会話が聞こえてくる。

「チケットにLって書いてあるわ」
「Lって左のことやろう」
「そうか左ってどっちから見て左や。わからへんわ」
「そうやな、わからんわ」

普段、関西で暮らしているとごく日常、耳にする会話のパターンだけれど関西をはなれて尾張地方から京都に上っていくと京都と言うか、関西の会話やなあとしみじみ思う。

ほっこりした気持ちになることも事実。

人工知能の台頭の影響も大きいと思うのだけれど、人の口から言葉が出にくくなっているし、出たとしても妙にかまえた中途半端な言葉になってしまったり。

そんな中で 最後までしぶとく生き残るのは案外、関西弁かもしれないとふと思う。

さて、今年の京響第九演奏会の指揮はガエタノ・デスピノーサさん。

第一楽章か第二楽章かちょっと記憶があやふやになってしまったけれど楽章の最後の音が妙に小さかった。そんなところに少しピリオド奏法の影響を感じた。

全体的には僕の感覚だと、アクセントが妙に強いちょっと癖のある演奏に思えた。

指揮者の動きがちょっとオーバーアクションと僕には感じられる場面がいくつかあり、そんなこととアクセントの強い演奏と思ったことときっと関係があるように思う。

ピリオド奏法の影響があると思われたことと関係している気もする。

ちなみに第二楽章の副主題は木管にホルンが重なっていた。しかし、それはワーグナーのように音を雄大に響かせるためのホルンではなく木管に彩りを添えるそいうたぐいの重ね方だった。そんなところにも演奏が必ずしも雄大さを目指したものではないことが感じられた。

オーバーアクションとは関係ないかもしれないけれど デスピノーザさんが頭で頭づきをかますような動きでオーケストラに気を送ったと思える場面もありちょっとコミカルな印象をその時には持った。

デスピノーザさんのプロフィールにイタリア生まれと書いてあるのを見たときには、沖澤のどかさんが京響に就任してはじめての定期演奏会でメンデルスゾーンの交響曲「イタリア」が演奏されたことを思い出した。


僕の音楽におけるイタリアのイメージはあの交響曲イタリア 特に第一楽章の抜けるようにはじける感じ、そしてエレガントさ そういうものだ。

そういうイメージの演奏とは異なるものであったように思う。

木管のアンサンブルが精緻。それはこの日の演奏でとても印象に残ったことの一つだった。


開演前にあらかじめプレーヤの方を目にしていた先入観もあるかもしれないけれど、第二楽章の弦の掛け合いでビオラの音がよく耳に届いて新鮮な印象を持った。

これもプレーヤの方が途中から出てこられて、そこに注目したおかげで、第四楽章、テノール独唱が入る前に木管が歓喜の歌を行進曲風に変奏した旋律を奏でるのはピッコロだと今さらのように気づいた。ちなみにピッコロが出る前のファゴットの音色も心にぐっとくる味わい深いものだった。

自分は楽器の音色を聴き分けるのが困難とさとってから努めて楽器を見るようにしているけれどその成果がひとつ出たなと思った。

コーラスが歓喜の歌を高らかに歌い終えて、終盤のコーラスによるフーガに至る場面でオーケストラのみで緊張感のある旋律を刻む場面があるのだけれど、コンサートマスターの方のリードのもと聴きごたえのあるものだった。

それに続いて コーラスがフーガを歌う時にオーケストラは譜割りの細かい音を刻んでいくのだけれど、そこも本当に弦楽器の方全員が、前向きな気もちで演奏されているように僕には思えて心の充実感を味わった。

そしてこういう場面でのコンサートマスターの役割は大きいなあとステージを見ていて思った。

自分の反省点としてはこの日の演奏会は通常アルトが歌うパートにカウンターテナーが入っていたのだけれどオーケストラの方ばかり見ていて カウンターテナーの方を見るのを忘れていたのが少し残念に思えた。

総括的に思ったことは、第九と言うのはどの楽器も均等に活躍する。そしてそれはソロ的に活躍する場面ももちろんあるけれど、複合的にからみあって活躍するという要素も大きい。要するにソロ的な要素も複合的な要素も均等になっているということ。

つまり第九ほど均整のとれた交響曲は探してもきっとないだろうとおもえるほど均整がとれていると感じた。

木管の充実度はベートーヴェンの交響曲の中でも随一かもと思った。

こういうCDを何度となく聴いても気づかないことに生演奏は気づかせてくれるから、本当にコンサートと言うのはありがたいものだと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。















表向きは標準語だけど

2024年12月15日 | 日記
名古屋の国際交流のイベントに行った。

国際交流の映画を見てそれからパネリストのトークを聴くという趣向のイベントだった。

パネリストの一人は国際交流関係の財団法人の代表理事の方だった。

その方の言葉は表面上は東京の言葉、あるいは名古屋の言葉と思われるような言葉遣いだった。

でも話の運び方がなんとなく 東京や名古屋の人とは違う。

つかみのところで 「私は 東南アジアの人相手に貸しビデオ屋さんをしていましたが、今では随分、すごい人になりました」と言う感じのことをおっしゃったので、ええ、それって関西のノリだと思った。

でも名古屋ではそこでそんなに笑いはでない というかほとんど出ない。

「貸しビデオ屋さんをやってた時は 外人の人もたとえビデオと関係ない個人的な相談でも 『どうしてそんな風なんですか』という感じで電話がかかってきていましたが、外国人のための公的な相談窓口では 『先生 相談したいことがあるのですが』という感じで電話がかかってきます。やはり外国人の方も貸しビデオ屋にはこちらが金を払っていると思うから お客さんの立場でものをいってくるけれど 公的な相談だと かしこまってしまうんですねえ」という主旨の話を聴いた時にはいい話だなあと思った。

同時に これはもう完全に関西のノリだと思った。

それで ちょっと椅子の下に置いておいたイベントのしおりを見るとこの代表理事の方は 伊丹市出身となっている。

やっぱりなあと思った。

僕も言葉の表面上は東京に合わせているように見えてもそれはエセ東京弁で中身は関西となんとなくわかるほど長く関西にいたんだなあと思った。

一回それに気づくともう関西のノリに気付くことの連続だった。

「私たちが簡単な日本語を話すのも大切ですが 外国人のブロークンジャパニーズになれることも大切です。先日ある会社に電話をかけましたら外国人の方が出られて 『課長はいま席がはずれております』とおっしゃってましたが、日本人ならそれで何を言いたいかわかるじゃないですか。そこで理解することが大切です」という主旨の話を聴いた時にはいい話だと思った。そして関西だとも思った。

「パキスタンの女の子のお父さんは、『もう女の子だから中学卒業したら学校は行かなくていいです』 と言うんです。私はそれには抗う(あらがう)べきだと思います」
ああ、イスラムの神アッラーとあらがうをかけた親父ギャクだなと思いつつも なんだか名古屋の親父ギャクとはちょっと違うと思った。

あらがう アッラー パキスタンを結び付けないと面白さがわからないところが奥ゆかしくて関西らしい。

寒う と突っ込まれる危険性もいっぱいのギャグだけれどそういう危険性もいいような気がする。

でも 結局はやさしい方だったなと思う。

関西人なのに表向きは標準語を話されるのもやさしさのひとつのような気がした。

関西弁は関西以外の人には威圧的に思える場合もあるから、、、。

やさしい方だから 国際交流の多様性に配慮のある社会づくりの仕事に入っていかれたような気がする。

あれこれ考えていて結局はその人が培ってきた人柄だなと思うことが多い。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。






名古屋フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴きに行く(第592回)

2024年12月14日 | 音楽
12月7日愛知県芸術劇場コンサートホールに
名古屋フィルハーモニー交響楽団第529回定期演奏会を聴きに行く。

指揮はアントニ ヴィットさん
最初に
シューマン 序曲「ヘルマンとドロテア」が演奏された。

ラマルセイエーズのメロディが頻繁に形を変えて出てきた。ちょうど知り合いの人がフランスに行っているときだったので、フランスに思いを馳せながら祈るような気持ちで演奏を聴いていた。

次にバイオリン独奏 森岡聡さんで

シューマン バイオリン協奏曲 が演奏された。

録音、生演奏、含めてたぶん初めて聴いた曲だと思う。

バイオリンが独奏楽器としてオーケストラと対峙して際立っているというよりも、バイオリン独奏がオーケストラの演奏と融合しているという印象を僕は持った。

たぶん独奏の森岡聡さんが名古屋フィルのコンサートマスターと言うことでオーケストラと独奏者のなんというか心理的な距離が近いことが一因かもと思った。

何楽章とか言うのは忘れたけれどコンサートマスターとバイオリン独奏が掛け合いをする場面があってよく息があっているなと思った。

例えば一楽章でオーケストラ全体が一斉に鳴るようなところは特に何番と言うわけではないけれど シューマンの交響曲を連想しながら聴いていた。

楽想は交響曲を彷彿させる場面でも演奏は音量的にはかなり抑え気味であることも印象的だった。

オーケストラのメンバーの方が遠慮しておられるのだろうかとも思ったけれど、指揮者を見るとやはり大きな音を求めるような動きはされていなかったのできっと指揮者の意図によるものなのだろうと思った。

全体に抑え気味にまとまった演奏であるように僕には思えた。

チャイコフスキー 幻想曲「フランチェスカ ダ リミニ」

演奏の前半 悲劇的な楽想が頻繁に出てきたけれど、弦の高音域がその悲痛さに見合うような音が出ていないように思える場面がしばらくあった。
そんな時には、もう少し 弦の高音域が悲痛さを表現するようなある種の鋭さがあればなあと思いながら演奏を聴いていた。

ただ、演奏が進んで音楽が躍動的になって来るとそのような弦の高音域の音不足のような感覚はだんだん気にならなくなってきた。

結果的にはよく盛り上がって演奏が終わったように僕には思えた。

金管の高らかに鳴る感じ、木管の音が転がるような感じ そんなところでチャイコフスキーの交響曲第4番を心に思い浮かべながら聴いている時間もかなりあった。

チャイコフスキー 幻想序曲「ロメオとジュリエット」

最初は割と静かな曲調が演奏を支配していた。

前に演奏された幻想曲では最初、弦楽器の高音域がもう少し耳に届いてくればという思いで聴いていた場面もあったけれど この曲ではそういうこともなく その意味でリラックスして演奏を聴けた。

基本的に初めて聴く曲という認識で演奏を聴いていたけれど 後半になって金管と絡みながら弦の音が細かく動くようになると、ああ いつかどこかで聴いたことのある音楽と思った。

曲が盛り上がるところは演奏にとても満足することができた。

この日は4曲演奏されて4曲とも実質初めて聴く曲だった。

最近はそういう機会も減っているように思うけれど 知らない曲を聴くときはどうしても自分が過去に聴いた曲と結び付けて聴いてしまうことが僕の場合多い。

もともと連想癖が僕にはあるので、そういう連想をしながら演奏を聴くのもまた楽しみの一つだなと思う。

それにしても、若いころはオーケストラの奏者の方がおじさん おばさんに見えたけれど、最近は奏者のほとんどの方は僕より年下でなんとなくフレッシュに見えるなあと思うことがある。

それはともかく いちにち いちにち無事に過ごせますようにそれを第一に願っていきたい。




屈むと上がります

2024年12月01日 | 日記
ジーンズのお尻のところがだんだん薄くなってきてとうとう破れてしまった。

それで、ユニクロに新しいジーンズを買いに行く。

結局、破れたジーンズと同じ型、同じ色のものを選ぶ。

試着室で試着。

サイズは問題ない。

丈はつめなければならない。

はいているスニーカーをチェックするとスニーカーの上のラインはくるぶしの
丁度下を通っている。

ということは、くるぶしの丁度センターまで来るように丈を詰めればいいかとその場で決める。

隣の試着室ボックスで女性がやはり丈詰めの話をスタッフの女性としている。

その声が途切れたタイミングで ちょっと試着室のカーテンを開けてスタッフに声をかける。

「僕も丈詰めお願いします。順番が来たら声かけてください」と僕。

「あ もう大丈夫です」とスタッフの方。

「くるぶしの真ん中あたりで丈詰めお願いします」と僕。

スタッフの方はくるぶしの上あたりまでジーンズを詰めて安全ピンでとめる。

「いかがですか」とスタッフ。

僕は屈んで丈の下限を指で確かめ 
「もう気持ち下でお願いします」と言った。

「お客様、屈むと丈があがりますので向こうの鏡を見てください」とスタッフの方。

それで鏡を見るとなるほどちょうどくるぶしのセンターあたりに丈の下限が来ている。

丁度 いい感じになっている。

それで僕はもう一度屈んで丈の下限を指さして
「じゃあ ここでお願いします」と言った。

「お客様 屈むと丈は上がりますので」とスタッフの方。

「そうでしたね」と僕。

話しはかみ合わなかったけど 手際よくやっていただけてよかった。

いちにち いちにち 無事過ごせますように それを第一に願っていきたい。