もう少しだけお付き合いくださいませ。
社会とは、一人で生きてゆけないものなのかもしれません。なぜなら、たとえ拾ったお金で生活が出来たとしても、誰かが落とさねば拾う事も出来ないからです。したがって私が私である為には、誰かと共存、共生することで初めて我の存在を認識できるものと捉えても差し支えないよう思います。他者から承認される事が我の存在を証明できる唯一の方法だとするならば、今の場所が絶望的な環境であったとしても、どこかには存在を認めてくれる場所があるかも考える事が出来ます。
しかし、主人と奴隷と言う関係性を無くすことができません。もちろん本当の平等はありません。
数字や力量などが存在するのは、そこに差があるからです。それは人にも当てはまる事です。だからといっていじめを肯定するつもりはありません。ただ、理不尽にいじめられる方はとても苦しいのです。いじめられている時、どんなに泣いて懇願しても聞き入れてはくれないでしょう。
なぜなら、いじめる方がその利権を失いたくないからです。人は一度握った権威を誇示しつづけたいものだからです。
僕は子供の頃、純粋に大人の世界はいじめなんて関係のない世界だと思っていました。
でも、そうではありませんでした。ほんとうに衝撃的で事実を受け入れる事にずいぶん時間を要しました。
そして、福祉の仕事に就いてから、それは一生続くものだと悟りました。
家に帰りたいと繰り返す老人と、それを拒絶する崩壊した家族関係に最初は胸を痛めましたが、老人が子供たちやお嫁さんに対してどのように振舞ってきたかが浮き彫りになると、これはこの人の因果なのだと思えるようになりました。身体の機能が弱り、一人では生きていけないようになった時、主人と奴隷の立場が逆転してしまうのです。
一人では生きてゆけない。でも、握った権威を放下する事が出来ない。これでは関係を再構築できるはずがありません。赦す事も赦される事もありません。ただ、互いに憎しみだけが残るのです。どちらかが倒れるまで憎しみが残るのです。
そして、その憎しみは形を変えて誰かに受け継がれる危険性を帯びています。
どこかで断ち切らねばならない負の連鎖なのです。しかし、この負の連鎖も断ち切る事は容易ではありません。誰かが「こんなバカげたことは止めよう。」と口に出し、その言葉にすべての人が同意し握った権威を放下しない限り、いじめのない世界には至れない気がするのです。
社会とは、一人で生きてゆけないものなのかもしれません。なぜなら、たとえ拾ったお金で生活が出来たとしても、誰かが落とさねば拾う事も出来ないからです。したがって私が私である為には、誰かと共存、共生することで初めて我の存在を認識できるものと捉えても差し支えないよう思います。他者から承認される事が我の存在を証明できる唯一の方法だとするならば、今の場所が絶望的な環境であったとしても、どこかには存在を認めてくれる場所があるかも考える事が出来ます。
しかし、主人と奴隷と言う関係性を無くすことができません。もちろん本当の平等はありません。
数字や力量などが存在するのは、そこに差があるからです。それは人にも当てはまる事です。だからといっていじめを肯定するつもりはありません。ただ、理不尽にいじめられる方はとても苦しいのです。いじめられている時、どんなに泣いて懇願しても聞き入れてはくれないでしょう。
なぜなら、いじめる方がその利権を失いたくないからです。人は一度握った権威を誇示しつづけたいものだからです。
僕は子供の頃、純粋に大人の世界はいじめなんて関係のない世界だと思っていました。
でも、そうではありませんでした。ほんとうに衝撃的で事実を受け入れる事にずいぶん時間を要しました。
そして、福祉の仕事に就いてから、それは一生続くものだと悟りました。
家に帰りたいと繰り返す老人と、それを拒絶する崩壊した家族関係に最初は胸を痛めましたが、老人が子供たちやお嫁さんに対してどのように振舞ってきたかが浮き彫りになると、これはこの人の因果なのだと思えるようになりました。身体の機能が弱り、一人では生きていけないようになった時、主人と奴隷の立場が逆転してしまうのです。
一人では生きてゆけない。でも、握った権威を放下する事が出来ない。これでは関係を再構築できるはずがありません。赦す事も赦される事もありません。ただ、互いに憎しみだけが残るのです。どちらかが倒れるまで憎しみが残るのです。
そして、その憎しみは形を変えて誰かに受け継がれる危険性を帯びています。
どこかで断ち切らねばならない負の連鎖なのです。しかし、この負の連鎖も断ち切る事は容易ではありません。誰かが「こんなバカげたことは止めよう。」と口に出し、その言葉にすべての人が同意し握った権威を放下しない限り、いじめのない世界には至れない気がするのです。