硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

いくつになっても・・・。3

2024-07-31 17:50:41 | 日記
目的のお宿は大きな通り沿いにあるので、すぐ見つけられた。
先ずはよく周りを見て構造を見極める。そして靴を脱ぐ。ロッカーに入れる。鍵をかける。フロントに行く。このように自分の中で順番を決めてから行動に移してゆく。しかし、チェックインは一向に慣れない。緊張するのである。住所などを記入するとき、ついつい字が浮いてしまうのである。

フロントでは、女性が柔和に、かつ丁寧に説明をしてくれている。その様子を見てこのお宿は大丈夫だと安心する。大げさかもしれないがいつもこんな感じである。
前の人を見て流れは掴んでいたので手際よくチェックインを済まし、部屋までのルートを覚え荷物の軽量化を図り、見た目よりも快適性を重視し汗対策のタオルを首に巻き、焼けたアスファルトにエネルギーを奪われながら夏祭り会場を目指した。

スマホの時計を見ると開始時間が迫っていて、日は沈み街明かりが輝き始めていた。

よくよく考えると、この時間にこの辺りを歩くのはたぶん30年ぶり。しかし、あの頃の記憶はほとんどない。よく来たディスコも(時代がそんな雰囲気だったし、テレビの影響も大きかったのです)どの通りにあったかすらも思い出せない。
今は、後にそれがバブル経済と呼ばれ、短い流行だったという印象だけが残っている。
時代は違うにせよ「僕もあんな感じだったのかな」と思いながら楽しそうに戯れている若者たちを遠い目で見つめ、広小路公園へのルートを迷うことなく歩いてゆく。

開始時間前に到着し、暑さもあってのどの渇きを覚える。
水分補給しようとブースを回ってみるが、驚くべきことに(見つけられなかっただけなのかもしれないが)ビールの販売しかない。たしかにこれだけ暑ければビールの方が旨いのは分かる。しかしビールには利尿作用があるので、イベントの途中で用を足すために席を立つことだけは避けたい。
ブース前には紳士淑女が列をなしているが、万全の態勢で夏祭りを見たいので意志を固くしてここも耐える。

暫くすると、入場する列ができているのに気づき、最後尾を示す看板を持つスタッフさんのいる場所へ移動。
「席がいっぱいになった時点で座れなくなります。ご了承ください」と声をかけている。
椅子の数を横目で確認し列の長さをみるとその可能性は大であった。
まぁ並んでしまったものは仕方がない。もし溢れたら、どこかで飲み物を買ってから場外から見物しようと決め、そのまま流れに乗ってゆく。

しかし、運よく席は空いていて、かろうじて最後尾に近い席に座る事が出来た。
これはラッキーである。

さて、夏祭りの出し物は告知で知っていたけれど実際どんな感じになるのかなぁと期待しながらしばし待つ。
この会場に来た時から気になってはいたが、お客さんの年齢層が高い。見た目が50歳から70歳くらいの男性で多くが占められていた。
「ズバリ!」は平日午後からのラジオ番組であるし、内容が「かつての深夜番組のノリ」に近く、あの時間に聴けるリスナーとなると年齢的に限定される。
現代の高校生や大学生の多くの人は「ラジオは聞かない」という。だから、この現象はリアルな聴取者層を如実に表しているのだと思った。

いくつになっても・・・。2

2024-07-30 19:47:53 | 日記
当日、お昼過ぎから出発し近鉄電車に乗って一路名古屋へ。

現在の名古屋はリニア開発に伴って街の再開発が進んでいて戦争からの復興を遂げた名古屋の面影がどんどん消えていっている。車窓から見える名古屋駅をぼんやり眺めながら、21世紀後半の名古屋はどうなっているのだろうか。

名古屋駅に着くと、まず新幹線の改札横のトイレに向かうのがルーティン。このとき「新幹線のチケットを買って遠くに行ってしまいたい」といつも思ってしまう。
用を済ませ改札を出ると次は地下鉄東山線に乗り換えなければならない。毎度のことであるが心身が都会に順応するのに時間が掛かる。歳をとったせいか一層そう感じる。
暑さでバテ気味の身体を動かしながら、階段を上ってゆく。
地下街のお店も所々変わっていて驚くも、基本的な構造は変わっていないので東京メトロほどの迷いはない。記憶を補正しつつ表示板を探しながら標識に従って慎重に歩いてゆく。

週末であるから平日ほど混んでないだろうと思いきや、やはりと言うべきか、ホームに向かう階段を下りてゆくと沢山の人が次の列車を待っていた。
周りを見渡しながら複雑に並んでいる列の最後尾につくと、すぐに列車が入ってきた。さすが地下鉄である。
人混みに慣れてないのでホッとする。

列車の扉が開くと、ドッと人が出てきて、下車する人の波が切れると同時に、軽く後ろから押されつつ僕の身体は列車の中に押し込まれた。
車内はぎゅうぎゅうである。
背中に知らない人の背中が当たる。猛暑なので他人の体温がTシャツ越しに伝わってくる。
僕の日常で、こういう場面はない。だからどうにも気になるが、「気にしない気にしない」と自分に暗示をかけ「痴漢にだけは間違われないように」と周りに配慮し、広告や電子表示板を観察したい気持ちも抑え、軽く俯き両手でつり革を持って、次の駅までの三分間をじっと耐える。
伏見駅に到着すると下車する人がいてほんの少しスペースが生まれホッとする。

そこから三分で栄駅に到着。扉が開き堰を切ったように人々が車外へ移動する。その流れに逆らえるはずもなく濁流に流れる小枝のように流されてゆき改札にたどり着いた。

しかし、どの出入り口から出れば最短であるかが分からない。スマホか? いや、ここは掲示板だろう。と改札を出たすぐ側に設置されている掲示板で方角を確認。
時間を見るとお宿のチェックインの時間が迫っている。これはいけないと、宿近くの目標物を探しだし、そこから一番近い出口の番号を見つけ、再び表示板を頼りに歩いてゆく。

人は多いが流れには乗れている。というか、東京よりも周りのある帰化型若干遅い気がする。
これは地域性だろうか、などと考えながら表示された出入り口の階段を駆け上がってゆくと、次第に車の行きかう音が聞こえてきて、周りの空気も生ぬるくなった。地上に出るとビル群が夕日に照らされていて、街はゆっくり夜の赴きに移り変わろうとしていた。

いくつになっても・・・。

2024-07-29 17:13:18 | 日記
ラジオと言えば、つい先日4歳くらいの男の子とそのお母さんとの会話が耳に入ってきて、市かも気になったワードが出てきたので、少しばかり耳を傾けていると、その男の子がお母さんの話から「ラジオって何? 」という言葉を発し衝撃を受けた。話を聞いているとラジオという言葉を知らないというよりもラジオの存在を知らないようである。彼らにとって、情報源はスマホからのユーチューブやテックトックが主流なようで、ラジオは存在していない。

その話を聞いていて痛切に時代の流れを感じたが、昭和生まれの世代はラジオが主流であり、生活の中にあったので、今でも切り離せない。
だから、令和の時代であっても朝布団から出る前や、散歩時や車での移動時には普通にラジオの存在があるのだろうと思う。

だからと言って熱量のあるヘビーリスナーではないけれども、なぜかラジオのスイッチを入れていて、平日の午後に車移動するときには大体CBC。
その時間は知る人ぞ知る北野誠さんの「ズバリ」が流れている。

常連リスナーさんやメール職人さんの赤裸々な話とそれを巧みに笑いに変化させる北野さんの話術。さらにアシスタントさんのリアクションが軽妙で、ついついチャンネルを合わせてしまうのである。
40歳くらいまでは好きな音楽を聴いていて、ラジオから遠ざかっていたが、歳を重ねるにつれ「ラジオって面白い」と思うようになり、転職を境にラジオを聴く時間が伸びていった。
CBCラジオは地域性もあってか馴染み深く、小学生位の食事の時には(ご飯を食べる部屋にはテレビがなくラジオが置いてあったからである)よく聞いていた覚えがある。(真空管を使った大きなナショナルと入った灰色のラジオだったなぁ)

それはさておき、

毎年七月の中旬になると、CBCラジオは「夏祭り」の告知を始める。前から気にはなっていたのであるが、ヘビーリスナーではないので重い腰を上げなかった。しかし今回は土日が休みの仕事になり、これは心置きなく行けるのではないかと考え、細君に「ラジオ祭りに行こうと思う」と宣言。細君も車に乗るときにはラジオ派であるので、快く了解を得た。

しかし、「ズバリ」の枠は19時から始まり20時に終わるという時間帯なので、そこから家に帰るとなるとずいぶん遅くなる。どうしようかと迷っていると「泊ってくれば? 」と促してくれたので「ではそうします」と即返答。ようやく重い腰を上げられたのであった。


行き詰まりと息詰まり。

2024-07-14 16:53:52 | 日記
SNS上では都知事選が終わった後も候補者への批判が相次いでいる。
もう目にするものしんどいので瞬間的に飛ばしてゆくのであるが、その粘着力には驚きを隠せない。

なぜ、そこまでこだわるのか。
当選者のこれまでの成果に疑問を持つ人々が批判し続けるのは「よくならない」という思いからであると察しが付くが、落選者に対しては落選した時点で批判する理由はなくなるはずである。

粘着する事にメリットがあるのだろうか?

もしあるとしたら、自分の正しさを他者から認められたい気持ちに執着しているか、当選者が辞退する状況が生まれた時に、落選者が繰り上がらないよう止めを刺しておく必要があるという組織的な動きによるものかのどちらかであるように思う。

どちらにしても、第三者から見ればその行為は「イジメ」にしか映らない。
SNSを駆使する人々は、「いい大人」であるはずなのに、なぜ行為が稚拙なのだろう。

直接的な被害を受けているなら、恨みを晴らしたいという感情が残り続けるが、多くの人がそうでない人であるはず。
なのに、なぜそこまで執拗に批判し続けるのだろうか。
正解は全く分からないが、もっとシンプルな理由として、日常で他者と会話する事がほとんどない人物が、SNSでその喪失感を充足する為に執拗に批判しているのかもしれない。

だとしたら、個人主義も行き詰まりの所まで来ているといえるのかもしれないし、そのような世の中では息も詰まるのではないかと思う。

SNSを有意義なものにしたい。

2024-07-07 17:07:32 | 日記
都知事選の投票日。地方に住んでいるので余り関係はないが、Ⅹを見ていると、かなりの割合で関連のポストが流れてくる。
気にはなるので、どんな主張がなされているのか読んでみるが、時々、頭を悩ますポストを見る。

発言の自由が確保されているとはいえ、辛辣な発言や憶測で批判しているのを見ると、

「なぜ、このような投稿をするのだろう。その発言をすることによって、なにか見返りがあるのだろうか。または、過激な発言をして誰かに認められ優越感に浸りたいのだろうか。それとも、教祖崇拝のような心理状態なのだろうか。もしそうならば、なぜそのような心理状態に陥ったのだろうか。」

等と色々考えるも、これと言った答えに至らない。

個人的に候補者に対して特別な恨みつらみがあれば、感情をぶつけたくなるのは人の性。
ですが、辛辣な言葉で、面識もない人を精神的に追い込むような投稿には疑問を感じる。

TVショウに出演した女子プロレスの人がSNSによって自殺に追い込まれた事件から、まだそれほど時間は経っていないにも拘らず、SNS上では面識のない人でも辛辣な言葉で追い込む人が後を絶たない。

もっと有意義にSNSを使用していきたいと思っているのであるが、このような投稿を目にする度に、精神的に疲労してしまうのである。

言論統制という状態は反対であるが、思いやりがない投稿というのも反対である。