今日はクリスマス・イブ。ケーキ屋さんへケーキを買いに行くといつもは割と空いているのに、今日はたくさんの人がケーキを買い求めていた。
クリスマスって、キリストを愛する人でなければ関係ないはずなんだけれど、よく分からなくてもロマンテックでいいですよね。
ナザレのイエス、救いの御子の生誕日だからお祝いをする。なんか、いいですよね。
宗教なんだけれど、そうでないところでイエスを意識せず、イエスの生誕のお祝いがなされている。ひょっとすると、これがイエスが導かれた世界なのかもしれません。
もちろん、教会に集い、主を賛美することも、イエスが導かれた世界の一つといえます。
聖書を読む事も、洗礼を受ける事も大切であるけれど、そうでなくても「主の愛」を非言語で理解している方もいらっしゃる。
つまり、信仰という形に正解はないのだと思う。
組織的に機能させるのには、どうしても言葉や儀礼を通さなければならないのだけれど、無所属であれば自由である。
しかし、無所属でも主は愛してくださるのです。
信仰における難しい様々な問題は、人が起こすものであり、宗教自体には関係がない。
そこを踏まえなければ、純粋に信仰できないと思う。人が人を管理するという考え方が信仰心を濁すのだと思う。
信仰は神仏を敬うことであり、人に従うことではない。なぜならば、宣教するものが知恵者だからといって、純粋な信仰心をもっているとは限らない。「ツァラトゥストラはかく語りき」や「三人の隠者」や「破戒」という物語が生まれたのは、作者にそういった思いがあったからだと思う。
昨日も述べたけれど安易に手に入る「愛」は、「愛」ではない。「愛」の本質は与えるものである。
児童書の「大きな木」や「幸福の王子」が生まれたのは、「愛」とは見返りを求めず与え続けるものなのだよと、作者が読み手に伝えようとしている重要なメッセージなのです。
与えられる方は「それが当り前である」と思い込みがちだが、それは見当違いである。与えられたら、何かをパスせねばならない。それは、感謝の言葉だけでもいいし、言葉がでないのであれば、笑顔を見せるだけでもいいのだと思う。
そういう気持ちのあるやりとりが他者との間にある隔たりに「愛」を見つける事が出来るのだと思う。
もちろん、与える側も配慮のない救済では、「愛」を知ることはできないのだと思う。
そういう事から「愛」とは、よく分からないものだけれど、分からないながらでも他者を思いやろうとする気持ちに「愛」というものが宿っているのではないかと最近思うのです。
そして、その積み重ねがイエス・キリストの説かれた「愛」に繋がってゆくのではないかと思うのです。
しかし、こういった考えも正しくないのかもしれません。
主イエス・キリストはおっしゃいました。
マタイ伝24・4-5
「人に惑わされないように気をつけなさい。私を名乗る者が大勢あらわれて『私こそキリストだ』と、言って多くの人を惑わすでしょう。」
メリークリスマス。
クリスマスって、キリストを愛する人でなければ関係ないはずなんだけれど、よく分からなくてもロマンテックでいいですよね。
ナザレのイエス、救いの御子の生誕日だからお祝いをする。なんか、いいですよね。
宗教なんだけれど、そうでないところでイエスを意識せず、イエスの生誕のお祝いがなされている。ひょっとすると、これがイエスが導かれた世界なのかもしれません。
もちろん、教会に集い、主を賛美することも、イエスが導かれた世界の一つといえます。
聖書を読む事も、洗礼を受ける事も大切であるけれど、そうでなくても「主の愛」を非言語で理解している方もいらっしゃる。
つまり、信仰という形に正解はないのだと思う。
組織的に機能させるのには、どうしても言葉や儀礼を通さなければならないのだけれど、無所属であれば自由である。
しかし、無所属でも主は愛してくださるのです。
信仰における難しい様々な問題は、人が起こすものであり、宗教自体には関係がない。
そこを踏まえなければ、純粋に信仰できないと思う。人が人を管理するという考え方が信仰心を濁すのだと思う。
信仰は神仏を敬うことであり、人に従うことではない。なぜならば、宣教するものが知恵者だからといって、純粋な信仰心をもっているとは限らない。「ツァラトゥストラはかく語りき」や「三人の隠者」や「破戒」という物語が生まれたのは、作者にそういった思いがあったからだと思う。
昨日も述べたけれど安易に手に入る「愛」は、「愛」ではない。「愛」の本質は与えるものである。
児童書の「大きな木」や「幸福の王子」が生まれたのは、「愛」とは見返りを求めず与え続けるものなのだよと、作者が読み手に伝えようとしている重要なメッセージなのです。
与えられる方は「それが当り前である」と思い込みがちだが、それは見当違いである。与えられたら、何かをパスせねばならない。それは、感謝の言葉だけでもいいし、言葉がでないのであれば、笑顔を見せるだけでもいいのだと思う。
そういう気持ちのあるやりとりが他者との間にある隔たりに「愛」を見つける事が出来るのだと思う。
もちろん、与える側も配慮のない救済では、「愛」を知ることはできないのだと思う。
そういう事から「愛」とは、よく分からないものだけれど、分からないながらでも他者を思いやろうとする気持ちに「愛」というものが宿っているのではないかと最近思うのです。
そして、その積み重ねがイエス・キリストの説かれた「愛」に繋がってゆくのではないかと思うのです。
しかし、こういった考えも正しくないのかもしれません。
主イエス・キリストはおっしゃいました。
マタイ伝24・4-5
「人に惑わされないように気をつけなさい。私を名乗る者が大勢あらわれて『私こそキリストだ』と、言って多くの人を惑わすでしょう。」
メリークリスマス。