硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

スターウォーズを観る。

2016-02-26 21:57:33 | 日記
久しぶりに映画館へ赴く。大画面で観ておかなければと思った作品が「スターウォーズ」

ストーリーは惑星規模での親子喧嘩が繰り返されているのだけれど、これこそが家族の普遍的テーマであるから面白いんですね。また、戦闘機での戦闘の見せ方も宮崎駿さんや押井守さんの作品を彷彿させ、とてもかっこよかった。
そしてたまらないのは老いたルークやハン・ソロやレイヤ姫の登場。ファンではないのですが胸が熱くなるんですね。そして何よりも、ジェダイの騎士の象徴でもあるライトセイバーを手にしたのが女性と黒人(しかも、女性はクズ拾い、男性は奴隷である)であったことが今のアメリカが向かわねばならない方向を象徴しているように思えました。また、本編が始まる前に予告編として紹介されていたスーパーマンとバットマンが戦うという映画も、アメリカが抱えている問題を提起しているのではなかろうか。スーパーマンやキャプテンアメリカといった正義の象徴とも言えるヒーローが苦悩する作品が次々に出てくるところから察すると、アメリカ国内は私達が思っている以上に難しい問題に直面しているのかもしれない。

迷走する思考。

2016-02-21 20:42:21 | 日記
細い田舎道を車で走っていると前方に自転車に乗った女子中学生がおしゃべりをしながら並走して走っていた。距離が近づいてきたので徐行すると、エンジン音に気が付いて一列になってくれるだろう思っていたけれど一向に一列になってくれない。仕方なくクラクションを軽く鳴らすとこちら側に振り向き一列になったが、追い越してゆく際に横顔を見ると不快感を見て取れた。僕は彼女たちの表情に違和感を抱きながらバックミラーを見るとすぐさま並列して走っていた。

深読みなのかもしれないが、私達が楽しくおしゃべりをしていた処にクラクションを鳴らし私達をよけさせたあなたはとても迷惑な存在と感じていたならば、それは、私達の正しさが絶対であり、私達を否定するあなたは不快であるという感情表現と考えることが出来ます。そしてその感情表現が介護現場で見られるものと同質のものであるならば、少女達と30~50代の大人とカテゴライズされる人々の基本的な思考と感情表現は変わらないのではないかと思ったのです。
さらに、その事象を逆説的にとらえると、学校での活動が社会に適応するための練習であるなら、学校で培った価値観は、障害に当たらなければ社会に出ても変わらないままと言えます。

しかし、学生活動の価値観と職場と言う社会には明らかな異なりがあります。

まず大きく異なる点は、労働に対して対価が発生する事であり、対価が発生すると様々な社会的制約と責任が生じます。また翌年になれば後輩が必ずエントリーしてくるという保証もありません。

学校のクラブ活動であれば、学校が存在している間は必ず新入生が入ってきます。そしてその新入生が理不尽な雑用や基礎練習に取り組まなければならないのは、学生生活を送るためや競技に出る為には必須であるからです。
それでも、学校であるので一年頑張れば自身のポジションは自動的に後輩へパスされるか、分担されることになるのが慣習であるから、理不尽な雑用は後輩にパスされるものだという価値観のみが固定され、共生や共存を構築する術を得る事が出来ません。

もし、共生や共存の術を知らぬまま社会に出たらどうなるか。少し仮説を立ててみます。

仮に、昨年まで後輩であった人に後輩が出来たとします。上記の価値観であれば、それまで引き受けてきた雑用や基礎作業は、不完全な形であっても構造的に後輩にパスされますが、後輩さんは仕事を覚える為、不完全な形で仕事を覚えている先輩からでも、指導を受けなければならなくなり、他の先輩との差異に苦しみつつ、自身との格闘を強いられながら、仕事を覚えてゆくことが必須となります。

しかし、苦難の一年を乗り越えても、後輩が入ってこなければ、後輩さんは構造的にパスを出される構造を失い、且つ、理不尽な雑用プラス現在先輩が引き受けている仕事の幾分かを引き受けなければならなくなります。
理不尽かもしれませんが、後輩さんに後輩が入ってこない事を考慮しない先輩さんにだからこそ「雑用は後輩にパスさせるものだ」と言う固定観念に縛られていて、自身の不完全さを肯定したままであるから、後輩さんがどんなに巧く仕事をこなそうとも、後輩であるが故、後輩としての扱いは継続されてしまいます。

先輩さんは構造的な理によって優越感に浸り続けることができて安泰ですが、一年間、世界と格闘し続けた後輩さんはこう思います。「なぜわたしばかり・・・・・・・」と。

無論、しっかりした指導者の元、活動を続けてきた人やチームプレーを重んじてきた人であるなら、そのような偏った思考に陥らないし、基本的なポテンシャルの高い持ち主は介護職に就かないであろうけれども、傷つくことを意図的に迂回してきた先輩さん達の立ち居振る舞いは、後輩さんの個人の生活環境や対価や待遇を差し引いて考えた時、いつまでも続く理不尽さに対して離職を考える余地を十分すぎるほど与えます。

そして、何度も同じことを言うようであるけれど、先輩に対して従順で無知な人ほど、居心地やすさを提供される代わりに、高齢者を投げ落とすに至った彼のように、巧妙に「何か」を搾取されてゆくのです。

そのような目に見えぬ事象が発生してしまうのは、先輩さん達が「なぜ私は尊敬されないのか」と自問しないからであり、学生活動の価値観を社会で破壊され、再構築を強要され、適応できるものにする作業を意図的に迂回したからなのではと思ったのです。

もし、この仮説が正解ならば、介護業界は多くの高齢者を抱えたまま、パスする相手を失うばかりか、「永遠の先輩たちの執着」によって自滅してゆくしかないのではと危惧するのです。

また、現社会は両親の介護のために離職しなければならないという問題に直面しつつあり、問題を無視できなくなった首相も支持率を安定させるため介護離職0を指針に沿えたが、自由競争にさらされた社会福祉は、競争間での格差を広げるばかりでなく、現場にアンフェアな構造をもたらし、その結果担い手不足が解消されず、介護離職を0にすることが困難になりつつあるところまで来ている。
そして、離職者が増加する事により、企業が担う損失も次第に膨れ上がってゆき、経済が停滞してしまうことに懸念を抱くけれども、時間は未来へ進んでいるのであるから、ある日突然神の手によって恩寵がもたらされるかもしれないとも思うのです。

いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう

2016-02-18 21:56:00 | 日記
月曜日の21時になると「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」というタイトルのドラマにチャンネルを合わせる。しかし、いつも途中で心がざわついてテレビを消してしまうのである。決して嫌なわけではない。観たくても気持ちがついてゆかず観れなくなってしまうのだ。そんな大変歯がゆい思いをするドラマの魅力は、俳優さんの魅力もさることながら、設定が身近なため「私でありあなた」であることを感じやすいからかもと思うのであるが、今日は物語の批評をするわけではない。

今日の新聞記事の中に「介護職確保に影響。フジドラマ意見書 日本介護福祉会」という小さな見出しを見つけた。この見出しを見て記事を読まぬともその対象が「いつ恋」であることが分かり、記事を読む前からなんとも言いえぬ虚しさを覚えた。
記事の内容はこうである。
「フジテレビ系で放送中のドラマ設定が介護職の人材確保に影響を及ぼす内容だとして、日本介護福祉士会はフジテレビに配慮を求める意見書を出した」とあった。

人材確保に影響を及ぼす内容・・・だと! フィクションじゃないか。なのに、なぜ意見書を出す。痛いところを突かれメンツをつぶされたと思ったからじゃないのか。このドラマが本当に影響を及ぼしたら、日本介護福祉士会にお金が入ってこなくなるから気を使えよ。ということではないのか。
介護現場が高齢者を投げ落とすような怪物でも従事できる環境になってしまったのは日本介護福祉士会にもその責任が少なからずあるのではないか。もし改善したいと思うなら、まず、介護福祉士の実技試験を金で買える構造を今すぐ廃止するべきだ。
それとも、もたれ合いが出来てしまっていて、今更解体できないとでもいうのだろうか。
杉原音ちゃんみたいな純粋な娘さんが現場に失望し、辞職してゆく姿を見ているから、ドラマよりも日本介護福祉士会の意見書の方が希薄に感じてしまう。

遺憾。あつくなってしまった。
・・・話を戻しまして。

それでも僕は、月曜の夜9時になったら、「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」にチャンネルを合わせるだろう。そして、途中で心を痛めてきっとテレビを消してしまう。と思う。

君は何者だったのか。

2016-02-16 22:30:09 | 日記
川崎市にある有料老人ホームでの入居者転落事故が元職員による殺人容疑となった。警察関係者からもたらされた情報によると容疑者の男性は容疑を認め始めているという。
老人ホームの社長が会見で彼の評価を「頼れる」という表現をしていたが、彼の元上司の報告であろうことから察すると、社長は人より数字を見る人であり、元上司も彼の評価を頼れる人と報告していた処から考えると、元上司もまた他者に対して希薄であったのはないかと推測でき、容疑者の彼がそのような評価を受けられたのは、上司には逆らわなかったからであろうと思われる。しかし、容疑者の彼が求めていたものは、傷つかずに社会的に高く評価されたいという願望であり、その願望こそが彼が最も重要視した事柄であったからこそ、他者に対して無関心でいる事ができ、殺人も嘘もためらうことがなかったのだと思う。

もし彼が本当に高く評価されたいと願っていた人であるならば、救急救命士を辞めなかったはずであるが、そうしなかったのは、高く評価されるための「失敗し叩かれる」という手続きをブレイクスルーする事が我慢ならなかったからだと思う。それはなぜか。かれは傷つかずに高く評価されたかったからである。

このように推測すると一見偏った思考の持ち主であるように思えるが、彼は欲望にのみ込まれてしまっただけで、実のところはだれもが潜在的に持ちうる感情であり、他者を受容する寛容さが必要となる介護職という仕事に彼のような感性の持ち主が従事してしまえる構造にしてしまったことが一番の問題であるように思う。現在、国も介護待遇改善加算という方法で改善を図ろうといているが、もはや金で解決する問題ではなくなっている感じがします。

こうなってしまったのは高齢者を社会保障制度で支えようと働きかけた人たちの考えの甘さによるところが大きいと思う。
社会福祉をビジネスチャンスとして市場で競争させれば、質の高いものが生まれるであろうという考えは、利益の上限が設定されていなことが条件である。しかし介護と言う仕事の収益の主は公金であり、施設の大きさに対して、利用者数が設定されているので、利益の上限と言うものが存在し、しかも利益の対象が人間であるから定員割れを起こさないと保証はどこにもない。そう言った中で利益を上げようとすれば、経費や人件費を抑えようとする動きは必然である。それが消費税の増税によってその動きにさらに拍車をかける事になり、税収が進んでも利益が下がるという大きな矛盾に陥ってしまうのである。
さらに、市場での競争はサービスの細分化を図られるかもしれないが、供給先が増えれば、質の高いサービスを提供しようとするモチベーションの高い人は方々に散ってしまい「選択と集中」とは真逆な動きをしてゆくのである。そうなれば、需要があっても供給先を支える人がいない所が出てきて当然であるが、供給を支える人が不足している事態は、努力なくして高い評価を得たい人にとって望んでいた環境で、未成熟であっても特殊な資格保有者であれば批判されずに高く評価され、瞬く間に頼られる存在になれてしまうのである。

また、雇い主からしてみれば、利益は入居者(利用者)が入居(利用)していてくれ、且つ、従業員が規定定員数さえ満たしていれば、誰だってよいのであり、特殊な資格保有者が在籍していても施設として博がつくだけである。あとは上手く持ち上げてさえいれば低賃金で働き続けてくれる使いやすい存在なのだが、幸か不幸か互いの利害が合致してしまうのである。
しかし、辛辣な表現で申し訳ないが、このような構造は、奴隷を奴隷と意識させずに奴隷として搾取するということと変わりないのである。だが、雇い主も奴隷も立場が違うだけで同じ人であるのだから、自我が肥大してくれば何らかの変化が出てくるという可能性があることを勘定に入れておくべきであっただろう。

高齢者は他者であり、隣人であり、未来の私達でもある。国が抱える人口減少と借金の問題を考えると、社会福祉資源の充実と介護職員の待遇改善はこれ以上見込めないだろう。したがって、このまま行くと、富裕層に存在できれば問題はないであろうが、社会福祉に頼った生き方をしようとするならば、社会福祉とは「ひれ伏し褒め称え敬わないと、同じhumanであるとは認めてはくれぬ人達から与えられる恐怖も含む」と考えなければならなくなるのかもしれない。
政府や官僚の皆さんが、この事件を重く見てくれていれていることを願うばかりである。それは、大変残念であるけれど彼らしかこの状況を変る力を持っていないからです。



アルスラーン戦記を観る

2016-02-13 13:33:22 | 日記
昨年テレビで放送されていたアニメーション「アルスラーン戦記」を25話一気に観た。なぜ一気見できたのか。それはアルスラーン戦記が鋼の錬金術師の原作者である荒川弘さんに手によって絵になると知った時、頭脳に電気が走りおもわず歓喜したほど期待したので、毎週見るよりも、一気に観たほうが絶対に面白いと思いハードディスクにプールし4話ごとにDVDへ落とし暇になった時に一観てやろうと今まで寝かしてあったからなのだが、そこまでしたのに完結してないのだ。思わずため息。
しかし鑑賞していて以前見たような感じがしてきたので調べてみると、やはり映画になっていて、それを観たのですが、すっかり忘れていました。そこで、なぜ印象に残っていなかったのか考えてみると当時は「ロールプレイングゲーム」のような世界観が好きではなかったことと、(銀英伝の方が好きだったこともあるけれど)その頃の僕は、まったく本を読まない人だったからなのかなと思ったのです。

ですから、今の僕の目に映る「アルスラーン戦記」の世界観は全く違うものになっていて、本当に衝撃的でした。恥ずかしい話なのですが、僕のような者にはやはり「時」があるようです。
したがって、物語にちりばめられた話の原点はあのお話だなとか、この展開はあの頃の事だなとか思いながら観れることができて楽しめたのですが、今の僕の感情はここでもう一ひねりしてしまい、「アルスラーン戦記」は田中芳樹さんの描いた物語であるけれど、ここに描かれている出来事の8割が実話なんだと。そしてそれは形を変え現在も継続中であることに気づいてしまったのです。

銀河英雄伝説もそうであるけれど、アルスラーン殿下とその家臣たち、そして剣を交える者たちの活躍はかっこよく描かれ、誇張はあるものの、やはりいつかの世の誰かなのだと思えてくると気持ちが滅入ってきたのです。20話を超える頃は本当にしんどくなって観るのをやめてしまおうかと思ったほどでしたが、時頼入るコミカルさが心を和ませてくれて(ストーリーを展開させてゆくうえで意図的に織り込んであったとしたらすごい)なんとか25話までたどり着いたのです。

続編が期待される「アルスラーン戦記」。 原作を読めばよいのだけれど、僕の精神状態ではきっとできないと思うから、再びテレビアニメとして放送される事をじっと待とうと思う。

それから話はそれてしまうが、15年ほど前に「アルスラーン戦記」がとても好きだという少女に出会った。彼女は高校を卒業したら東京へ進学し、作家を目指すのだと言っていた。
彼女から発せられる言葉をまぶしく感じた僕は「本が出来たら真っ先にここへ(元職場)送ってくれ」と言うと彼女ははにかみながら「うん」と言った。

彼女は今でも作家を目指しているだろうか。それともすでにデビューしていて、約束など忘れているだろうか。それとも夢破れて、普通に就職し可愛い奥さんになっているだろうか。

いや、どんな形であれ元気でいてくれればそれでいい。

2016-02-08 13:12:35 | 日記
大男が剣を突き付けて「その剣を下ろせ」と言う。俺は大男と戦うために剣術の鍛錬を積んできたが、技量の差は歴然でまともに剣を交えれば瞬く間にやられてしまうことも分かっていた。しかし俺にもこの村一番の剣術使いと言う自負があるからやすやすと剣を手放すわけにはいかぬ。俺は大男を睨み「俺の剣を下ろさせたければ、まずお前が剣を下ろせ」と凄んだ。すると、男は剣を構えたままう薄ら笑いを浮かべ「バカを言うな。お前は信用できん。だから俺はお前が剣を下ろすまで剣を下ろさん」と言ったが、大男は正義だといってよその村にも押し入った奴である。だから俺は信用しない。
すると、大男は「お前はいったい何人くらいを斬ってきたんだ」と言って揺さぶりをかけてきた。
大男からみれば経験値でもずいぶん劣ってみえるのだろう。しかし俺でも顔見知りだろうと誰だろうと歯向かう奴は容赦なく斬り捨ててきた。それは強くなればいずれ大男のように正義になるのだと思っていたからだ。俺は自分を信じ、
「そんなこと聞いて何になる。俺は本気だ。脅しているつもりだろうが、剣は下さん」
と言って、精一杯大きく見せたが大男は余裕の笑みを浮かべ「そうか。ならばいつでもかかってこい」と言った。

二人は譲らぬ姿勢を崩さなかったが、心の底では剣を振り下ろせば「負けるかもしれない」という思いを払いきれずにいた。