硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

いじめについての散文。

2014-03-31 09:50:24 | 日記
もう少しだけお付き合いくださいませ。

社会とは、一人で生きてゆけないものなのかもしれません。なぜなら、たとえ拾ったお金で生活が出来たとしても、誰かが落とさねば拾う事も出来ないからです。したがって私が私である為には、誰かと共存、共生することで初めて我の存在を認識できるものと捉えても差し支えないよう思います。他者から承認される事が我の存在を証明できる唯一の方法だとするならば、今の場所が絶望的な環境であったとしても、どこかには存在を認めてくれる場所があるかも考える事が出来ます。

しかし、主人と奴隷と言う関係性を無くすことができません。もちろん本当の平等はありません。
数字や力量などが存在するのは、そこに差があるからです。それは人にも当てはまる事です。だからといっていじめを肯定するつもりはありません。ただ、理不尽にいじめられる方はとても苦しいのです。いじめられている時、どんなに泣いて懇願しても聞き入れてはくれないでしょう。

なぜなら、いじめる方がその利権を失いたくないからです。人は一度握った権威を誇示しつづけたいものだからです。

僕は子供の頃、純粋に大人の世界はいじめなんて関係のない世界だと思っていました。
でも、そうではありませんでした。ほんとうに衝撃的で事実を受け入れる事にずいぶん時間を要しました。

そして、福祉の仕事に就いてから、それは一生続くものだと悟りました。
家に帰りたいと繰り返す老人と、それを拒絶する崩壊した家族関係に最初は胸を痛めましたが、老人が子供たちやお嫁さんに対してどのように振舞ってきたかが浮き彫りになると、これはこの人の因果なのだと思えるようになりました。身体の機能が弱り、一人では生きていけないようになった時、主人と奴隷の立場が逆転してしまうのです。

一人では生きてゆけない。でも、握った権威を放下する事が出来ない。これでは関係を再構築できるはずがありません。赦す事も赦される事もありません。ただ、互いに憎しみだけが残るのです。どちらかが倒れるまで憎しみが残るのです。

そして、その憎しみは形を変えて誰かに受け継がれる危険性を帯びています。
どこかで断ち切らねばならない負の連鎖なのです。しかし、この負の連鎖も断ち切る事は容易ではありません。誰かが「こんなバカげたことは止めよう。」と口に出し、その言葉にすべての人が同意し握った権威を放下しない限り、いじめのない世界には至れない気がするのです。

いじめについての散文。

2014-03-30 11:24:50 | 日記
とても重いテーマではありますが、いじめについてもう少しだけ述べておこうと思います。

耐える事を強いられる人生が自身の行いによって生じてしまうのは、耐えなければならない人の性格から発せられるように思います。よく考えて周りに適合しようとしても、どこかぎごちなく上手く立ち振舞えないもどかしさを自身に感じて苦しんだりします。また、自身のどこに問題があるのかよく解らない人もいます。また、大切な場面で相対する人が望んだ答えに反する言葉や行動を取ったことが発端になる場合もあります。

これを「わがままだ」と言われても反論できるほどの説明ができません。

そこで、いじめられないように強者になるにはどうすればよいのか。または、敵わない相手にどう対峙してゆけばよいのか、いじめられぬように生きてゆくにはどうすればよいのか考えてみても、答えは見つからないようにおもいます。心身を鍛えることで、自分を解決できる人もいるかもしれませんが、心の弱いものにとっては、閉じこもって誰ともかかわらない事やすべてをあきらめてしまう事は防衛手段としては最適かもしれません。

そして「なぜ生きているのか。」「どうして生まれてきたのか。」「いつまでつらい日々が続くのか。」を自問自答する日々がつつくでしょう。そして、生きる事に絶望して死に至ってしまう事もあるでしょう。

どうしてそうなってしまうのでしょう。社会のせいにしてしまえば簡単に収まるかもしれないけれど、それでは何も変わらないでしょう。法や制度や教育でいじめを減らす事は出来るかもしれませんが、問題の根本は人の心にあるのだから、なくなる事はありません。
いじめることもいじめられることも人の心を傷つけます。それを愛が足りない。と言ってしまえばそれまでですが、愛を知る事、赦す事がどれほど難しいか知らなければ問題は解決しません。だからといって、神や御仏にすがってみても状況は一向に変わらないかもしれません。

悩みはいくつになっても尽きないものですが、少しだけでもいいから隣人の気持ちを考える事が出来る余裕が心の中に生れたら、何かが少しづつ変わって行く気もするのです。

いじめについての散文。

2014-03-29 10:14:12 | 日記
中学二年生の男子が飛び降り自殺をしてしまったと言う記事を読んで思った事を少しだけ呟いておこうと思いました。

飛び降りはしなかったけれど、僕自身も経験のある事なので心が痛みます。
僕は死ぬ勇気がなかったから、生き延びているのだけれど、自ら死を選ぶ事の方が勇気がいると思います。その勇気を生きる方へ働かせればよかったのだけれども、生きる事の絶望感は多感な時期には忍びがたい。

実際のところ、乗り越えた所で苦しい事がなくなるわけでもなく上手く生きてゆけないもどかしさを感じる事もあります。でも生きていなければ経験できない事ばかりです。

いじめられた体験は、時間の経過によって乗り越えられたとしても、時々悪夢となって自身を悩まします。それでも、がんばって生きてゆかねばなりません。その理由は?と尋ねられても答える事ができません。

いじめはなくなりはしません。それは人間が作り出す社会構造だからです。また、いじめられる側にとって、いじめられないように生きることは難しいように思います。因果なのかなと思う事もありますがどうだか分かりません。自身の発する言葉や行動が誰かにとって気に入らないからだと思うのですが、そこを考えてゆくと、逆に委縮して内にこもってしまってより状況をこじらせるような気がします。

いじめる側の人達は、いじめているという意識がありません。第三者から指摘されても、何が悪いのか理解できない人もいます。でも、それが人間なのです。

また、時を経て、様々な人に出会い人格を形成してゆく過程で、いじめに気がつく人もいます。

そして、いじめたことで人の命を奪った事を後悔する日がやってくるかもしれません。
因果はある日突然形を変えて降りかかるものです。

その時の苦しみは、その時にしか分からないものなので、いじめている時には気がつきません。人生をうまく切り抜けてゆける人も中に入るけれど、多くの人は四苦八苦を体験します。それが、人生と言うものなのかもしれません。

生きる事はつらいことです。でも、辛い事ばかりではありません。
楽しみはほんのわずかな事かもしれませんが、その時の出会いのために生きてみると思う事は悪くない気がします。なぜなら、綺麗事かもしれませんが、苦しみの中にこそ喜びがあるような気がするからです。


遠い国に想いを馳せてみる その4

2014-03-24 21:44:18 | 日記
クリミアでルーブルの通用が始まったという記事が載っていました。クリミアの人々の大半はロシア編入を歓迎しているようにも映るけれども、昨日記したように多民族でなりたっているから、すべての人と言う訳でもないのは明白です。

しかし、こんなに早くルーブルの運用が始まったと言う事は、やはり練りに練った作戦と考えてもよさそうなのかと思いました。

そして、そこで疑問に思うのが、現在の通貨基軸がドルなので、EU圏においてもその力は強大であると思うのですが、こうもあっさりと通貨が変わってしまうという事は、ドル自体の持つ力が弱くなってきているのかなと思ったのです。

また、少し国は近くなるけれども、先ほどニュースで台湾で「サービス貿易協定」の撤回を求めて学生が立法院を占拠しているようすをみてふと思ったのですが、「サービス貿易協定」を推し進める理由として、台湾の通貨、台湾ドルを通用し続けるより、人民弊に移行した方がより利益が得られると馬英九総統が判断したとみるなら、やはりドルの持つ力が衰えてきたのではないかと思っても違和感はないような気がします。

このように鳥瞰図的に観てみると、時代の大きなうねりを感じずにはいられません。「盛者必衰の理をあらわす」だけれども、それでも戦争にならないことを願うばかりです。


遠い国に想いを馳せてみる。 その3

2014-03-23 16:47:37 | 日記
クリミアにはロシア人とウクライナ人とクリミア・タタール人といった人達が暮らしています。その中でもタタール人は先の大戦で大変な思いをされて、ようやく手に入れつつある平和が、また争いによって奪われようとしています。
数日前、作家の佐藤優さんが新聞のコラムで「民族同士の争い」について述べていたあまり思わしくない事が現実味を帯びてきているようです。

また、今日の新聞記事にはタタール人のイスラムの民がモスクで礼拝をする際、身分証明書を要求されると言う事が起こっておりとても驚いています。

ムスリムであれば、どこのモスクでも入って礼拝できるはずなのですが、どうやら、それも難しくなってきているようです。

イスラムの教えでは信徒間は平等でなければならないはずであるのに。

アッラーフは今の世をどのように観ておられるのだろうか。

遠い国に想いを馳せてみる。 その2

2014-03-22 00:03:03 | 日記
EUの首脳会議の声明で「21世紀の欧州に力の行使と強制で国境を変える事ができる場所は無い」と強い言葉でロシアをけん制しました。また、NATOのラムスセン事務総長は「最後の手段」として武力行使に言及しています。

また多くの人の血と涙が流れるのだろうか。歴史は繰り返されるものなのだろうか。

このような緊迫した状況下では、情報を集め互いの国が後手にならぬよう活動してるスパイの人達も命のかかったハイリスクな仕事をこなしているのだろうか。もしかすると私達が知らないところでもうすでに命が途絶えているかもしれない。

平和を維持してゆく為には多少の犠牲を払わなければならないほど、平和は難しいのだろうか。

だとするなら、日本に住む私達は本当に幸せなのかもしれない。それが第9条の素晴らしさの証明であるとしたら改憲には一層慎重にならねばならないと思う。

日本には54基の原子力発電所があります。もし戦禍に巻き込まれたら、もう日本には住めなくなるかもしれません。

今は対岸の火事のように思えるけれど、いつ飛び火してくるかもわかりません。その可能性は0ではないのです。

どうか、これ以上悪化しない事を願うばかりです。

しかし、キリスト教圏であるはずなのに、隣人を愛する事、赦す事とは何と難しい事なのでしょうか・・・。




遠い国に想いを馳せてみる。

2014-03-20 23:40:40 | 日記
ここの処、ウクライナ情勢とても気になって、動向を新聞の記事など知るようにしています。そして、自分なりにいろいろ考えていると次第に不安になってきます。

その不安がなんなのか、個人的で稚拙な考えかもしれないけれど、呟いておこうと思います。

ソビエト連邦が崩壊しアメリカ合衆国が世界の覇権を握ったことで、冷戦が終結したと多くの人が思った。しかし国は崩壊しても個人の意志まで崩壊したわけではなく、国を司る人々はロシア帝国の魂を色濃く受け継いでいるはずである。

ソビエト連邦崩壊は人の驕りによって衰退していったことが分かっているのだから、もう一度帝国を復活しようと思ったはずである。

とくに、プーチンさんはこの手で帝国の復活を強く願った一人であろう。

2000年より大統領となったプーチンさん。優秀なブレーンを側近に置き、復活に向けその作戦を何度も練り直したと思う。

したがって、オリンピック誘致もオリンピック誘致が目的ではなく大いなる野望の過程に過ぎなかったのではと思う。

そう考えると、世界がオリンピックに注目しているあのタイミングでのクリミア自治共和国への干渉も頷けます。

アメリカ合衆国は強く反対しているが、EU諸国は、エネルギー問題の事もあり、ロシアとの関係を崩せない。

また、中国との関係も地道に築いてきたはずである。そして列強国の板挟みとなった日本も苦しい判断を迫られている。
そう、ロシアにとって、まさに時は熟したのである。各国がどうあがいても、何度も練り直したシナリオの範疇なのではないかと思う。

大きな戦闘は何としても回避したいと各国は思っているであろうし、経済恐慌になる事も避けたいはずである。

おそらくそれもシナリオの範疇であり、もしこのままなにもなく事が運べば、クリミアはロシアの資本力で港の再開発が進められ、物流が盛んになるはずである。物流の拠点はいつの世も栄えるものである。そしてますます力をつけ、再び世界のパワーバランスが大きく揺らぐのだと思う。

その時こそロシア帝国の復活になるのではと思うけれど、その時、どちらかにつかねば生き残る事の出来ない日本はどうなってしまうのかという事を考えると、本当に不安になるのです。







どこかで春が。

2014-03-18 18:32:12 | 日記
夜勤を終え自宅に帰ると、鶯の声が聞こえてきた。仮眠から目覚め川沿いの農道を散歩していると、土手につくしを見つけた。温かな東風が吹いていて、どこかで雲雀が鳴いていた。

ふと思った。僕の住む町では唱歌の風景が辛うじて残っているんだなと。

先生はえらくないの?

2014-03-13 21:54:46 | 日記
小保方先生がズルをしているのではと言う疑惑が持ち上がっています。そして彼女の仕事を手伝った先生たちもそのズルを見抜ける事が出来ないようでした。さらに小保方先生の母校では、ズルすることは普通だという話まで持ち上がってきています。

筒井康隆さんの「文学部唯野教授」を読んで、大学の先生には変わった人もいるんだろうなと思っていたから、今回の出来事が真実だとしても、さして驚きはしないけれど、それでも、多くの人。特に小保方先生を観て一時でも「勉強頑張ろう」と思った少年少女の失意を考えると大変残念に思います。

ねつ造をしたしないという論争よりも以前に、子供たちから「先生はえらくない」と思われてしまっていいのだろうかと思う。

この日に思う事。

2014-03-11 21:39:38 | 日記
東北大震災から3年。各局が様々な視点から報道していて、改めて福島原発を含め問題は山積していて、復興までの道のりはまだ遠いと言う事を知った。この日が来ると現地に住む人達、避難している人達に幸せが来る日を祈りつつも、個人的に思いだす事があるのです。

それは、自分で作ってしまっている記憶かもしれないけれど、ずっと胸につかえていた事なので、思いきって呟いておこうと思います。


震災が起こる数日前の出来事。夕方、自宅にてどこかのニュース番組をぼんやり観ていたら地震に関する情報が流れた。

近年、よく特集が組まれるの、興味をひくものではなかったが、最後にその事柄に関して専門家が意見を述べているシーンが流れた。その専門家と言う人物が、どこかの研究所か大学の副所長の補佐的ポジションの20代後半の女性だった。こういう場合、大学教授とか所長がコメントするはずなのに、どうして補佐の人がコメントをするのだろうかと思い興味をひかれたのですが、その女性は東北地方の地震が近いうちに来るようなことを語ったのです。彼女の揺るぎない言葉に驚いた僕は「預言者?!」と、テレビに集中したのですが、その部分だけが報道され声はフェードアウト。何やら一生懸命語っていた彼女の言葉はばっさりと切られていたのです。何を話しているのか聞きたいなぁと思ったのだけど、ニュースは次のコーナーに移行してしまいそれまでとなったのですが、それから数日後、本当に大きな地震が来てテレビに映る惨劇に言葉を失いつつも思いだしたのは、その女性でした。

そして、ニュースを観てから震災の日まであまり時間が経っておらず、震災と言う自然現象を的確に指摘したのだから、もう一度何らかの形でメディアに出てきてコメントされるのではないかと思っていたのですが、その後、まったく見かける事がありませんでした。

彼女は地震がある事を示して、実際に大変な震災が訪れ、何を思ったのか知りたいと思うのですが、知る由もありません。

曖昧な記憶なのですが、曖昧な中に強い印象が残っていて、この日が来る度に不思議と思いだすのです。

もう駄目なのかなぁ。

2014-03-08 23:10:27 | 日記
三歳の子供に首輪をつけて監禁した男の妻も監禁容疑で逮捕されたというニュースを観た。妻は23歳で職業は介護士だという。

介護士なら、他者に拘束具をつけ行動を制限するという行為は人権侵害にあたるという事は分かっているはずである。

勤めている施設の大小に関わらず、初任者研修のテキストで触れているはずである。

しかも我が子の事であるなら、人権尊重という言葉の前に愛情があるはずである。

弱者に対して人権を擁護する事の必要性も知らず、我が子に愛情を抱かない人が他者の生活を支える事が出来るであろうか。

所属する事だけで対価を得る事が出来る仕事なら、向上の意欲をもたらさないのではないだろうか。

介護と言う仕事はもう駄目かもしれない。


殺人事件という憂鬱な出来事。

2014-03-06 23:30:21 | 日記
無差別な殺人事件のニュースをぼんやり眺める。このような出来事をどう言葉にして消化すればいいかと思ってはみるけれども、上手く表現する事が出来ずにもやもやしています。

人の命を奪わなければならない理由が、自身にもよく理解できていない人が人の命を奪うのだから、どう考えてもそこには道徳も倫理も存在しない。

だからといって、人格障害という言葉で括ってしまう事にも違和感を感じてしまう。

それとも、悪魔のささやきが人格を支配するのだろうか。

それとも、その人の本質が表に出た結果であろうか。

それとも、社会が個人主義を求めた結果、私達の精神がそれに追い付いていない歪みがこういった犯罪を助長しているのだろうか。

それとも、物理的に恵まれた環境であるが故に生きる事がたやすい為、その反動として人の命が軽んじられてしまうのだろうか。

それとも、欲望にまみれて生きる快楽が、考える力を奪ってしまった結果であろうか。

どうしてなのか理解できるはずはないけれども、ただ、しっくりこない理由としては、こういった出来事は絶ち切る事のできない人類が背負い続けなければならない物語であるからなのかもと思ったりするのです。








「風立ちぬ」とアカデミー賞

2014-03-03 18:56:19 | 日記
朝の番組で女優の瀧本美織さんが賞について述べていたコメントに大きく頷く。

そして、夕方のニュース番組で受賞を逃した事についての宮崎駿さんのコメントに大きく頷く。

お二人のコメントのように、本当に大切なのは、沢山の人々に観てもらえる事。そして消えることなく幾度も観続けてもらえる事にあると思う。

DVD早く出ないかなぁ。待ち遠しい限りです。

事実を認めなたくない人だろうか。

2014-03-02 20:33:43 | 日記
「アンネの日記」の関連の書籍を傷つけることで得られる喜びや達成感とはなんだろうかと考える。

最近のニュースを観ていると歴史問題はデリケートである事を強く感じるし、報道の扱い方によってはプロパガンダなのではなかろうかと思う事すらある。

しかし、「アンネ」がつづった個人の記録は事実なのだから、異を唱える隙間は無い。だから多くの人に読み継がれているのだと思う。

したがって、本を破るという行為は、その事実は間違っているのだ言う主張を感じる処もあるが、只の悪戯だとしても余りにも稚拙で閉口してしまう。

どちらにしても、「詰まらない事だからやめなさい」と、言いたい。