硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

謎が解ける。

2013-04-30 08:40:19 | 日記
軍歌をよく歌われるお年寄りがいる。現代ならばその思想に疑問をもつ方も見えるけれども、年齢から考えるとそれはごくごく普通である。

しかし僕の謎はそこではないのです。そのお年寄りが口ずさまれる曲の中の歌に「歩兵の本領」という歌があるのですが、認知症も進んでいるので、歌詞がばらばらで単語もおぼつかない。したがって歌詞の意味も分からないのだけれど、何度も聴いているうちに力強く歌う部分の歌詞は間違っていなさそうなので、ネットで検索すると「歩兵の本領」という歌であった事が分かった。

しかし、僕がもっとも不思議であったのはこのメロディーがすぐ覚えられた事。歌を聴いていると違う歌詞がぼんやりと僕の中に浮かんできた事なのです。

ネットの素晴らしい処は此処である。そのルーツ、そしてその後どう転じていったかが調べられているので、ぼんやりとした記憶を辿り気になる項目をクリック。

すると意外な事実に辿り着いたのです。

「歩兵の本領」のメロディーは「聞け万国の労働者」と言う歌に転じて歌い継がれていて、それを以前耳にした事があったのです。


それは、遠い遠い昔の話。僕が社会に出たばかりのゴールデンウィーク。メーデーという集会に強制参加という形で参加した時の事です。

その頃は社会がどんなものか全く興味がなく、沢山の企業の労働組合が集まり旗を揚げ壇上から声高らかに述べているおじさん達やよく分からない行進が政治結社のデモ行進と重なり、今は何も感じなくなったが、当時は不快であったことをうっすらと覚えています。

そして、その会場で流れていたのが「聞け万国の労働者」だったのです。ユーチューブから流れる歌は僕の中の埋もれていた記憶を掘り起こしてゆく。

メーデーと言う集会はその後、何年かして「家族で訪れる事の出来る行事」へと姿を変換していき、「あの集会」ではなくなった事に安心感を感じた記憶があるが、もうずいぶん昔の話なのでそれもぼんやりしたものでしかない。

色々調べてみると改めて分かった事や疑問に思う事がいくつか出てきたけれど、それはまた成熟させてから述べる事として、もやもやしていたものがネットと言うツールを使いスッキリさせた瞬間は大変うれしかったのです。

本当にいい時代です。




欲のない時ほど感覚は鋭い。

2013-04-28 19:05:57 | 日記
今日の午後。職場のテレビが競馬中継を映していた。お年寄りは馬の走る姿を観て喜んでいる。僕は洗い物をしながらその様子を観ている。朗らかな午後の一時である。

しばらくするとG1レースの天皇賞が始まろうとしていた。しかし、博打の才能がない僕は競馬の事もよく分からないので「ふ~ん」という位の関心のなさである。

とにかく勝負事は弱すぎる。目覚ましじゃんけんも面白いほど引き分けか負けである。勝った日などは悪い事が起こるんじゃないかと思うくらいの「引き」の弱さである。

ガシャンという音と共に馬がゲートから走り出した。その時頭の中で「6」の馬が一番で走り抜けるイメージが湧いた。

「6番の馬が一位になる。」と口にすると。他の職員さんが「へぇー」といった。

自身の引きの弱さを自覚しているので「当たるわけがない」と思いつつも、その行方をちらちらと観ていた。

テレビの実況が盛り上がってきて勝負がついた事は分かったけれど、どの馬が一番になったのか分からなかった。

洗い物の手を止め、テレビの前に向かう。リプレイが始まりじっくりと観たらなんと「6」番が先頭だった。

他の職員さんは「当たりましたねぇー。馬券買っていたらよかったのにね。」と気楽に言う。

しかし僕自身は恐怖を感じていた。両腕もぞわぞわする。

そして、考える。泡銭を稼いでやろうと、頭に血を登らせている時は当たらないのに、欲のない時ほど感覚は鋭くなるものなのかと・・・。

いや、今日のはただの偶然で、誰にでも訪れるたまにあるラッキーでしかない。しかし、そう考えるのはやはり才能がないという事の表れなのかもしれない。

そして思う。勝負事は向いてないのだなぁと。


少し頭を冷やして考えてみた。

2013-04-25 20:49:02 | 日記
昨日の続きです。お暇な方はしばしのお付き合いを・・・。

昨日、ニュースを観て不快感が僕を支配した。その勢いでブログを綴ってしまったが、布団に入る頃にはこの感情はなんだろうかと考えていた。

今日も仕事をしつつも自身の感情や袖山氏の行為について考えていた。

上手く整理がつかない。何かが足りない。そんな感じがしています。

袖山氏が強姦容疑で逮捕されたのは、訴えた人がいるからである。被害者は無論女性である。

同意のもとであった。というコメントは言い逃れかもしれないし、真実かもしれない。

ホテルで二人きりという空間であるのだから、彼がいい人であってもまったく表裏がない人だとは信用できないと思う。

しかし、snsを通して知り合っていたのだから、逢う前からその関係はより身近に感じられるものであったかもしれない。

snsでのやり取りが、彼女を安心させ信頼できる人であると思わせていたならば、彼の行為にはさぞかし絶望したであろう。その結果が告訴という形で現れたのだろうと思う。

もし彼が彼女の思いに対し誠実に仕事の話を語りたいのであれば、ホテルと言う場所でなくてもよかったはずであるし、仕事の話を聴きたい、もしくは聴いてほしい、話がしたい。だけであれば彼女はホテルと言う場所を避けるという選択があったはずである。しかし、彼女の性格が大人しくて優しい人柄であったのならば、彼の選択は最初から「それ」を狙っていたという事になる。

このように考えても、もやもやするだけである。

不快感が僕を支配した理由は別の処にある気がする。

もしかしたら、一歩間違えれば自分もああなっていた可能性があったかもしれないという自戒と、彼の行いによって真面目に取り組んでいる者が被害を被るのではという怒りと、この事により介護という職業はより下層下流へと押しやられるのではないかと言う危機感と、若者の夢と希望を奪う職業倫理が伏流している事が世間にじわじわとシミ出てきているのではないかというやるせない気持ちが入り混じってしまったのだと思う。

介護の仕事は、安値で他者に振り回されなければ対価を得られない仕事である。したがって、個人主義、市場主義の資本主義の思想な人にとっては大変つまらない職業となる。しかも物に支配され消費する事が快楽である事を植えつけられた人達には不快でしかない。しかし、自身のスキルがその職種でしか対価を得る事が出来ない人達が多数を占めているとしたら、その職業の質はどうであるか。

おそらく、自己の権利を放棄し質の向上させるよりも、自身の権利を保持する事を要求するであろうと思う。

世の中に住む目に見えない魔物は次第に私達の心を蝕んでゆくような気がするのです。

倫理や道徳が万人に向けて定義する事が出来ない以上、仕方のない事かもしれないけれど、まず、社会福祉を放棄できない事実があり、有権者の安心と安全を確保せねばならぬ人がおり、貨幣を効率よく沢山集め、なるべく薄く広く還元した成果が自身のステージを上げる事につながる人がいて、いかにしてそこからより多くのお零れをかき集めるか躍起になっている人達によって社会が成り立っていると思うのです。

そのような社会構造の中に非言語の魔物が潜んでいる気がするのです。

袖山氏はどうしたかったのだろうか。ひょっとすると、こういった構造を分かっていなかったのかもしれない。

いや、分かっていたからこそ、女性で躓いてしまったのかもしれないが、他者の心は誰も理解できないのである。

諦め感が支配しつつある介護現場であるけれど、そこで生きなければならない人がいるのは確かである以上、矛盾した社会であったとしても僕たちは明日も生きていかなければならない。

できれば、誰も傷つけることなく、なるべく笑顔をもって心朗らかに生きていければいいなと思うのです。



さようなら「笑う悔悟士」

2013-04-24 16:57:46 | 日記
「笑う介護士」というニックネームで呼ばれていた袖山卓也さんが強姦容疑で逮捕された。

業界では有名な方で、僕も彼の講演を聴講した一人である。その時の印象は「男前でコミニュケーションが巧みな勢いのある出来る人」である。講演の内容は実践に移してみようかと言うほどの事はなかったけれど、こういう人がリードしてゆくのだなぁと思いながら彼の話を聴いていた。

しかしである。女性に対し「介護の話をしよう」と誘ったうえ「愛人になってほしい」というのだからあきれてしまう。

美人を前に据え膳食わぬはなんとやらという気持ちも分からないでもない。しかし、巧みさと勢いは仕事で発揮するべきで、自身の立場を理解し気持ちを抑えるべきであったと思う。驕りがてでしまったのだろう。

メディアに露出し「介護現場」を語る人であったので、彼の存在に期待していた部分もあった。

実につまらない幕切れである。


恋愛は。。。

2013-04-23 19:11:37 | 日記
随分気候が善くなった。寒さが身に応える僕にとっては嬉しい限りである。

今日は隣県の県立公園へ足を延ばしてみた。僕の住む街から「古都」まで車で2時間弱。嗜好の変化もあり歳を重ねるごとにこの距離の有難さが増している。

いつもそうなのであるが、運転の主は妻である。別に押し付けているわけではなく、運転が好きだそうなので込み入った場所以外は任せて口は出さないのがルールである。自動車道等での僕は助手席で睡眠か読書である。

話を戻しまして。

公園を歩く。初々しい新緑、柔らかな日差し、自然に調和したお寺等の建物等が本当に美しい。志賀直哉が「兎に角美しい」と思った気持ちが現在でもなんとなくわかる気がします。

しばらく歩いていると、仲の良いカップルが僕を追い越して行った。

スーツ姿の紳士と可愛らしさを自然に醸し出している女性であった。しかし、よく観察すると二人とも50歳前後。

夫婦という感じではない。どちらかといえば恋人同士という言葉がピタリ当てはまる。

手をしっかり握り歩いている。女性は無邪気に話しかけ、男性は目じりを下げてその言葉に頷いている。

表情から、二人の気持ちの高揚がありありと感じられる。

突然、男性が少年のような行動に出ると、その姿を観た女性は声のトーンを上げ少女のようにおどけている。

僕から見れば年上なんだけれども、その初々しさに思わず顔がほころぶ。

そして、その横を何事もないようなそぶりで追い越して行く。

恋愛は年齢に関係なくときめきを感じさせてくれるものなんだなと改めて感じる。

しかし、残念な事に現実主義の妻は僕のそんな気持ちを理解してくれない人なので、ばれないように小さく「淋しいなぁ」と呟いて、霞がかった空に目をやったのでした。







めちゃイケは面白いけれど・・・。

2013-04-21 09:41:30 | 日記
昨晩久しぶりに「めちゃめちゃイケテル」を観た。20代の頃は毎週欠かさずに観ていたけれど、嗜好が変わったせいか妻にチャンネル権を譲っているせいかトンと観なくなった。

番組内容は、よいこ濱口さんのボケ回答でブレイクしたあの「め茶の水」である。

今回は今を時めくakbのメンバーであった。

イメージが悪くならないかなぁと思うような思いきった企画。それでも番組を面白く仕上げようとしているナイナイの二人やスタッフの意図が感じられる。これぞバラエティという感じである。

akbのメンバーさんもいじられながらもこの企画を理解しついてゆこうと頑張って笑いを提供している。しかし少女なので時頼「素」の部分が垣間見れる。そこをうまく引き出している岡村さんの手腕が素晴らしいと思った。

そんな岡村さんもさんま師匠からダメ出しを受けているのだそう。しかし着実にお笑いの職人として前進していてかっこよい。

akbファンからは賛否両論であろうけれど、声を嗄らして番組を盛り上げている岡村さんは素晴らしいのである。

akbのメンバーさんも個性的で、あの集団の中で自身の身を置く事、メディアに露出してこそ、対価を得る事が出来るという職業であるから、自身のキャラクターをいかにアピールするかさぞかし大変であろうと思った。

アイドルになりたい人は山ほどいるけれど、可愛いだけでは生き残れない。残るのはほんの一握りの人たちである。運や実力、才能や選択がその運命を左右するのだろう。

しかし、その要因も必要不可欠であるとは思うけれど、真摯に番組制作に取り組むスタッフや岡村さん等の熱意を感じて、がんばってついてゆこうとしたメンバーのみがテレビと言うメディアの中で残ってゆくのではないかと思ったのです。

そして、大島裕子さんのメディアへの露出が多い事、ファン投票が上位に選ばれ続けている理由が分かったような気がしたのです。彼女の頑張っている姿を観ていて、現在売れている女優さんの何人かが彼女のように頑張っていた時期があった事を思い出したからなのです。

それはさておき、本題は「めちゃイケは面白いけれど・・・」でした。

絶賛しておきながらこんな事を云うのもなんですが、実は鑑賞後の余韻があまり良くなかったのです。昔なら腹を抱えて笑って、スッキリしたのだけれど、今回は少し胃が痛くなってしまった。この変な感覚はなんだろうと、布団にもぐりしばらく考えたのだけれどいつのまにか寝てしまっていた。

でも、これでいいのだ。(笑)


絶望から希望は見えるのだろうか。

2013-04-20 16:18:52 | 日記
夜勤明けで疲れ切った身体をクールダウンしつつ今朝の新聞に目を通すと「出産直後の男児 自宅床下に遺棄容疑」という記事が目に入った。

気になったので、記事を読み進めてゆくと次第に脱力感と絶望感が僕を支配し始めた。

わが子を遺棄した24歳の母親の職業は、数十分前まで心身を削り夜勤をこなしてきた僕と同じ介護士という職業であった。

そして、その夫は障害者施設で働いていたと人だという。

隣人を愛する事、社会的弱者に手を差し伸べる事が社会福祉の本質であるように思う。

また、他人の親、他人の子供を社会資源によって人としての尊厳を擁護する。それが社会福祉の役割りなのではないかと考える。

その社会福祉事業に従事するならば、他者を傷つける行為は自ら抑制しなくてはならないのではない。

確かに他者から受ける理不尽は心身へのダメージは怒りを禁じ得ない時もある。しかし、それでも耐えねばならぬ職業なのではと自身に言い聞かせる。

家父長制、市場原理主義での資本主義社会では下層下流に位置する職種である。情熱を掛けてまで取り組む必要があるのかと何度も頭をよぎる。それでもと自身を鼓舞する。誰からも誉められずとも情けは人の為にならずと小さく口する。

我が身から生み出された小さな生命は、無条件に愛する対象であるけれど、人によっては他者であるかもしれぬ。

また、人生を掛けて護りたい人であるかもしれないし、生まれる事が必要でなかった人であるかもしれない。

しかし、社会福祉とは自我を放下し弱き者に仕える事でしか対価を得る事が出来ない職業である。

職務を離れていても、心根が優しくなければ、弱い者に対して思いやりがなければ、人にやさしく出来ないと思う。

こういう事件を見る度に、この職業の未来には希望があるのかと考え込んでしまうのです。


分からないという事実に。

2013-04-18 09:56:55 | 日記
少し前に書いた「いつかゆく道」の続きです。

ある日突然言葉を失ってしまった人は、その後、廃用症候群になり入院。病院で精密検査などを受けたのですが、その原因がよく分からないという結果が伝わってきました。

僕たちは、進歩した科学や医学に支えられ生活を送っている。でもどれだけ先進と呼ばれている科学や医学でも解明できない事が存在する事を知っていなければならないと思う。

科学や医学に依存するとそれがすべてになってしまう。中身がよく分からないものならばなおさらである。

しかし、世の中が作り出した権威という絶対的な立場の前ではなかなか揺るがない。その権威に誤りがあっても、よく分からないものに対して無知な者にはその誤りに従うしかない。場合によっては違和感を感じ疑念が生じる事もあるけれど、揺るぎない権威の前ではどうする事も出来ない。

しかし、揺るぎない権威は僕たちの分からないところで、分からない事を分からないまま放置する。

果たしてそれを、先進と呼べるだろうか。

先進医療でも理由が分からず、身体が劣ってゆくのは、言いかえれば自然の摂理と言えるのではないか。

科学では立証できない霊性と呼ばれる力が働いているのではないか。

自然の摂理や霊性の前では、人類の力等及ばないのではないか。

そう思うと、僕たちは分からないものに対してもっと謙虚にならなければ自然と上手く折り合いがつけなくなるのではないでしょうか。

そうでないと、ますます老いや死に対して苦しみが増してゆくのではないかと思うのです。


刃物男とその彼女

2013-04-17 08:43:31 | 日記
愛知県で起こった立てこもり事件を観ていて思い出した事がある。

随分前の話であるが、新卒で入社してきたギャルちゃんと恋愛観についてじっくりと話した事があるのですが、そのギャルちゃんの言葉が実に印象的だったので、少しだけ語っておこうと思います。

彼女には彼氏がいて、ギャルであったので、彼氏もギャング系であった。

幼い言葉使いから、聞き取れたのは、本質はさみしがり屋であるけれど、それを自覚していない事が分かった。しかし、彼女は彼の事が好きであると思い込んでおり、その自身の立ち位置から話しているので自身では分からないけれど「都合のいい女」の立場でしかなかった。しかし、その思い込みが彼との関係を繋ぎ止めているように感じた。

彼の事を話す彼女の彼氏を想う気持ちは分かるのだけど、彼は彼女の事を彼女のように思ってはいない。そこを指摘してみるのだけど、「別にそれでもいい」と言い切る。

そして、彼女はこう言ったのである。「彼が悪い事をしていても私は赦してあげるの」

僕にとってそれは衝撃的であった。都合のいい女の立ち位置でも、彼が目の前で反社会的行為をしていても、同じように振舞うと言うのであった。

そういう事でしか、彼の気持ちを繋ぎ止める事が出来ないのである。それが自身にとってどれほど不利益な事になるのか時間を掛けて言葉を選び説明してみた。

反社会的行為を黙認することは、黙認した自分にもリスクが降りかかってくる。自身にとってはとても理不尽な出来事に耐える事が出来るかを問うてみたのです。

彼女はとても驚いていた。彼女の思考はそこまで及んでいなかったのである。

彼女はしばらく考え込んで「どうしたらいいの?」と尋ねてきたので、勇気をもって都合のいい女を止める事を勧め、なるべく今までのフィールドで出逢わない年上の人との接して自分との考え方と比べるようすることを助言してみた。


しばらくして、ギャルちゃんは「彼氏と別れたよ。もう会わないって決めた。さびしくてもメールしない」と言ってきた。

僕の助言が彼女の人生にとってはたして幸福感をもたらしているのかは今では分からない。

でももし、あの時彼女と対話していなければ、彼女は間違いなくあの映像の中の刃物男とその彼女のようだったのではと思ったのです。

彼女は元気にしているのだろうか。




ボストンの悲劇

2013-04-16 21:17:28 | 日記
ボストンマラソンで起こった爆破事件はどうやらテロ行為である可能性が強いと報道されていた。

関係のない人々を傷つけたり恐怖に陥れることで何かが変えられるだろうか。

それで幸福感を感じる人々が増えるだろうか。

もし、意図的に爆発物を設置し、死傷者が出る事も予測し、その事で次の犯行に積極的である事を知らせ、政治的要求を誰に呑ませようとしているならば、その要求とはどんなものであろうか。

それは、テロ行為によって平和な日常がを奪われた人々の人生よりも貴いものであろうか。

思想には、人の命より大切なものがある時と、人の命には代えられない時という相反する二つの潮流があると思うけれど、どちらに比重を傾けるか困難な場合がある。

それがテロリズムよって選択されると、無差別に沢山の人の命が奪われることになる。

戦争も然りである。そう考えると正義とか大義とかは行為を執行する者の手の内にしかないように思う。

また、事実が隠ぺいされた事件は、強者の手によってシナリオが描かれ強者の都合のいいように処理されてゆく。

それが世の中であり、それが歴史であるように思う。

もし、今回のテロ行為が政治的犯行であったなら、9・11事件から何を学んだのであろうかと考えるのです。

そして、それでも人は、次こそはと我こそはと、歴史を繰り返してゆくのかもしれないと思ったのです。




たまには映画でも。

2013-04-14 10:28:06 | 日記
元気がない時。気分が落ち込みがちな時。時々映画を観てやり過ごすという手を使う。そんな時には不思議とアクション、アニメが選ばれる。理由は鑑賞後、何も残らないからである。

今回は「ボーン・レガシー」を選択。ボーンシリーズはマットデイモンという役者さんが好きであった事がきっかけで観たのだけれど、とても面白くはまり込んでしまった。そのシリーズの最新作がDVDレンタルになったので借りてみてみた。

マットデイモンは写真のみの出演であるけれど、なかなか面白い。スピード感がよく飽きる事がない。どうなってゆくのだろうかという思考を視聴者に与えないほどである。監督は変わったけれども、ギリギリのところで危機を逃れるという形は今までのシリーズと変わらない。

あまりにもカメラワークが速いので少し酔ったかんじになるけれど、次回作の匂いを残しつつ、あっという間に終わってしまった。

僕が望んでいた面白さである。

そして、やはり強くて優しい男はかっこいいのだと思い知らされるのであった。

読んでほしい・・・。

2013-04-13 16:51:57 | 日記
今日の早朝、役場のサイレンで目を覚ました。何事かと思い布団を飛び出てテレビをつけ、携帯をチェックする。役場のスピーカーから地震についての注意を促す放送が流れた。テレビでは震源地を中心とした街の景色が映し出されていた。その後にぐらりと家が揺れたが、2~3秒ほどで収まり何となくほっとした。

実はサイレンがなった時、僕はミサイルが発射されたのではないかと思ったのです。

隣国の緊張が高まっている。それに伴い対象国になろうであろう国では、最悪の事態に備え士気を高めている。良い事ではないが、連日の報道もありその動向が大変気になる。


今日のタイトルは「読ませてあげたい。」である。無茶な選択をする前に、どうしても読んでほしい絵本があるのである。

作 山口勇子 画 四国五郎「おこりじぞう」である。

お話の舞台は広島。 原爆投下された日の出来事である。

原爆にまつわる物語は映像や本、生の体験談からよく理解していた。そのつもりであった。

しかし、1ページ目からその世界に引き込まれてしまい、読後はしばらく震えが止まらず唖然としてしまったのです。

この物語を読んだら、非道でないかぎりそのボタンは押せなくなると思う。言葉と絵の力を信じたいと思う作品である。

現在、人類が有する科学力では神の手にあった火はもて余してしまう。それを理解してこそ、科学は科学であり得るのではないかと思う。

物質と精神が結びつく事を願うばかりである。






夢にうなされ。

2013-04-12 07:43:43 | 日記
変な夢をよく見る。状況はよく覚えていないのだけれど、常に僕が誰かから責められるのである。その度にぐっと耐え、わけの分らぬ説明を試みるのであるけれど責められ方が次第にエスカレートしてゆく、それに伴い頭に血が上り胃がむかむかしてくる。

そして、此処が不思議な処なのだけれど、夢の中でも「夢である事を意識している自分が存在する」のである。そのように意識しだしたのはここ数年である。

最初のうちは腹立たしくって目が覚ましていたけれど、次第に「これは夢だよ。」と夢の中の自身に語りかけるように変わってゆき、さらに進化した意識は、夢をその時点で遮断してしまうのであった。

しかし、昨晩の意識はさらに進化したのである。夢の中でも「どうして夢の中なのに我慢しなけりゃならないんだ!!夢ならもっといい夢をみせてくれよ!」と夢の中で叫んだ処で目が覚めたのである。

そのくせ、目覚めればどんな夢だったのよく覚えていないが、胃のむかむか感はしっかりと残っているのである。

また、最近は観なくなったけれど、出逢った事のない女性が現れて会話するという夢も不思議であった。目覚めて誰であったのかと考えるけれど、知らない人なので分かるわけもなく、いつか会えるのではないかと思ったりもしたけれど逢える事はなかった。

夢には潜在的な想いが形を変え投影されたり、寝る前に観ていたテレビや読んでいた本等の印象が強く残っていたりするとその状況が現れたりするらしいが、自身ではよく分からない。

眠っている時が一番幸せと感じる者にとって、苦痛を感じる夢と言うのは本当に切ない。だから夢の中だけでも楽園にどっぷりと浸っていたいのだけれど、自分が観る夢さえも自分の思い通りにならないのは、生の本質であるので仕方のない事だと諦めるしかないのかもしれません。



不思議な交通事故死

2013-04-10 16:47:30 | 日記
一昨日、テレビで不思議な交通事故のニュースを観た。千葉県の22歳の青年が新青梅街道で建物の堀に激突し助手席に同乗していた友達を死亡させてしまったという事故である。

事故を起こした運転手の青年は「ドリフト運転が好きだった。バランスを失って横滑りをした」と言う説明をしていた。

疑問はいくつかある。まず、事故現場が直線だった事。直線でのスピン・ターンはあるがドリフトはあり得ない。

ドリフト運転ができるという事は、車の挙動をそこそこにコントロールできるという事である。また、サイドブレーキを使用し車を振る事が出来たなら、意図的に車を振ってスピンさせて止まる事も出来るはずである。

直線で後輪をスライドさせるなら、停止状態からホイルスピンをさせつつハンドルを切り車を振ってゆく方法であると思うけれど、トルクのある車でないとなかなか難しいが、所有車がカスタムカーらしかったので割と容易く出来たのであろうけれど、それならば、人が死んでしまうほどのクラッシュは考えにくい。

しかし、そうでないとするならば、コントロール不可能になるほどのスピードが出ていた事になる。それならばドライバーが無傷であるのは本当にラッキーであったとしかいえない。

もしくは、車速をコントロールしつつ意図的に助手席側がつぶれるように車体を持って行ったか、どっちかであると思う。

ドリフト運転が好きなら、自身の運転の上手さを友達に披露したいなら、それが一番分かりやすい処で行うはずなのではと思う。

もし、意図的に助手席側がつぶれるように車体を持って行ったとしたならば、運転手の青年と友人との関係がどうであったか気になりますが・・・きっと深読みしすぎなのでしょう。

僕自身も若かりし頃スポーツカーを乗っていて、大切な車をスピンさせ(カーブでね。)道路わきの深い溝に前から突っ込んで大破させた事があります。その時エアバックが出たけれどフロントガラスで頭を打って鼻血がでてしまった事があるのです。

あまり人の事は言えないけれど、そんな経験を踏まえたうえで何故だか不思議に思ったのです。

ドリフト走行はたしかに面白いけれど、サーキットやスポーツ走行会で行なった方がより高い技術が身に付きますよ。

大事な車もクラッシュしにくいしね。









これがエントリーモデルなら・・・。

2013-04-09 17:17:47 | 日記
妻の車が車検である。とりあえず僕が引き受けディーラーに持ち込む。 スズキさんの車なので台車はワゴンRリミテッドである。担当さんが「乗り心地をご堪能ください」と言われるので堪能してみる事にした。 

幹線道路でてアクセルをほんの少し踏んでみるとするすると加速してゆくではないか。軽自動車独特の低速時のもたつきが感じられない。タコメーターに目をやると回転数が低い割にスムーズに60㎞/hに達している。この車ギヤ比はどうなっているのだろうかと考えてみるがctvと言うものなのでよく分からない。回転が低い割にスピードがそこそこに出るというのは、ガソリンがより沢山燃焼室に送られている状態を思い浮かべるのであるが、どうもそうではないらしい。エンジンがモワ~っと回っているのではなく、静かではあるが適正に燃焼しているようである。 

信号が赤になりゆっくりとブレーキを踏んでゆくといつの間にかエンジンが止まっていた。アイドリングストップ機能車であるが、どのあたりからエンジンが切れるのかが分からないくらい静かである。スタート時も同じである。ブレーキを一㎝ほどあげるとセルが周りエンジンが再始動する。かなりスムーズである。何度か信号で止まるチャンスがあったのでその都度ブレーキ操作に集中するも、適切に止まり適切に再始動する。これはビックリである。

さらにコーナリング時の姿勢はどうであるか、これも楽しみの一つである。サスペンションは少し硬めの味付けである。路面の凹凸をコツコツと拾うけれどさほど気にならない。ステアリングホイールも革巻き風で、握りやすくパワーステアリングも程よい硬さで回しやすい。交差点をゆっくりと回ってゆくとあまりロールせずにするっと旋回してゆく。アクセルオフの状態での挙動がオートマチック車独特のスルーッと進んでゆく感じがない。程よくエンジンブレーキが効いているようなのでコーナリング中の姿勢が崩れにくいように思われる。大変素晴らしい。

交通法規に則った運転をするならば、最高の性能である。しかしこれがエントリーモデルとするならば、少しばかり危険な気がします。なぜならば、高い運動性能をもっているので、あっさりとドライバーの技量以上の速度が出てしまう。

意識していないと自損事故を起こす可能性が高いので、十分気をつけなければならないのではと思ったのです。

しかし、最近の自動車の進歩は素晴らしいの一言である。