硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

その事件の先にあるもの 2

2016-09-30 16:53:06 | 日記
夏目漱石先生の「吾輩は猫である」にこのような件があります。

苦沙弥先生と寒月さん、独仙さん、迷亭さん、東風さんが知的雑談おこなっていると、苦沙弥先生が
「とにかくこの勢いで文明が進んでいった日にゃ僕は生きているのは嫌だ」といいました。それをうけ迷亭さんは
「遠慮はいらないから死ぬさ」といいます。それでも、「死ぬのは猶いやだ」と、わからん強情を張ります。すると寒月さんは
「生まれる時には誰も熟考して生まれる者はありませんが、死ぬときには誰も苦にすると見えますね」とよそよそしい格言を述べます。
更に4人は文明の不平を述べあいますが、苦沙弥先生はこう言います。

「死ぬことは苦しい、ただし死ぬことできなければ猶苦しい。神経衰弱の国民には生きていることが死よりも甚だしき苦痛である。したがって死を苦にする。死ぬのが嫌だから苦にするのではない、どうして死ぬのが一番よかろうと心配するのである。ただ大抵のものは知恵が足りないから自然のままに放擲しておくうちに、世間がいじめ殺してくれる。然し一癖あるものは世間からなし崩しにいじめ殺されて満足するものではない。必ずや死に方について種々考究の結果、斬新な名案を呈出するに違いない。だからして世界向後の趨勢は自殺者が増加して、その自殺者がみな独創的な方法を以てこの世を去るに違いない」
そして、さらにこう言います。
「ところが惜しい事にしないのだがね。然し今から千年も立てば実行するに相違ないよ。万年後には死と言えば自殺よりほかに存在しないもののように考えられるようになる」
そして、「そうなると、自殺も大分研究が積んで立派な科学になって、落雲館のような中学校で倫理の代わりに自殺学を正科として授けるようになる」
と言います。さらに話は進み、話を聞き入っていた東風さんが
「どうも先生の冗談は際限がありませんね」と言って大いに感心すると、独仙さんは
「冗談と言えば冗談だが、予言と云えば予言かも知れない。心理に徹底しないものはとかく眼前の現象世界に束縛せられて泡沫の夢幻を永久の事実と認識したがるものだから、少し飛び離れた事を云うと、すぐに冗談にしてしまう」
と、言い切ります。

この件を読み込んでみると、夏目先生は、「吾輩は猫である」の登場人物を通じて未来人に語り掛けているように感じないでしょうか。
そう考えると、明治では冗談でしかなかった事を本気で考えなければならない時がやってきたのかもしれません。

その事件の先にあるもの

2016-09-28 21:04:22 | 日記
点滴への異物混入による殺人事件の報道を見て少し考える。

誰がどんな目的でこのような事をしたのかは分からないし、理解しがたい。
しかし、高齢者が病院で亡くなることが当たり前になってきた世というのは、本当に幸福なのでしょうか。人は人生の終末において、医療行為を受けながらベッドの上で延命し続けられなければならない状況を、喜んで受け入れられるものなのでしょうか。
医療技術が発達したことは、病に苦しんでいる人たちやその家族にとっても喜ばしい事であり、年齢が若ければ若いほど、本人や家族の喜びは大きいものです。

しかし、身体が老化し自身の力で食べる事や排せつする事等、生きる為の最低限の動作が出来なくなった時でも、医療技術での延命は上記で述べた例と同様な喜びを本人や家族にもたらすことが出来るでしょうか。疾患が完治し、身心が若返るならば、同じような喜びを得る事も出来るかもしれませんが、今の技術では不可能です。

では、人の死と言うものは、どうあれば幸福と呼べるものになるのでしょう。それとも死は幸福をもたらさないものなのでしょうか。
人の死が幸福をもたらさないというのであれば、人は死ねなくなってしまいますが、差別や格差、いじめや貧困がなくならない社会で、不老不死を得たとして、果たして幸福と呼べるものなのでしょうか。
しかし、この事件を肯定するつもりはありません。でも、現在、看取る側の人達が年老いて寝たきりになった時、看取られている人々と同じように日々を過ごすことを受け入れられるでしょうか。

人体の構造上、生理的機能が不可逆的に減退してゆくことは止められないので、人はいつか死に至らなければなりません。その時に死を迎える場所が公的機関によって担保されなければ、残された者たちの都合が悪くなるという状況を、今から社会的に変換してゆかなければ、偏った個人的な価値や正義感によって、同じような事件が繰り返される可能性が高いような気がするのです。

科学が切り開く未来とは。

2016-09-23 20:49:41 | 日記
リニア新幹線認可取り消しを求める裁判が始まったというニュースを観ていて思ったことを一石。
環境への影響や安全性を問う裁判なのだそうで、慶応大学の先生によると「リニア中央新幹線が必要だという合理的な説明がなく、憲法で保障されている生存権や人格権などを一方的に侵害されている」としており、原告や弁護団からは「多くの区間はトンネルで、自身が起きた時の安全性の確保など様々な問題点がある事を裁判を通じて明らかにしてゆきたい」から、裁判でその是非を問うのだという。

最新の科学技術と言うのは不安定なもので必ず犠牲が伴います。
それは、昨日の新聞で大きく取り上げられていた高速増殖炉もんじゅにも同じことが言えます。
最初から人間の力で自然を乗り越える事が出来るのであれば、何も問題はありませんが、科学は常に未踏の地を切り開いてゆかなければならない役目を担っていて、乗り越えた後に私達の生活にそっと帰ってくるものだと思います。

そのおかげで私達の生活は豊かになりました。テレビや冷蔵庫、洗濯機、自動車や携帯電話、インターネットの通信環境等を多くの人が所有することが出来るようになった現代でこれ以上の内需拡大を図るとするなら、私達はこれらのものを素早く消費してゆかなければなりません。それは、そうすることによって私達の仕事が守られてゆくからです。
しかし、国民一人一人がそこまで裕福ではないので、無理が生じます。
そうなると、今の生活水準を保とうとなると、技術を他の国に売ってゆくことが、日本経済を支え、結果的に私達の生活が保たれることになるのではないかと思います。
昨日アメリカが国交を回復したキューバに安倍首相が訪問しましたね。
そのことからも分かる様に、経済を保ち続けるには、途上国のインフラ整備に等に貢献してゆく道が経済を保つ重要な手段であると国は考えていると読み取ることが出来ます。

その為にもリニア新幹線を走らせ他の国の人達に「日本の技術は素晴らしいね。ぜひうちの国にも」というアピールが不可欠だけれども、科学を進める為には、環境破壊と不確定な安全性と言うリスクを背負わなければならないという状況に陥ります。

もし、今の利便性の高い生活を放棄し、100年ほど前の生活のように自然と共に歩む生活にシフトし地産地消という小さな経済活動を皆が受け入れれば、原発もリニアもいらないといえるけれども、多くの人は華やかで豊かな暮らしを望んでいるので、私達は引き続き、科学の進歩と、それに伴うドロドロしたメディアを賑わすような煩わしい利権問題と、予測のつかない環境の変化に我慢強く付き合ってゆかなければならないのかもしれません。

読書の秋に。

2016-09-15 21:35:54 | 日記
どうも心身ともに調子が悪い。パソコンを開くことも、読書も進まない。そんな中、一か月ほど掛かって小林秀雄賞受賞作の帯文に惹かれて購入した加藤陽子さん著『それでも、日本人は戦争を選んだ』を読み切る。

本当にいい本だと思います。そして、この本が同じ過ちを繰り返さない為の布石になるといいなと思いました。