体罰は是か非か。 この問題について長々と考えてきたけれどどうもすっきりとしない。
体罰自体は非であるけれど、そこに「愛情」やら「熱意」やら「情熱」という気持ちが非言語で盛り込まれているのだからややこしい。そして、それは生徒の為、選手の為、学校の為、等々・・・。理由はいくらでも後付けできるであろう。
大切なのはその瞬間であり、後に回想してからの気持ちでは取り返しがつかない事はこの出来事で実証され、その事により厳しい指導が私への叱咤激励であると思う事が出来るのは、精神的に成熟していないと無理なんじゃないかと思ったのです。
精神的に成長する事。このテーマは考えれば考えるほどよく分からないんですね。
究極的には、実生活の中で「赦し」「我を捨てる」等々、神仏の心境へと我が身を至らせる事なんだとは思うけれど、そんな境地に誰もが到達できるわけがない。 それは過去の賢者が実証しています。
もちろん、叱咤激励する側に対してもそれが要求されるでしょう。それは「自身の思うように人が動かなくてもけっして怒らない」という事であるし、怒らずして行動や考え方を改めさせる事が精神的成熟の境地ともいえるでしょう。
もしもそれが今回の出来事の改善の目指す到達点だとしたら、先に指導する側の人達が、成熟しなければならず、その後自身の至った境地へ導くことが順序としては正しいのではないかと思う。
言うは易し行い難しではあるけれど、でも本気で体質を立て直そうとするならば、避けては通れない道程であると思う。
扱う事物が製品の管理ではないので、結果として効果がでるのは随分後になると考えられるし、この道程で苦渋を味合わなければならない人も沢山いるのではないかと思う。
しかし、その結果その場の感情に任せた体罰や暴言がなくなり、選手や生徒が伸び伸びとプレーできる環境は理想ではあるけれど、自主的に組織的に規律が保たれ、自然に競技者としての自覚が養われてゆくのかと思うと疑問が残る。
その事で自主性が育まれることはよい事であるけれど、社会に出た時、自主的な主張が悪い方向に出れば社会と自身の解離性に苦しむのは本人である。
そこを踏まえて考えるならば、先行者がいかに後続者に上手く伝えてゆかなければならないかが問われるのではないかと思う。
人生はクラブ活動や競技生活を終えた後でも続くのであるから、その時の経験が後の人生にとってよい経験、善い思い出、善い教訓、となるようにせねば、その活動の意味が無くなるのではないかと思う。
人は、その時、その場所を重視する傾向があるけれど、人の人生に関わる問題を扱うには長い時間軸で物事を観てゆかなければ、本当の解決に至らないのではないかと感じるのです。
体罰自体は非であるけれど、そこに「愛情」やら「熱意」やら「情熱」という気持ちが非言語で盛り込まれているのだからややこしい。そして、それは生徒の為、選手の為、学校の為、等々・・・。理由はいくらでも後付けできるであろう。
大切なのはその瞬間であり、後に回想してからの気持ちでは取り返しがつかない事はこの出来事で実証され、その事により厳しい指導が私への叱咤激励であると思う事が出来るのは、精神的に成熟していないと無理なんじゃないかと思ったのです。
精神的に成長する事。このテーマは考えれば考えるほどよく分からないんですね。
究極的には、実生活の中で「赦し」「我を捨てる」等々、神仏の心境へと我が身を至らせる事なんだとは思うけれど、そんな境地に誰もが到達できるわけがない。 それは過去の賢者が実証しています。
もちろん、叱咤激励する側に対してもそれが要求されるでしょう。それは「自身の思うように人が動かなくてもけっして怒らない」という事であるし、怒らずして行動や考え方を改めさせる事が精神的成熟の境地ともいえるでしょう。
もしもそれが今回の出来事の改善の目指す到達点だとしたら、先に指導する側の人達が、成熟しなければならず、その後自身の至った境地へ導くことが順序としては正しいのではないかと思う。
言うは易し行い難しではあるけれど、でも本気で体質を立て直そうとするならば、避けては通れない道程であると思う。
扱う事物が製品の管理ではないので、結果として効果がでるのは随分後になると考えられるし、この道程で苦渋を味合わなければならない人も沢山いるのではないかと思う。
しかし、その結果その場の感情に任せた体罰や暴言がなくなり、選手や生徒が伸び伸びとプレーできる環境は理想ではあるけれど、自主的に組織的に規律が保たれ、自然に競技者としての自覚が養われてゆくのかと思うと疑問が残る。
その事で自主性が育まれることはよい事であるけれど、社会に出た時、自主的な主張が悪い方向に出れば社会と自身の解離性に苦しむのは本人である。
そこを踏まえて考えるならば、先行者がいかに後続者に上手く伝えてゆかなければならないかが問われるのではないかと思う。
人生はクラブ活動や競技生活を終えた後でも続くのであるから、その時の経験が後の人生にとってよい経験、善い思い出、善い教訓、となるようにせねば、その活動の意味が無くなるのではないかと思う。
人は、その時、その場所を重視する傾向があるけれど、人の人生に関わる問題を扱うには長い時間軸で物事を観てゆかなければ、本当の解決に至らないのではないかと感じるのです。