4月13日 京都市交響楽団の定期演奏会を聴きに行く。
指揮はペドロ アルフテルさん。
最初にバイオリン独奏 辻彩奈さんで
プロコフィエフのバイオリン協奏曲第2番が演奏される。
第一楽章を聴いていて、バイオリンが柔らかい感じと思ったことと オーケストラと調和していると思ったことが印象に残っている。
プロコフィエフの時代になると チャイコフスキーのころとは違い バイオリン協奏曲はバイオリンとオーケストラが対峙するというよりも バイオリンがオーケストラの演奏の一部に溶け込んでいるというコンセプトになってきているのかなと思った。
第二楽章の木管を中心に奏でられる延々と続く3連符はちょっと神秘的だなと思った。
指揮者のアルフデルさんはこの曲の第三楽章はスペイン情緒が漂っていてカスタネットも使用されるという主旨のことをプレトークで語っておられたけれど なるほどスペイン風の音楽だなと思った。
そして、後でアルフデルさんのプロフィールをプログラムで見ると、スペイン、マドリード生まれとなっていた。
本当に ヨーロッパ、ロシアは陸続きでいろんな文化が行き交うなと思う。
僕はオーケストラの音楽でカスタネットが出てくる場面というとチャイコフスキー 白鳥の湖のスペインの踊りを真っ先に思い浮かべるというか、それしか思い浮かばないけれど、プロコフィエフのカスタネットも小気味よくていい感じだった。
指揮者アルフテルさんの動作を見ていて 優雅なところと快活なところのコントラストがエレガントだなと思った。
20分の休憩をはさんで次にリヒャルトシュトラウスのアルプス交響曲が演奏された。
CDはアンドレプレヴィンさん指揮のものを持っているはずだけれどもう何年も聴いてないなと思う。
交響詩と同様いろんな場面が出てくる音楽で、いろいろ変化に富んでいて楽しく聴けた。
トランペットが細く鳴ったりするとマーラーを思い浮かべたり、音楽が巨大になるところではワーグナーを思い浮かべたり、僕の連想癖をいろいろ刺激してくれる音楽だった。
この曲は、最初は人間が自然に挑むというところから始まるけれど 最後は結局自然は人間を超える存在だというところでおわるという主旨のことを指揮者のアルフテルさんがプレトークで語っておられて また それは現代の私たちがまさに直面している問題という主旨のことも語っておられたように思う。
そんなことも考えさせられる演奏になるのだろうかと思ったけれど 実際演奏が始まるとあちこちの楽器に目が行ってしまったり 曲が長いので、途中でボーっとなってしまったりで あまりそのようなことを考える余裕はなかった。
たぶん嵐の場面だと思うけれど ヒューっという感じの音が聴こえてきたので あれは何だ と思ってみると ちょっと見たところ ドラム缶の3分の2くらいの直径の円筒に布を巻き付けたような奇妙な楽器をパーカッションの方がぐるぐる回しておられた。
あれは かなり 体力を使うというかちょっとしたアスリートのトレーニング並みの負荷なのではないだろうかとそれを見ながら考えていた。
風が強くなったり弱くなったり抑揚もうまくついていたのでなおさら大変だなと思った。
当たり前の話だけれど ただ ぐるぐるまわせばいいというものではないので、、、。
楽器を作る人も あまり摩擦係数の高いものを作ってしまうと演奏家に負担をかけてしまうし でも 嵐の風の雰囲気は出さなくてはいけないし いろいろ工夫が必要かも と考えていた。
コンサートが引けて 四条まで戻ってくると 四条の地下街でヨーロッパ人と思われる外人の女の子が両親と歩きながらスキップしていた。子供がスキップをするのはあまり人種に関係ないのだろうかとそれをみながら考えていた。
河原町と烏丸の間にあるサイゼリアの前を通った時 本当にかれこれ20年くらい前にここに入ったことがあるなと思い出して入ってみた。
たまにはサイゼリアもいいもんだなと思う。
それは ともかく 一日いちにち 無事過ごせますように、それを第一に願っていきたい。