硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

腰痛に悩まされ。 その2

2013-02-27 20:44:27 | 日記
此処の処随分良くなってきたように思う。立ち上がる際にもゆっくりとであれば背を伸ばす事が出来る。大変ありがたい。

昨日友人とスキーツアーに出かけた。ツアーが始まってからもう20年。しかも近年は一年に一度であるから、再会出来たことの喜びと互いの健闘を労いつつも話題は今回のツアーはどうして2月下旬になったかになった。

僕自身が考える腰痛の原因はこのスキーツアーのずれ込みから端を発しており、もし例年通り2月上旬であれば腰痛は避けられたと思っていた。しかし、例年のその日、一人は「海外旅行」、もう一人は仕事が忙しくなり上旬であったら連休は取れなかったという。

なるほど興味深い。

僕自身は腰痛に至る要因の一つだと捉えていたが、どうやらそうではない。海外旅行の友人は誘われた人よって決められた日程であり、仕事が忙しくなった友人は、一月の中旬ごろから仕事の依頼が増えだしたというのである。そして僕もその日に向かい腰痛が少しずつ良くなり始めた。したがって、結果的に2月下旬という日程は三人にとって「この日しかない」という日であったのである。

そして、コンディションである。寒波に伴う強風でリフトの3分の一が停止してしまったが、腰痛持ちの僕にとっては滑りこまなくてよい理由が出来て内心ホッとしていた。そのおかげで湯治に時間をかける事もでき、善い塩梅である。

2日目の午前中、少しだけ風が止んでいたので友人2人にはバリバリ滑ってもらい、僕はマイペースで滑走。しかし、次第に風が吹き始め、昼前には前日と変わらない状態になったので早めに切り上げ帰路に就いた。

お酒を飲んでうとうとしてる友人を横目に運転しながらふと考えた。この日が三人にとって一番都合のよい日であったこと。体調が芳しくない僕には恵みの少し遅めの寒波がその日を狙って南下してきた事。もちろん偶然であるけれど、考えようによってはやはり「予定調和」なのかなと。

そして、あまり難しい事は考えない方がよいかも、と思いつつ中央高速を中部圏に向けて車を走らせた。


誰の為に何のために。

2013-02-22 20:42:25 | 日記
腰痛が回復しない。痛みが続くと気持ちまで滅入ってくる。じっとしていれば回復するのではないかと寝ていられる時間はずっと横になっているが思うようにならない。

僕は介護職員であるから、介助という部分は外すことはできない。鎮痛薬を飲み、シップを張り、コルセットをぎゅうと締め仕事に取り組んでいるが、時頼雑念が入る。「自身の身を削ってまで誰かの為になる働きを行うのは本当に良い事なのか。」と。

もし、症状が悪化の一途をたどったとしたら、何かを恨んでしまうのではないかと思ったりもする。怒りや恨みが心の中で根ざしてしまうとなかなか断ち切る事が出来ない。それが怖いのである。


介護現場ではサービス提供が「余計なお世話」でしかない時がある。それでもサービスを提供しなければならない時などは、サービスの押し売りでしかなく、対象者も不快であるし、介護者も不快でしかない。そんな矛盾が生じている時、これは誰の為の何のための働きなのか分からなくなる。

すると、心の葛藤が始まる。それがもう何年と続いている。それで答えが出るわけでもないのだけれど、もやもやしたまま月日が流れている感じがする。それでも、「ありがとう」という言葉を頂けると不思議と心が軽くなる。もう少し頑張ってみようと思う気持ちが生まれる。そんな状態がループ状になってぐるぐると回り続けているのである。

そこに来て、腰痛になり「自身の身を削る」という要因が入り、より複雑になってしまっているように思う。
また、宗教的な考え方もするので自分がどこを目指しているのか分からなくなる。

日々を平生に淡々と過ごす事。自身の現状を受け入れる事。頭では分かっているけれど、どこかしっくりこない。

腰痛が治れば治ったで、また余計な事を考えるのであろう。それならば、腰痛が続いたほうが様々な事に諦めがつきそうな気がするし、その方が精神にはよいのではと思ったりもするけれど、身体の自由が利かない事や痛いのは辛い。

いろいろ、気晴らしを試みるが、気がつくとまた考えている自分に気づく。

しばらくこの葛藤が続きそうである。




隕石。

2013-02-18 20:34:02 | 日記
隕石が空から降ってくる映像の鮮明さに驚きつつも、色々考えてしまった。

広大な宇宙の中で、直径17メートル質量10トンの石がこんな小さな惑星に降ってきた。それも軌道というものに乗ってである。これを偶然と思うか必然と思うかで思考の進む方向が変わる。

どちらかと言うと僕は必然のほう。

宇宙空間をさまよっていた、隕石がたまたま地球に向かう軌道に乗るというのは確率的に低いであろうけれども、どうして軌道に乗ってしまったのかを考えると、様々な要因が重なってという理由になると思うのですが、もし宇宙その物に意思があったとしたらどうでしょう。宇宙に意思がある。という考え方はおとぎ話だとは思うけれど、無限に広がりを見せる宇宙空間はどうしてできたのか、その理由がはっきりしない以上、物理学的定義は出来ないけれど、宇宙にも意思があるという考え方も否定しきれない部分はあると思う。

宇宙そのものに意思があるとしたら、太陽の創造や銀河系の創造も宇宙の意思によって創られたと考えた方がスッキリとしていい感じがする。だから、隕石の存在も然りである。

もし、宇宙に意思があるのだとしたら、人類の意思なんて本当にちっぽけ。なぜなら、どんなに科学が発達しようとも人類は創造物の一つでしかないからです。その中で生きているとしたら人類は見えない力の法則にしかがって生きているにすぎないといえないではないでしょうか。

私達はいつも自身の目に映る物に対して色々考え、傲慢になったり嫉んだりするけれど、視点を変え宇宙の偉大さを考えれば、もっと謙虚にならなければならないのではと思ったりするのです。

資源の搾取や環境破壊等、豊かな暮らしを営もうとすると避けられない事ではあるけれど、行き過ぎると人類そのものが生きられなくなってしまう。それでも人は豊かな暮らしを望んでいる。そんな時代だからこそあの隕石はメッセージなのではと思ってしまうのです。

「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹きならそうとしている。」と。

バレンタインだから…敢て。

2013-02-14 23:26:15 | 日記
他者の幸福を考える時、どうしてもそこに幸福を考える側の願望が少なからず入ってしまう。

確かに幸福を受け取る側にとってもそれが本当に幸福を感じる場合もあるが、それはごく少数であり、また、気を使われることにより幸福になったと思いこんでしまう場合もある。こういうケースが少なからず存在するので、人はそれを基準としてしまう傾向があるような気がする。

しかし、このような場合、まず幸福を考える側の幸福を充足させようと無意識に選択しているように思う。確かに誰しも私の考えはいつも正しいと願っている。それが普通である。しかし、他者の幸福を考える場合、そこに「私」の願望を介入させては他者の真の幸福を知ることは出来ないと思う。

なぜなら、私と他者は異なるからである。

とても当たり前な事であり、頭では分かっている部分もあるけれど、なぜかどこかで拒否する思考が生まれる。自身の思考を自ら否定する事が出来ないのである。これが自尊心というものなのかと思う事もあるけれどよく理解できない。

しかし、多くの人の場合、私が幸せならあなたも幸せであろう。と、考えるのである。しかし、僕にはこのような自信はない。

だから、躊躇いの感情の中で、どちらともつかずな判断をベストだとする事が多いが、それはあまり受け入れられない。

かといって、躊躇わず自我を押し通すほどの力もない。これを優柔不断と言うのだろうか。

対象者がどうすれば幸福を感じてくれるだろうかと頭をひねり色々と策を講じてみてはみるが、意思疎通のとれない対象者にとっては本当に幸福かどうか計り知れない事が多く、確認や検証を試みるもそれが本当に本心なのかどうかは分からない。
その場合、ほぼ自己満足で帰結させてしまう。

でも、分からないのが他者である。だから、頭をひねり色々と策を講じる。だから私も存在しているのだといえよう。

しかし、その本質に触れることなく「私の自我」を他者の幸福に当てはめてゆく人が存在する。だから、そこに他者から生じる不幸というものも消える事がないのだと思う。



そんな恋もあるのか。

2013-02-13 17:04:22 | 日記
職場に「生粋のゲーマー」と名乗る青年がいる。話を聴くとどうやらオンラインゲームに夢中らしいが、ゲームそのものに興味がない僕はその世界にとても疎い。しかし、オンラインゲームの世界の話にはとても興味をひかれる。その中でも際立って興味をそそられたのは「同じゲームに参加するプレイヤーにストーキングする人がいる」というものであった。

この話を聴いて、最初「?」と思った。その世界観がわからないからとりあえず質問を試みると、ようやくその実態が掴めてきたのです。

青年の話によると「キャラクター」つまり、操作する人の「アバター」が可愛い事と、会話する際の「萌っとする、言葉の使用」から「アバター」を通して実態が善く分からないプレイヤーに惚れてしまうらしい。そして遂にはどういった形かは分からないがストーカー行為にまで発展するのだという。「相手の姿などよく分からないのになぜ?」という質問に、青年は「最近はラインでやり取りをする際には顔出ししている人もいるのでそれで分かる」と言う。

おおっなるほど!

しかしである。当然姿を偽っている場合もあるし、某番組の「ブラックメール」のように女性であるように見せかける事も出来るのである。その辺りまで質問してみると青年も熟知していないようで、そこからは想像してみる事にした。

ゲームのキャラが、リアルタイムで「私」と「会話」しつつ共同作業を行う。実体の「私」はそこにはいないがプレイヤーとしての「私」は存在しており「私」の反応をゲームという媒体を通して「だれか」が酌んでくれる。そこに実体ではない喜びが生まれる。実体のない喜びであっても喜びであるのだから、仮想的な喜びの中に自身を重ねる。その対象者が異性であれば恋愛感情が生まれるのも不思議ではない。しかし仮想空間の中の恋愛であるから実体はない。しかし、そこに自身を重ねる事により実体のない恋が存在している自身にも芽生えるのは不思議ではない。ましてやオンラインゲームという狭い世界観(誤解を生むかもしれないが通信端末を使用しなければアクセスできない世界だから狭い世界と捉えても問題はないのではと思う)に浸っているのだから、プレイヤーの中には「その世界が自身の存在の場所」と思い込んでいる人もいるであろうと考えるのは難しくない。

そこから、現実社会へ自身の感情を広げてゆこうとしても「その世界がすべて」の人にとっては、現実社会のルールを上手く自身に適用させる事が出来ないのだと思う。仮想空間と現実社会が地続きであるという思い込みはやがて歪みを生む。それがストーキングと呼ばれる行為に発展するのではないかと考えたのです。

これは、蝶になった夢をみて目を覚ましたら、蝶が荘周という人間になった夢を観ているのではないかと思い、ついには現実と夢との区別が分からなくなったという荘子に似ている。そしてこの思想は自分に与えられている現状を素直に楽しめばよいではないかという考えに到達するのです。

おお~なんてこった。

オンラインゲームを通してその世界に浸り「アバター」が操る人と「同じ」と思い込み「好きになる」事は今に始まった事でないのですね。

そう考えると、これは人の深層心理に深く根ざしている世界観とも考えられなくはない。だから「ゲームではないか」とはいえども、それを用いる人の心は今も昔も変わらないのだから、なにも不思議な世界ではないのだという結論に到達したのです。



ガラケーと言うのかぁ。

2013-02-11 21:22:42 | 日記
今朝のめざましテレビで「スマホからガラケーへ戻る人がいる」というトピックを観て思った事を一石。

まず「ガラケーって何?」という疑問、解説によってそれが分かると、なぜ戻すという疑問がわく。中高年の利用者はスマホを使いづらいという理由と分かると、うん。それも分かるけど・・・。となぜかもやもやする。

僕自身は「ガラケー」である。この番組を観ていなければガラケーなんて言葉は知らずに済んだかもしれない。

さて、僕がガラケーを選択したのは、単に使用料が高かったからなんですね。若者たちはスマホがスタンダードとなっているようですが、様子をうかがっていると、本来の機能より、ゲームやらSNSやらネットやらが使用方法の主体であるようですね。

そして音楽も聞けてしまうのだからスマートでクールだと思う。これからの時代を考えると使えた方が何かしら得なような気もする。

でもです。ゲームもsnsも携帯でのネットも興味がなければ、ガラケーという選択は自然。

また、誰かさんも持っているのだから私も。という年頃も過ぎてしまいましたので、ガラケーでも不自由がない。

しかも、月々3000円弱だから低所得者の僕は大変うれしい。

確かにスマホは魅力的だけれど、おそらく新しい機械を手にすることで気持ちが充足してしまうので、その後の使用料が無駄になる事が予想できるのですね。

時代を逆行しているようではあるけれど、身体で感じる事の出来るものでないとすぐに飽きてしまうような気もします。まぁ、そう感じた時に新型が投入され新たな機種に乗り換えるよう広告等で促されてゆくのでしょうけれど、それでも、やっぱり興味がなければ手が伸びないのだと思う。

そう思うのは頭が固いからなのかなぁ。でも、お金がもったいないしなぁ・・・。消費する事が楽しさとは限らないしなぁ・・・。


グループホームの火災事故を考える。その2

2013-02-10 20:37:59 | 日記
火災事故が起こった長崎市では以前にも同じような火災事故があり、再発防止のためいくつかのグループホーム従事者が集い勉強会を開いていたという。

僕はこの記事を観て大変脱力してしまった。

それは、僕自身も同じような体験を幾度かしているからなのです。もちろん火災事故ではないけれど、現状の問題点を提起したり、研修発表という形で公の場で問題提起したりするのですが、多くの上司の人は不機嫌な表情をし、他の職員さんは右から左へ受け流すのです。

そして、問題提起した問題が実際に起こってしまっても、内々に処理し何事もなかったように振舞うのです。最初のうちはその事が不思議でなりませんでしたが、施設を移り歩いてみるとそれがスタンダードである事に行きついたのです。

中には真剣に取り組んでいる方もいるけれども、多くの人は現状をより良くする事よりも、いかに自身の身を保つかに力を注いでいるようなのです。 その気持ちも分かるけれど、それでは進歩しないし、仕事は一定の人達より消費されるだけで、後進も育ちはしないし、エントリーしてこようとしている若者に希望を与えることなんてできはしない。

火災事故の再発防止の為に貴重な時間を割き勉強会を開いてみえた代表の方は大変がっかりしただろう。この事で気持ちを折らないでいてほしいと願う。


社会福祉とか介護事業とは、たしかにビジネスではあるけれど、いかにして隣人を愛するかという壮大なテーマが根底にある。

しかし、それはイエス・キリストが自身で十字架を背負い、鞭を打たれつつゴルゴダの丘へと歩んでゆくほどの受難を受ける覚悟がなければ、真の隣人愛にはたどり着けないという事でもある。

凡人の私達には到底出来ぬ。ただ内なる神を信じ挑戦してゆき、何度でも躓き、そのたびに赦しを請う。それを繰り返してゆくだけしかできないと思う。それは到達点など求めてはならないということでもあるのではないかと思ったりもするのです。

しかし、社会的責任は実社会で果たさねばならない。それが生きているという事でもあるのだから。

この事故を境にグループホームの運営はますます厳しくなってゆくだろう。その事により運営が立ち行かなくなる施設も出てくるであろう。しかし、それでは社会のニーズはあるけれど対応する社会資源が不足するだろう。

そして、若者に夢や希望を与える事の出来ない仕事に未来はあるのであろうか・・・。


グループホームの火災事故を考える。

2013-02-09 20:37:08 | 日記
同業者として色々考えさせられる事故である。

同業者であるならば批判的な意見の方が多いと思う。

でも、僕はなんだか変な心持でこのニュースを観ていた。

火災であるから必ず原因がある。また、初期消火活動やスプリンクラーの設置等火災予防に対してどのような措置がとられていたのかが問われる。

以前の僕ならばその辺りがどうなっていたのか考えていくのですが、なぜか思考はそちらには伸びないでいたのです。

以外にもぼんやりと思った事は、火災で亡くなられた方の「幸福。」

グループホームならば、家庭的で寄り添う介護が行われていたはず。それならば、この火災で亡くなったとしても、本人は意外と満足していらしたのではないかと思ったのです。でも、現実的に見て、従事者にとっては「仕事」でしかないので職員によってはかなりドライに割り切って対応しており「寄り添う介護」には遠い場合もある。この場合だとこの死は非常につらいものとなる。

しかし、入所することでしか終末期を乗り切る事が出来ない人達にとってはそれでもよいのかもしれない。

しかし、人として、なるべくならば、尊厳のある生の延長線上で死を迎える事が望まれるのではないかと思うのです。

それは、亡くなった方に家族がおり、帰る家があったなら、そこで死を迎えたほうが火災という事故で亡くなるより幸せだったのではないかと思ったからなのです。だから、もし法外な賠償責任を請求する人が出てきたならば亡くなった方の幸福を本当に考えていたのか疑問に感じると思う。

しかし、個人の幸福を考えだすと、どこにも着地点を見出す事が出来なくなる。そして誰が幸福でいなければならないのかさえぼやけてゆく。

そう考えると、介護業界は公費によって支えられているけれども、未来に向かって進むべき道を見失っているように思うのです。








腰痛に悩まされ・・・。

2013-02-07 22:00:58 | 日記
つい先日、移乗介助中に腰をグキリとやってしまった。集中力が散漫な時に身体の使い方を無視して力任せに行ってしまうと腰をやってしまうのだけれど、今回のは少しひどい・・・。

寝返りを打つこともままならず、靴下をはく事すら困難。本当に腰は大切だと痛感している。

朝目覚めた時、身体を起こす事ができず、天から「介護職を辞めなさい。」と、言われているんじゃないだろうかと考えたりもした。でも、全く体が動かないわけではない。やわやわと身体を動かしてゆくと、痛みは伴うけれどなんとかなりそうと思い、とりあえず病院に。

レントゲンを撮り、診察して頂き、シップと飲み薬を処方されそれで終了。ちなみにコルセットという物も初めて戴く。

職場で特に女性の方はコルセットを巻いて働いて見える方が多い。それを観て「ああ大変なんだなぁ」と思っていたら、その当事者になってしまった。油断大敵である。

とりあえず安静にして過ごし、その日の夜、処方された痛み止めを飲み夜勤を務める。ドクターに「重いものは持たないでくださいね。」と言われたけれども、介護職だもの。そんなわけにはいかない。なんとかやりきろうとペース配分を決めて挑む。

腰痛になりどうしたものかなと考えながら、トランスファーを行う際に思い出したのは、ボディメカニクスと残存機能の活用である。 

自身の体が元気なうちは自己流で行っていたけれども、それだと力を入れる際に痛みが走る。今までのやり方では出来ないなと、初心に帰り実践してみると、腰は痛むけれど自己流で行う時の痛みに比べると随分柔らかい。目からうろこである。

その夜はその方法で乗り切り、自宅にてダウン。2月は個人的に色々と計画していたが、すべて白紙に戻る。ほかの部位はどうもないので本当につまらない。

うとうととしながら布団の中で色々考えていて、ふと思った。どうしてこうなったのかなと。

本来ならば、2月の第一週は毎年恒例の友人とのスキーツアーであるが、なぜか今年は友人の都合で2月の最終週に変更になった。そう考えると、この腰痛の原因はそこから始まっているような気がする。希望休を変更すると勤務表作成者がそれをもとに勤務を作成する。そこで、その日のメンバーも決定する。業務をフォローしてくれる人ならばいいのだけれど、私が大事な人は私を優先するためにどうしても業務が増える。その増えた部分で腰痛を引き起こしてしまったのだから、元を辿ってゆけば友人の都合に辿り着く。

「ああ。予定調和なのか。」と思いつつも、注意力を欠いた自身の不徳の結果。しかたがないのである。

腰痛に悩まされ、色々考える。このまま治らなければどうしようとか、酷くなっていったらどうしようとか、気合いで直してやろうとか、大変気持ちがアップダウンする。自身の感情の揺らぎでしかないのに考えるだけでひどく疲れる。

しかも、もうそんなに若くないから治りもゆっくりである。しかし、それを受け入れていかなければならぬ。

なぜならば、老いとはそういうものだから。

昨今、アンチ・エイチングという言葉をよく聞くけれども、老いというものをそう捉えると、不自然なものかもしれませんね。

そう考えると、ありのままを受け入れてゆくというのは、なかなか難しいテーマかもしれません。

なんだかややこしいですね。


いじめは無くなりはしない・・・。

2013-02-04 20:41:45 | 日記
大津市で起こったいじめによる中学生の自殺の報道を聴いて思った事を述べておこうと思います。

まず、基本的にいじめは無くならない。 なぜなら、それが人間だからである。人類が地上に出現してから今までずっと知性や理性をすべての人類が上手く扱えないからである。もし、法律が存在しなければ、野蛮な行為がごく当たり前に行われているはずである。 ルールが存在しない時代から現在まで、人はなんとか治安を維持し暮らしやすい世の中を目指してきました。その為に人は法律というルールを編み出しました。とても長い年月を費やして築き上げてきたルールにも関わらず、それでも、自己益の為にルールを守らない人が存在するのです。

僕もいじめられた側なので、こういう事件を耳にすると未だに胸の奥がチクッとしますが、当時の事を思いだそうとしても不思議と思い出せなくなっています。その事象を客観的に考えると「脳って上手く出来ているもんだな」と感心してしまいます。

話を戻しまして。

誰かが彼のサインに気づいて行動に起こせば、彼の自殺は回避できたのかもしれない。しかし、彼が死なずに中学時代を耐えきったらそのいじめは表に出なかったであろうし、加害者は子供時代の遊びぐらいの認識しかないので、中学を卒業したら何もかも忘れさってしまうが、被害者はしばらくトラウマになり心身が委縮し高校生活の中でも支障をきたしていただろう。そして、教員もそれを願っていただろう。

しかし、彼の死によって問題が表に出た。だれもが想定していなかった事態である。なぜなら、彼の自殺に関わっていた人達は上記の事を無意識に選択しているからである。

もし、彼が自殺してしまうかもしれないと、考える事が出来たら必死で阻止するであろう。なぜなら、「とても困るからである。」

えっ。と思う方もいらっしゃるかもしれない。でも、そうなのである。

学校や教育委員会は今回の事件を調査するに当たり、「私達の都合のいいように」収めようとしたという報告が上がっている。

もし、真実を丁寧に調べて報告したら「困る」からである。でも、「とても困る事態」は想像できなかったから「私たちの都合のいいように」収めようとしたのである。


自殺する処まで追い込んだ同級生達は、恐らく悪意はない。ただ「うざいから消えろ」と自殺した彼の人間としての尊厳を無視しただけである。子供であるから、残酷であり、不思慮である捉えるべきであっただろう。でも、被害者はいくら彼らが未熟で不思慮だからと言っても、それで十分、生きる意思を殺がれるのである。

僕も当時の記憶で覚えているのは、毎日があまりにも辛く、一度だけ、後者の三階から飛び降りようとした事なのです。
窓に腰掛け、はるか下の地面を観て、色々考えたのですね。父や母が悲しむ、好きだった子に会えなくなる。これから何もできなくなる。等などそんな思いが踏み留まらせたのです。いじめ自体も彼ほど酷くはなかったであろうし、よく分からないけれど父が大変短気な人だったので「耐える」事を小さいときから強いられてきたおかげなのかもしれません。

話を戻しまして。

いじめられる側は、周りが思っている以上に傷つき、苦しみから一刻も早く抜け出したいと思っています。

でも、誰も、大人たちさえも一向にサルベージしてくれない。

気弱な人であればきっとこう思うだろう。「僕は見捨てられた。」と。

諦めは自身を死へと追いやる。

大人達は目の前の「困る」事を「放棄」し、その事によりさらに困る事になってしまった。

そこに愛などなくても、社会人として、それで対価を得ている者と意識していて、目の前の「困る」事に手を差し伸べていたら、問題は此処まで大きくならなかったであろう。

事の本質は、加害者の少年たちも彼に関わった教育者と呼ばれる人達も未熟で不思慮であった事が、今回の悲劇を生んだ原因であろうと考えるのです。

厳しい言葉かもしれないけれど、教育者も自殺に追い込んだ少年達も本質は同類だったといえるのではないでしょうか。

事の本質。人間の資質が個別である以上、いじめという行為も無くならないと思います。






こういう人が多くないか?

2013-02-01 20:37:28 | 日記
資産家死体遺棄事件の容疑者がその動機として「投資で損失を出したからその恨みで。」という情報が流れている。

投資家に資産の運用を任せる。投資する側としては「この人なら必ず資産を増やしてくれるだろう。」と思って投資するのだろう。

でも、投資はギャンブルと同じで損失も必ずある。したがって、損失する事を踏まえたうえで資産運用を任せるはずである。

資産家と容疑者の間にどんな会話がありどんな契約がなされたのかは分からないけれども、投資の本質は上記のようなものであったとしたら、容疑者自身も実業家で年商ウン億円を計上していたころの大変金周りのいい時に投資すればよかったのではないかと思う。

金周りが悪くなった状態で、投資する事により損失を補てんするという考えはとてもリスクが高い。これはもうギャンブルであり、負ければ取り返しがつかなくなるのは明白である。

しかし、僕が気になる問題はそこではない。問題は容疑者の行動である。

逆恨みする気持ちもわからないでもないけれど、命を奪って損失を少しでも回収しようという考え方はどうも合点がいかない。

貨幣を億単位で動かしていた人なら、それなりにビジネスのルールというものが分かっていたはずであると思う。

それなのに、その事だけで命を奪いに行くのはあまりにも子供じみているのではないかと思う。

その考えると資産運用の失敗のみが殺害の動機であるとは考えにくい。と、深読みできるけれど、今回の事件は深読みはいらないように思う。

容疑者は43歳である。なぜだか最近40~50代の人が関わる事件が少し目立つのではないかと思うのです。バブルを経験した世代である。自己の欲望に対して素直であるこの世代はなにかが歪んでいるように思う。

もちろん、そんな人ばかりではないけれど、なぜかその年代の人とお話しするとほんの少し違和感を感じるのですね。

そして、この世代の人たちが時代の中心になりつつある事はたしかであるから、その傾向が強く押し出されているのではないかと感じるのです。

たしかに世の中は豊かになったけれど、時代の中心の人々が道徳に希薄であることの代償が治安の悪化に拍車をかけているのだとしたら、これを幸福と言えるだろうか。

他を摂取することで生き延びる法則は自然界では普通であるけれど、それが人間にも適用されるのだとしたら、人は人として生きてゆく価値がないんじゃないかとも思うのです。それこそ時代を逆行しているようにも感じるのです。

しかし、よく考えてみると人が人である事を放棄するのは、人がより自然に近付いて行っているとも考えられなくはない。

法も道徳感も倫理感も宗教感も放棄するのです。拘束のない自由なのです。でも、きっとそうなったとき、人間自体が滅んでしまっているのでしょうね。

自己益を最大化する事だけに血眼になっている人達が後世に残せるものは、暴君としての不名誉な歴史だけなのだと思う。