硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

真相は解らないけれど。 本土の言論が正しいのだろうか。

2015-06-30 17:01:42 | 日記
百田尚樹氏の発言が波紋を広げている。そして彼はオフレコであった発言を是とした。そこまで強気にならなければならない真相は私達には知る由もない。しかし、彼らが成し遂げようとしている事が国として独立し諸外国と肩を並べることにあるのだとしたら、その前にどうして沖縄県の主張を認めないのだろうか。

かつて琉球王国は独自の文化をもって国の体をなしていたのに、幕府からの侵攻で国を失ってしまいました。それからは内外からの干渉を受け続け大東亜戦争では焦土化、全土侵略されてしまいます。

もし、戦後レジームというものが列強国からの押し付けであり、戦後レジームからの脱却のための言論が保護される権利があるならば、沖縄県も(琉球王国)も幕府侵攻からの戦後レジームの脱却を図る運動や言論がなされてもよいはずであるし、沖縄県も同じ対応されなければ民主主義とは言えないように思うですが、このような考え方は稚拙で的を射ていないのでしょうか。

それとも、沖縄県の言論の保護する以上に隣国の脅威に対応する準備が緊急的に必要なのでしょうか。肝心な説明がないので不快感だけが漂っている気がするのです。

辛い記憶。

2015-06-24 18:30:37 | 日記
彼女は少し不安げにきょろきょろと周りを見渡し、目が合うと肩位まで手を上げて手招きをした。

「どうしたん? 」

「旦那がな」

「旦那さんがどうしたん? 」

「まだ帰ってこうへん」

「ほんまぁ。で、どこいっとんの? 」

「どこいったんやろなぁ。あの人は仕事に出てくと、なかなか帰ってこうへん人やでなぁ」

「仕事? 仕事って何されてますの? 」

「う~ん。なんやったやろなぁ。大工やったかもしれんけど、ちょっと忘れたわ。帰りまっとんのやけどな」

「それは心配やなぁ。ほんなら、先に夕飯食べてから待ちましょか? 僕も一緒にまっとるから」

「そ~お。そうゆうてもらえるんやったら、先にご飯食べとこか」

「うん。そうしましょに。ごはんも出来とるから」

「ほんまぁ。据え膳で悪いわぁ」

「気にせんでええよ。」

彼女の旦那さんは70年前の沖縄戦で命を絶たれていた。娘さんが平和祈念公園に行き碑の中に刻まれた旦那さんの名前を写真に収めて持ち帰ってきたが、今の彼女にはそれも理解できなくなり、辛い記憶も抜け落ちてしまっていた。背中が曲がり小さくなった身体。車椅子でなければ移動もできない。それでも生きようとする意志は上手く動かせぬ上肢を懸命に使い食事を摂っていた。旦那さんに見守られながら……。

アメトーク IN 市川紗耶

2015-06-22 17:05:30 | 日記
雨上がりさん司会の「アメトーク」 毎週新聞のテレビ欄で何芸人特集なのかをチェックし面白そうであれば予約録画をして後日観ています。先週の「読書芸人」はもちろん予約し今日観る事となった。又吉さんや光浦さん若林さんが語る言葉や行動に同意することが多く、書店での動き方などは僕の場合お三方を足して三で割った感じだなと一人でニヤニヤしていました。個人的にはカットされた部分も観てみたいと思うほど面白かった

が、である。ゲストとして市川紗耶さんが登場した時、(ゲストであることを知らなかったためかもしれない)やはり身体がぞくっとした。それは恋心や肉体的な欲求ではなく、彼女の存在に畏怖を抱いたのか、もしくは彼女の存在が僕の琴線に触れたのかもしれないと思いつつ、こんな感情に出会ったことがないので市川紗那さんの存在はとりあえず横に置いといて番組を楽しみました。しかし市川さんが蛍原さんに英語で話しかけた時、またもや動悸に近い感覚を覚えました。とりあえず横に置いておいたのに再び「ウッ」ってなったんですね。なんだろうなこのお嬢さんはと思いながら芸人さんのトークに集中していると又吉さんがノブコブの吉村さんに紹介した「若きウェルテルの悩み」が途中で放棄され読書嫌いになったという件で、市川さんが苦笑しているのを見てまたドキドキした。「若きウェルテルの悩みは」ゲーテの作品であるから彼女なら英文で読んでいるはずであり、和訳にはない何かを感じ取っているのだと思うとやはり市川紗那さんが紹介する十冊というのがどんな本なのか気になったのです。そして番組を観終わって、市川紗耶さんと西 加奈子さんとの対談が観てみたいと強く思いました。椎名林檎さんとの対談もかなり興味深かったので二人の人生観から紡ぎだされる言葉をぜひ聞いてみたいと思ったのです。

どこかの出版社かテレビ局でやってくれないかなぁ。かなり興味深い話が聞けるのではないかと思うのだけれどなぁ。

短編 「走る者たち」

2015-06-21 22:18:51 | 日記
向かい風の中を全力で走った。喉は渇き足も上がらなくなってきたがまだ日は高い。それでも時間はあまり残されてないように感じていた。僕はすべてを放棄しここで足を止め地面に座り込むことだってできた。その引き換えに貧しさと孤独に耐えればいいだけのことで、いっその事ならあの深くて冷たい湖に身を沈めれば楽にもなれる。そんな気持ちが幾度も幾度も頭をよぎったが僕は自身の頬を両手で叩きフラフラになりながら道を進んだ。道端には眉間にしわを寄せ苦悩している人が幾人も僕に向かって手を伸ばし口を動かし何かを叫んでいるようにも見えるけれど、なぜだかそれを聴き取ることができない。額の汗が目に入って風景がぼやけているせいかもしれないし、疲労で聴覚が麻痺しているのかもしれない。僕の足に触れそうなほどに手が伸びてくるけれど、僕は鈍感なふりをした。すると一人の人が僕の前に立ちはだかり「それでいいのか」と言ったが僕は急がねばならない。行く手を阻む人の視線を避けて素通りすると背中に冷やりとした汗がドッと噴き出したがそれさえも知らないふりをした。心が痛まないと言えば嘘になる。振り返り立ち戻って「どうかしたのか。大丈夫なのか」と尋ねてやりたい。しかし今は先の見えぬまっすぐに伸びた細く長い道を走ることで精いっぱいだから構っていられない。倒れている人が僕を恨めしそうに見ている。「どうせお前には何もできないさ」と吐かれたような気がした。頭が割れそうになった僕は大空に向けて叫んだ「許してくれ! 今の僕には何もしてあげられないんだ」
上がらぬ足をふれぬ腕を無我夢中で動かしその場から逃げるように走り抜けた。しかし時間は過ぎ体力も残っていない。意識は薄れ、夕日に照らし出される身体は炎天下のアスファルトに投げ出された氷のように感じる。細胞の一つ一つが炭酸水の気泡のようにぷつぷつと弾け大気に帰してゆく。僕は生きるとは存在するとはこういう事なのだろうかとぼんやり考えた。
西に傾いた太陽が僕を誘惑する「苦しかろう。辛かろう。誰も助けてはくれんだろう。そこで倒れこんだとしても私が助けてやろう。だから歩みを止めてしまえ」と。僕は言った。
「ここで足を止めたら今までの歩みはどうなる。すべてが無駄になるではないか」。すると太陽は言った。
「無駄な事などない。それはお前がそう思い込んでいるだけなのだ。すべてを手放せばよい。すべてを無に帰せばよいだけの事なのだ」
その言葉に僕は動揺し僅かにつまずいた。その代償に我が身を支えようとした手のひらと膝が黒ずみ剥離して血が流れアスファルトを赤く染めたが、痛みもなく、涙も出なかった。困惑しながらゆっくり起き上がり再び歩き出すと地平線に太陽が傾いていた。僕を追いかけてくる影は僕の意に反して後ろへ後ろへと延びてゆくが僕にはどうにもできないから振り返らずにいれば気にもならないと自信を欺いた。すると晴れ渡っていた空がにわかに曇り、雨が降り出した。僕は大きく口を開け雨を飲み込むと燃え落ちそうだった身体は我が身を取り戻し大地を感じた。路面から跳ね返る雨が心地いい。この雨こそが希望ではないかと感じ、心の底から愛する人を抱きしめたいと願ったが、肉体的な欲求から遠く離れた純粋に人を愛するということを知らない僕は絶望するしかなかった。雨がやみ雲が風に運ばれ空の果てへ流されてゆくと地平線に沈んだ太陽が最後の輝きを放つと彼方に家の灯りがポツンと見えた。その灯りに安堵した僕は濡れた身体を乾いたタオルでふき取り暖炉の前で毛布にくるまり深い眠りにつきたいと思い、もうそのまま目覚めなくてもいいとさえ思った。逃避という気持ちに支配された時、僕はもはや誰がために走っていたのかさえ忘れてしまっていた。しかし小さな灯りは走り進めるだけ遠のいてゆく。やがて闇が僕を支配し空には幾千もの星が輝きぐるぐる回りはじめた。流れ星を追いかけるように地平線へ向かってゆくと次の朝が訪れ、家の灯りが消えると同時にアレスのような者なるまいと主張する星が見えた。影がぼんやりと出現すると悔しくなった僕は今度こそた追い抜いてやろうと必死で追いかけたが、新しい朝はいつもと変わらない朝だった。太陽は次第に熱を帯びじりじりと僕を燃やし始めた。額から汗が流れ始めると喉が渇き潤いを欲望した。下り坂に差し掛かると転ばぬように慎重に駆け下りたが、すぐに上りに変わると僕の足は棒のように固くなった。これ以上は無理なのかもしれないと思った時、道端のアストロメイアが瑞々しい赤い花を咲かせた。

ワールドカップ2次予選のゆくえ。

2015-06-16 21:28:24 | 日記
始まったワールドカップの予選。以前にも述べたかもしれませんがダイジェストでも十分楽しめる程度のファンで、その上運動音痴なこともあり技術的、専門的なことはよくわからないのですが後半の試合を観て思ったことを少しばかり述べておこうと思います。

まず、シンガポールの選手が上手くなっている気がしました。でも何ら不思議なことではないのです。シンガポール共和国はイギリス連邦の加盟国であり、富裕世帯が世界で一番多い国であり、サッカーも人気の高いスポーツであるから良い選手が続々育つ環境なのです。

ですから、ディフェンスラインがきちんと機能していてキーパーの上手くて選手のモチベーションが最後まで高かったのも環境が大きく働いた結果ではないかと思う。シンガポールの選手を観ていて「マイアミの奇跡」の時の日本チームを思い出したほどです。

そしてハリルさんの采配。宇佐美さんは果敢に攻めていたけれど、あれほどガンガンいける人なら全体の運動力と集中力が切れ始める後半の30分位からピッチに入ったほうが点を入れられたのではと思う。

そして日本チームにロナウドさんやメッシさんのような天才フォワードがいれば大差で勝っていた試合でもあったのかなと思いました。

この後に続く相手も手強い。発展途上にあるカンボジアでは選手を育成する環境が整っていないので勝てるかもしれないけれど、内戦が続くシリア、アフガニスタンという両国はワールドカップどころではないかもしれないけれど、国の未来を思う選手達が背負っているモチベーションを考えると勝利するには難しいような気がするのです。

隣人愛は・・・。

2015-06-12 18:14:35 | 日記
山口県内の知的障碍者施設で起こった職員による暴行事件について個人的な意見を一石。

暴力と暴言が収められた映像を観て怒りにも似た不快感を覚えた。そして、加害者の男の動機が「いうことを聞かなかったから」であったと聞いて虚脱してしまった。
福祉施設の事業主は、訓練作業室に通う人たちがなぜ訓練作業室に通わねばならないのかを理解していない人をなぜ雇用したのだろうか。それは、低賃金でストレスフルな現場であるから、規定人員が埋まればだれでもよいという理由からであったのだろうか。ホスピタリティー色の濃い働きをビジネスにしてしまうと必ずこのような問題が起こってしまう。そして、このような事件の問題提起しようとすると尽きることはない。

しかし、少し考えてみた。そして思った。これまで問題が表沙汰になりにくい理由は知的障碍者の存在を疎ましく思っている人(障碍者同士であっても)が一定数存在するからではなかろうかと。それならばこの事象に納得がゆく。

ただ、少しでもリスクを減らすとするならば、知的障碍者福祉施設の職員は社会福祉士資格を最低ラインとし、職員の給料を年収600万以上に設定するべきだと思う。
意思疎通がうまく図れない他者の言動を受容し続けることがその人の人権を守ることになるというリスクとストレスの高い社会福祉事業であるのだから、社会的地位の向上と手厚い待遇を国が補償するべきではないだろうか。

また、山口県と言えば首相のお膝下である。首相は自身の故郷で起こったこの事実をどう捉え、どのように思っておられるのであろうか。それとも首相にとっては些細な出来事でしかないのであろうか。

誰かに頼らざるを得ない間は、隣人愛に期待するしかないのであるが、それが出来ていれば既にこの世から差別や暴力が無くなっているはずであろうから、福祉施設であろうとも人の手を離れない事業である内はこのような事件は無くならないのかもしれない。

隣人愛とは神様しか持ちえる事のできないない心なのだろうか・・・。

凡夫というは・・・。

2015-06-07 09:30:53 | 日記
愛媛県で起こった僧侶が人を殺めてしまうというニュースを観て感じたことを一石。

彼が浄土真宗の一派の僧侶だと報じられている事が事実であるとしたら、彼は殺生している自分の心の動きをどうとらえていたのでしょうか。

親鸞聖人の心をもってしても彼にとって経とは「空」だったのでしょうか。仏教を学ぶことは、資格を得る為だけだったのでしょうか。親鸞聖人が法然上人を師事したように心から尊敬できる師を見つけることができなかったのでしょうか。読経とは「気づき」ではなく慣習でしかなかったのでしょうか。悪人と善人との違いはないと思っていたのでしょうか。また、長い年月をかけて根付いた仏教は、腐ってゆくのも然りだと思っていたのでしょうか。

それとも僧侶という固定観念が私達の目を曇らせているのでしょうか。

親鸞聖人は、

「凡夫というは無明煩悩、われらが身にみちみちて、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心、多く、ひまなくして、臨終の一念に至るまで、止まる、消えず、絶えず」

と、おっしゃっています。つまり、人はどんなに行を重ねても悟りは開けないから、最後は阿弥陀如来に救っていただくしかないと説きます。

それが、「善人なほもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」という思想に結びついてゆくのです。でも、それは親鸞聖人の師である法然上人からの教えでもあるのです。

苦しみの中からたどり着いた世の人々を救う親鸞聖人の心、阿弥陀如来の心というべき、僧侶を目指すなら普通の人がたどりつけぬ深く広い慈悲の心に触れる機会も幾度かあったでしょう。

しかしどれだけ言葉を羅列しようと彼の心はわかりません。ただ、彼が仏教を学んできた過程で触れてきた親鸞聖人「心」は彼に届いてなかったと言えるのかもしれません。

また、被害者やその親族の気持ちを考えると命を奪われたことへの憤りを感じずにはいられませんが、肉体から離れてしまった女性の魂が彷徨わずに往還回向するよう阿弥陀如来に助けていただく他力本願という思想は、残されたものへの心の支え、救い、ではないかとも思うのです。

合掌


清めなければならない心は・・・。

2015-06-02 18:23:42 | 日記
寺社などに油をまいた人が特定された。その動機は「清める為」だという。油をまいた人はキリスト教系の宗教団体幹部であった。

イエス・キリストなら愛のない行いはしないでしょう。だから彼はイエスを信仰しているのではなく、自信を信仰していると捉える事もできます。

また、神に邪悪があるのだとしたら、イエスもブッダもムハンマドも八百万の神も偉大な創造主を信仰したのだから、邪悪なのはそれを都合のいいように利用した人間であるように思います。

そう思うのは「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」という一休禅師が伝えたといわれている道歌があって僕はこの道歌に本当の信仰心があるように思うからです。

したがって清めなければならないとしたら、それは彼自身の心ではないかと思うのです。