朝刊の記事の中に投石中止問題についての識者の意見が掲載されていた。
報道されてから、とても気になっていたので、自分なりにいろいろ考えを巡らしていたので、ここにまとめておきたいと思う。
人が、自分の力で生命が維持できなくなることを、「自然の死」だとすると、透析という医療行為によって、寿命を延ばすことは、「不自然の生」という事になる。
生きている事に「自然も不自然もない」というのも間違いではないし、生きていたいという意志と、それが医療行為によって可能になるならば、多くの人は医療行為によって延命する方を選択するであろう。
では、「死」は誰が決めるのであろうか。「死」は避けなければならないものなのであろうか。
個人が決める事であるから、明確な答えなどない。
しかし、識者はこう言った。
「医療現場で、医師が、患者に『自己決定権』を委ねてはならない」
「今日、死を選んでも明日はどうなるか分からない。そういう希望と可能性がある存在で当然、立場が変わる時がある。だから医師が患者に死を促すような選択肢を提示する事はあってはならない」
正しいと思う。しかし、その為に対価を払い制限のある日常を生きてゆかねばならないのは患者である。
もし、透析という技術が無ければ「死」を迎えていた存在でもある。
介護現場で透析を受けている人を何人も見てきた。隣の人が食べている物が、制限によって食べられない。どうして食べられないのかと、感情をあらわにする人もいた。体調の起伏が激しい人もいた。
その度に、その人の幸福とはなにかを考えた。ドライな人は「自業自得」と切り捨てた。
医療倫理とは何か。尊厳ある死とは何か。
これほど便利になった世の中でも、根源的な問題は未だ解決を観ることが出来ない。
「死」は、もう個人の手の中にはないのかもしれない。
報道されてから、とても気になっていたので、自分なりにいろいろ考えを巡らしていたので、ここにまとめておきたいと思う。
人が、自分の力で生命が維持できなくなることを、「自然の死」だとすると、透析という医療行為によって、寿命を延ばすことは、「不自然の生」という事になる。
生きている事に「自然も不自然もない」というのも間違いではないし、生きていたいという意志と、それが医療行為によって可能になるならば、多くの人は医療行為によって延命する方を選択するであろう。
では、「死」は誰が決めるのであろうか。「死」は避けなければならないものなのであろうか。
個人が決める事であるから、明確な答えなどない。
しかし、識者はこう言った。
「医療現場で、医師が、患者に『自己決定権』を委ねてはならない」
「今日、死を選んでも明日はどうなるか分からない。そういう希望と可能性がある存在で当然、立場が変わる時がある。だから医師が患者に死を促すような選択肢を提示する事はあってはならない」
正しいと思う。しかし、その為に対価を払い制限のある日常を生きてゆかねばならないのは患者である。
もし、透析という技術が無ければ「死」を迎えていた存在でもある。
介護現場で透析を受けている人を何人も見てきた。隣の人が食べている物が、制限によって食べられない。どうして食べられないのかと、感情をあらわにする人もいた。体調の起伏が激しい人もいた。
その度に、その人の幸福とはなにかを考えた。ドライな人は「自業自得」と切り捨てた。
医療倫理とは何か。尊厳ある死とは何か。
これほど便利になった世の中でも、根源的な問題は未だ解決を観ることが出来ない。
「死」は、もう個人の手の中にはないのかもしれない。