硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

「半分、青い。」

2018-09-29 21:24:54 | 日記
時々観てきた「半分、青い」を見届けたくて録画した。

一月に2回程観るペースだから、急展開の度に、妻の解説を頼りに話をつなげてきた。そして今日最終回を迎え、鈴愛さんが、律君に両手を差し伸べた時、僕はとても感動した。

予定調和かもしれないが、余りにも遠回りした二人に感動せずにはいられなかった。

「半分、青い」というドラマは、僕たちに、不器用でもまっすぐに生きる事、人に優しくする事、傷ついた時、その傷をいやしてくれるよき理解者がそばにいる事が本当の幸福なのだという事を示していくれていたのではないかと思う。

現代社会のなかでは、難しい事だけれど、この二人のように、この二人を包む周りの人達のように、生きてゆくことがこれからの社会を育んでゆくのかもしれない。、

北川悦吏子さん。このメッセージであっていますか?

映画から見えてきたのは。

2018-09-22 21:14:05 | 日記
楽しみにしていた「アベンジャーズ インフィニティウォー」と「ペンタゴン ペーパーズ」を観た。 アベンジャーズは本当に面白く、やはり映画館で観るべきだったと後悔。スピルバーグが監督しトムとメリルという名優が主演を務めるペンタゴンペーパーズも面白くないわけがなかった。これも劇場で観るべきだったと後悔。

アメコミと史実に基づいた物語という一見相反する2作品であるけれど、ふと思ったことを一石。

アベンジャーズの悪役であるサノスは非道な悪役であるが、彼の思考は極論ではあるけれど、どこか的を射ている気がした。人口を無作為に減少させることは、ある意味、公平性を保っているといえ、独裁的とは言い難いところがある。ラストでサノスが豊かな自然の中で夕日を眺めているシーンは、「彼が何をなそうとしていたのか」を抽象的に表していたような気がします。
ペンタゴン ペーパーズでは、ルーズベルトからニクソンまでベトナム戦争は勝てないと分かりつつも、その事実を隠蔽し、戦争を続け、多くのアメリカ兵を失ったことが機密文書から分かったわけであるが、もし、意図的に、人口を減らすことが目的であったら国家というものは、「サノス」といえる。

その権力に対抗してゆくのが、民間の勇気ある者達であり、それはヒーローと言える。
ワシントンポストの記者、ベン・ブラッドリーと職場の仲間たち、トニー・スタークを中心とするアベンジャーズというのは 「話の形」としては同質であるといえよう。

そして、二つの物語のカギを握るのが「女性」である。
ペンタゴン・ペーパーの記載を取りやめようとする、多くの男性たちの中にあって、難しい判断の中最終的に決定を出し、世の中を変えていったのは キャサリン・グラハム女史であり、人類が危機に陥ろうとしている事を察した、アベンジャーズ計画の発案者、元司令官のニック・フューリーが最後に召喚しようとしたのは「キャプテン・マーベル」こと、キャロル・ダンバースである。

「アベンジャーズシリーズ」は、目を見張る映像と、飽きる暇さえ与えないほどの面白さで観る者を魅了するけれど、シナリオを練っている人達は、相当な切れ者たちである。

ちなみに、「ジャスティス・リーグ」では、ヒーローたちの仲を取り持ったのは、王女ダイアナで、「スターウォーズ」では、ジェダイを継承したのはレイでしたね。
今のアメリカが本当に望んでいるものは、この作品群の中にあるような気がします。

ゆく河の流れは絶えずして・・・・・・。

2018-09-17 20:03:29 | 日記
幼いころ、まだ、テレビが一家に一台という時代で、チャンネルの主導権は一家の大黒柱である父であった頃、父がいる時間に唯一、一緒に観られたテレビアニメは「アルプスの少女ハイジ」と「サザエさん」だった。テレビドラマも限られていて、「寺内貫太郎一家」は家族で観ていた。それは、「ちびまる子ちゃん」の世界観そのものでもあった。

高畑勲さんが亡くなり、秀樹が亡くなり、麻生美代子さんが亡くなり、樹木希林さんが亡くなった。

「家なき子」だった安達さんは、母親になり、離婚され、再婚された。「マルモのおきて」だった芦田愛菜さんも、もう中学生。「教室の女王」で、小学生だった志田未来さんは素敵な女性になられ、ご結婚された。

人の老いと死は回避するとが出来ない。希林さんの言われた通り、死は自然なものでなければならない。

しかし、僕も随分歳を重ねてしまったものだ。

近頃、テレビが伝える事象に、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、且つ消え、且つ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の一文が、いっそう身に染みるのです。

福祉施設での高齢者虐待について。

2018-09-14 21:07:34 | 日記
今週の新聞に、愛知県の福祉施設での高齢者虐待事件が2件載った。
ここ数年、介護という仕事に優しさはいらないのかなと思う事が増えたように思う。
また、そういう空気が蔓延しているように思う。
それは、本当に、心優しい人は、介護現場で働き続けることが出来ないという事でもある。

それがどんな未来を引き寄せるのか。介護現場ではそういう見通しは不必要なようである。

神の守り、汝身を離れざれ

2018-09-13 21:17:57 | 日記
今朝の朝刊で、性的虐待 揺れるバチカンという見出しの記事を読む。
神父が児童に対し性的虐待を行っているという。

別に驚きはしない。長い歴史の中で繰り返されてきたことだから。

映画「スポットライト」でも問題提起がなされていた。しかし、何も変わらない。

神父に罪を告白し懺悔し赦しを乞うとき、神父の多くは「主はあなたから離れる事はありません。あなたが主から離れ慣れなければ、主はあなたを赦し愛し続けます」。と言って慰めたであろう。

その神父が、名声に溺れ、主から離れてしまっていては、神の代理とは言えないだろう。

「誘惑に陥らぬよう起きて祈っていなさい」という言葉はもはや神父には届かないのだろう。

しかし、我らの弱きを知る、慈しみ深い主は、人が作った法も、神との約束をも破棄した神父さえ、きっと赦して下さるでのはないかと思う。

生きてることが辛いなら。

2018-09-02 20:44:46 | 日記
一昨日、eテレの「ハナシティ」という番組を観た。古い傷口が痛む思いがした。今朝の朝刊の一面に『「学校、無理」。そう思ったら。』という見出しを観て、現代では社会問題として取り扱われているんだなと感じた。

微力ながら前進はしている。と思いたいけれど、いじめが原因で学校に行けなくなってしまった人が少なからずいる事は事実である。いじめられる原因はさまざまであるけれど、いじめられるのはいつも少数派であるので、あまり問題にならない。つらくて自殺する子供がいるのに、それでも、この進度であることは、仕組みを作る大人の多くが、大した問題ではないと捉えているからではないかと思う。

異を唱える少数派や、協調性にかけてしまうと、どうしても多数派の同調圧力による差別が生じてしまうのは、集団社会の中で生きている以上、避けられない事です。また、社会に出ても、同じようなふるまいを続けていると、自立する以外、社会でも同じような立ち位置にはまり込んでしまうようです。
これは、僕が今まで生きてきた経験の中から導き出した一つの答えです。

勉強し、良い学校へ進学し、大きな企業に勤めることが目標になるのであれば、他者との折り合いを上手くつけていかなければならない。と、想っている大人が多数派を占めているから、そうではない道を模索して違和感を感じている少年少女たちは、どうしても弾かれてしまいがちになります。

未来は不確定だけれど、生き方というのは、他者の価値観に囚われなければ自由。誰かに活動を拘束されたりしなければ、学校へ行かなくても生きることは出来る。ただ、社会に出た時、どこかに所属するという選択をしなければならない場合、その窓口は極端に狭くなるし、大きな収入は得られないこともしばしば。
でも、モノに執着せず、自身の生き方を他者の生き方と比べなければ、全然、生きてゆけるのです。

独学で勉強し、つまらない、中学や高校をスルーし、大学で好きなこと好きなだけ学ぶことができるなら、その道を選んでも、何の問題もない。そこから開ける道は広大。
大人は結果が良ければ、その過程がどうであれ、手のひらを反すように納得するようです。

なんだか矛盾しているようですが、世の中は矛盾している事ばかりです。だから、「ありのままで」という考え方が脚光を浴びるのだと思います。

僕も時々思う事なのですが、生きる意味はとか、生きている意味がないという「考え方」に囚われてしまうと、急に生きづらくなります。だから、そういう時は「そんなことは考えないでおこう」と自身に言い聞かせます。そして「これでいいのだ!」と強く思うようにしています。

いじめはなくなりません。真剣にぶつかり合い、勝ち続ける事でしか、相手の変化は期待できません。それは、社会に出ても然りです。ネガティブで絶望的かもしれません。それこそ、生きていてもしょうがないじゃないかと思うかもしれません。でも、生きていれば、人生の「師匠」に出会えるかもしれません。この人についてゆこうと思える人と巡り合えるのは、とても幸せな事です。その事で、人生観が変わったり、師の影響によって性格も変わったりします。また、世の中のわずらわしさを忘れるほどに没頭できる事に出会えるかもしれません。それが、自身の未来を切り開いてゆくきっかけになるかもしれません。
本当に好きな人に出会い、人生の苦楽を共感しあい、新しい家族として生きてゆき、それがあなたの幸福であったと感じられるかもしれません。
世の中の多数派が生きているような、生き方すらもできないかもしれませんが、それでも、その中に「小さな幸せ」を見つけ、心の支えになるかもしれません。
都市で生きてゆくのが嫌ならば、地方に出て、農業や林業や漁業に就くと価値観が変わってよい人生が送れるかもしれません。地方で生きづらさを感じるなら、都市へ行き、刺激的な日常の中で生きがいを見つけることが出来るかもしれません。

人はいつか死んでしまいます。また、突然、事故や病が襲い、命を奪われたり、障碍を持ってしまう事もあります。その中で、本当に絶望を感じる事もあります。それでも、人は「誰かのために」生きていかねばならない状況に置かれたりします。それは、人によっては、ひどく辛い日々を送る事になるかもしれません。

未来は常に不確定です。もしかすると予定調和なのかもしれません。それは私達には分からない事なので、考えてもしょうがないのです。

最後の最後に頼れるのは、自分の意思であり、自助力です。流されて自堕落に生きてゆくと、その匂いをかぎ分けて食い物にしようとする人たちがいます。だから、学校へ行くのが辛ければ、学校へは行かず、自堕落にならずに、移り変わる四季を感じながら、ちゃんとお日様を浴びて、日々を好日にして、日々を重ねてゆけば良いと思います。

死んでしまったらおしまいですが、おしまいではないかもしれません。
それは、誰も分からない事ですが、もし仮に、おしまいではないとするなら、そこで、生前より辛い日々が待ち受けているかもしれません。だったら、なんとなくでも生きていた方がよい事が起こる可能性の方が多いと思うのです。

この拙い言葉が、少しでも、生きてみようかなと思うきっかけになれれば幸いです。