硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

超高速参勤交代を観る。

2014-06-27 18:31:23 | 日記
とても楽しみにしていた映画なので早速観てきました。

この映画、面白いの一言に尽きます。鑑賞していたお客さんが一斉に笑うという一体感が生まれるほどに面白いのです。

話の型は勧善懲悪でオーソドックスな展開であるけれど、全体のクオリティが高く鑑賞者に「楽しんで観てもらいたい。」という気持ち伝わってくるのです。

そして何よりも、佐々木蔵之介さん演じる殿様と市川猿之介さん演じる将軍の交わす言葉にこの作品に込められたメタファーに気づき驚きそして感動したのです。

沢山の映画がある中で、この作品は間違いなく秀逸であると思う。2000円出してもいいと思わせるほどに鑑賞後も実に晴れやかで爽やかであった。

本当にお勧めの映画です。

誰がために?

2014-06-25 19:31:31 | 日記
都議会における野次問題が広がりを見せている事について思った事を一石。

デリケートな問題であるので言葉を吟味し進めてゆこうと思うけれども、人はそれぞれに考え方が異なるので場合によっては不快感を与えるかもしれませんが、あくまでも個人的な思いなので予めご了承を頂ければ幸いです。

まず、あの映像を観た時、本当に呆れてしまいました。議会での野次は慣例化しているから止める事は出来ない。したがって政策に関して矛盾や対立した案があるなら、それに対して野次ればいいはずなのに、あれでは個人の生き方への野次であるから野暮である。

次に、畳みかけるように続いた野次は、小学生レベルのいじめである。冷静になって考えればとても恥ずかしい発言なのではないでしょうか。

そして、彼女である。

女性の為の政策を訴えているのなら、野次を飛ばされてしまうような訴え方は女性にとってマイナス要因にはならないだろうか。
これほど場が荒れれば、現在は追い風かもしれないが、体制は依然として男性主体で進められてゆくので、後々の活動に支障がでて、通る政策も通らなくなる可能性が出てくる気がするのです。


仮に、流されている映像は無造作に広範囲に広がり、ジェンダーという極めてデリケートな問題ならば、ネットでつながっているフェミニストの方々の目に留まり、同志が声を上げてくれるであろうことを前提に狙っていったのならば、かなりの策士であるが、日本と言う小さな独自の文化の中では、スタイリッシュな出来る女性というのは、すべての女性が目標にしたいわけでもなく憧れるわけではなから反発も多かろうと思われるので同性からの支持も減るのではないかと思う。

そうなってしまっては、本当に手を差し伸べなければならない人に手が差し伸べられなくなるのと同時に、見る人から見れば、本質は野次を飛ばした男性議員と変わらない人になってしまうような気がするのです。

そして、一番残念なのは、あの場にいらっしゃる方々はそこそこにきちんとした教育を受けておられる人で都民から選ばれた人ばかりであろうから、もう少しスマートに出来なかったのかなと思ったのです。








つばめ。

2014-06-22 20:03:21 | 日記
五月の初めごろに燕が飛来し、我が家の軒先の樋に巣をかけ始めた。それを観た母が「軒先が糞で汚れるから落としておいて。」と言うので、積み上げかけた泥を排除した。毎年の恒例となっているので仕方なしと思っていたが、戻ってきた燕は「ちちちちちっ」と啼きながらホバリングして驚いている様子であったが、ひるむことなくそのまま復旧にとりかかり始めた。

なかなか粘るものだと、思っていたら家の裏が田んぼである為にあっという間に基礎が出来上がり、翌日には一度排除した高さまで泥が積み上げられていた。それを観ていた妻が「また作っているから早く取らないと。」と言うので、しぶしぶ排除したみたものの、燕は諦めることなく粘り強く、また一から泥を積み上げるので、「もういいじゃないか。汚れたら掃除すればいいだけの事だ。」といって、巣作りを承認した。

2日ほどで工事が終わると卵を産む時期が近かったのであろう。浅めの巣に雌の燕がじっとしている姿が見てとれ、もうすぐ生まれるのであろうかと玄関を通るたびにその様子を観察していた。

6月に入り、ある日妻が「卵の殻が落ちていたよ。」というので覗きに行くとどうやら無事に雛がかえったようだが、猫達もその様子に気づいたらしい。猫達は巣を掛けている時から幾度となく猟を試みていたが、巣までは随分高さがあるので、垂直の柱の半分くらいまでしかかけのぼる事が出来ずに半ばあきらめた様子であったが、それでも時頼近くまで行っては首を上に向け巣の様子を窺っていた。

やがて雛は成長し、親鳥が忙しそうにかわるがわる雛に餌を与えるとピイピイと小さな鳴き声も聞こえてきて心を和ませた。
しかし、今日帰宅して巣の方に目をやると親鳥が静かに巣の近くの雨戸の上に留まって巣をじっと見つめていた。様子がどうもおかしい。すると妻が「今日雛が巣から落ちてきて猫が咥えてきた。」と言った。
それでも何匹かいるであろうから「後の残りは?」と聞くと、どうやら次々に落下したらしい。たしかに、浅すぎる巣であったので、雛が大きくなり動くとどうなるかまでは燕も予想がつかなかったようだ。しかし僕が巣を落とさなければもっと立派な巣が出来上がっていたのではないかと思うと少しばかり心が痛んだ。

猫は何事もなかったようにニァーと可愛く鳴いて愛想を振りまいてはいるが、やはりネコ科の猫なのである。いくらキャットフードを与えていても本能までも無効にする事は出来ない。しかも、わざわざテラスまで持ってきて行われる惨劇は猟の成果の度に繰り返されている。

妻は動かなくなった雛を猫に見つからぬよう回収し川へ水葬したのだという。事実を知った僕は表に行き、空になった巣を悲しそうに見つめる親鳥に、

「残念だったね。また来年おいでよ。」と声をかけたが、二羽とも首をかしげて一向にその場を離れようとしなかった。





盲点!!

2014-06-17 23:56:19 | 日記
昨日の続きをもう少しだけ。

ポルトガルやスペインがどうして成り立ったのか気になったので調べてみると、その起源は紀元前!!

歴史に詳しい人なら周知の事なのですが、全く知らなかったので驚きと感動であった。

大雑把に説明すると、もともとケルト人やイベリア人で構成されていたのであるが、ローマ人の進出により統制されるも帝国の衰退により、ムーア人に取って代わられ、その後、戦いに勝利したヨーロッパ人の手に戻ったという過酷な歴史を潜りぬけて、大航海時代に突入していった人達であった。

起源が、ピレネー山脈を越えてきたクロマニオン人であるらしいから、その始まりは約37000年前である!!

しかも紀元前200年位から近年まで戦争を繰り返して来たのだから、戦う為に身体が進化していったと考えると、彼らはなぜ強いのか分かる気がしたのです。

しかし、そう言う歴史を踏まえて、世界で起こっている紛争を考えると、人類の一部の人間は戦争と言う「命の奪い合い」に、理屈抜きに「生きがいを感じられる」から、いつまでたっても戦争がなくならないのではないかと思ったのです。





盲点!

2014-06-16 22:59:12 | 日記
テレビを観ていたら、タレントのマルシアさんがポルトガル語で話していた。バラエティ等では日本語で話されているので、改めてブラジルの人なんだなぁと感心していたのもつかの間。ふと昨日の日記の事を思い出した。

なぜ、南アメリカのブラジルでポルトガル語であるのか。

よく考えてみたら、ブラジルは15世紀末にポルトガル人やスペイン人の侵入によって言語が再構築され、その後西アフリカ人が奴隷として集められ、原住民であったインディアンとの戦いがあり、それに続くヨーロッパの人々の移住と、西アフリカ人やインディアンとの混血によって現在の人々が存在しており、また、侵略と略奪を伴った文化の喪失と、新たな文化の構築というストレスフルな状況を乗り越えて現在に至っているのでブラジルの人々は、メンタル、フィジカル共にタフなのではと想像することができる。

さて、話は昨日の続きです。これは形は違うにせよ、もし国が労働力として移民を受け入れれば、おのずとブラジルと言う国がたどってきた文化を争い抜きで踏襲するだけの事ではないかと思ったのです。

つまり、それは日本も500年後にはワールドカップの頂点に立てる日が来るという未来を予測できるのですが、それ以前に地球という天体が500年と言う時間を保っていられるのか予測する方のが難しいように思われるのです。

そう考えると、まさに、すべては神のみぞ知るですね。

関連性のない事象だったけれど。

2014-06-15 19:56:45 | 日記
夜勤明けで、交替する青年が「今日はワールドカップの日本戦ですねぇ。見られていいですねぇ。」と声を掛けてきた。しかし僕自身は世間が騒いでいるほど関心がないので、「いやぁ。僕はダイジェストで十分なんですよ。」と答えると「ええっ。日本戦ですよぉ。見ないんですか?」と不思議がられたので、「サッカーやってるの?」と問い返すと「いやぁやってないけど、ワールドカップだし。」と答えられ、思わず愛想笑いをしてしまう。

サッカーは嫌いではない。ボールのない所でのプレイヤーの動きから点に繋がったり、華麗なパスやシュートには感動する。
だから、仮眠から目覚めて経過を観て見ようかとNHKにすると、なんとコートジボワールが同点ゴールを決めた瞬間だった(笑)これは遺憾!!と思い、すかさず番組を変える。

しかし、昼食を摂っている時、速報が流れ逆転された事を知り、なんだか少し罪悪感を感じつつも世界の壁はまだまだ高いのだなと思った。

今日は天気も良く、少しばかり時間も空いたから2年ぶりくらいに日曜礼拝に行ってみた。

キリスト者の知人との久しぶりの再会に思わず顔がほころび、近況などを語り合いつつ、他のキリスト者の方も交えて少しばかり雑談をしていたら、これもまたNHK繋がりの話題で「花子とアン」や「軍師 官兵衛」にキリスト教が取り上げられているので、少しずつ認知度が上がっているのではというお話をされていた。

なるほどなぁ。と感心しつつも、日本ではキリスト教はまだまだマイノリティなのだなと改めて思った。

そして、しばらく色々考えて、少しばかり未来に目を向けてみると、面白い事が頭に浮かんできた。

たしか、この間介護や建設業等の従事者不足を外国人労働者で補おうという計画があると政府からの声明があったように思う。

もし、規制が緩和されれば、現時点から考えればキリスト教圏からの入植者が増える可能性が極めて高い。現在でも少し町に出れば南米の人をよく見かけるし、南米系の教会も普通に見られるようになった。(モスクを見つけた時は驚きを隠せなかった。何しろ田舎なものですから。)

また、日本では少子高齢化が進んでおりこのまま行くと、日本人の人口は減少してゆくことになる。したがって労働力を外に求めれば、いずれマイノリティだったキリスト教を信仰する人口が仏教や神道に変わって逆転することになる。

また、もし、ブラジルの人々の構成する肉体の細胞が日本人と明らかに異なるなら、日本で出生した子供たちが日本での市民権を得て(もちろん南米だけではなく、アジアやヨーロッパやアフリカ等)日本のサッカー界をけん引してゆく事になった時、日本は今とは違った形でワールドカップの決勝に駒を進めるチームになるのではと思ったのです。

こう語って見ると、全く関連性のない話題が此処に来てピタリと合わさった感じがしませんか?





祭典の陰で。

2014-06-12 21:27:25 | 日記
ワールドカップが始まる。全世界のサッカーファンが待ちに待った祭典であり、この日のために心身を鍛錬してきた猛者たちの戦いの場でもある。また、あのボールには誰かの夢や誰かの希望、未来が詰まっている。

そんな素晴らしい競技であるが残念でならないことも存在している。

今回のワールドカップの為に、生活の場を奪われてしまった人がいると言う。

ソチ五輪の際も、同じような事が競技の陰で小さく報道されていた。

そして、ふと思う。こういう国際的祭典の陰で、それまでの生活を奪われてしまう人々が出てしまうのはどうしてなのかなと。

その理由を考えれば考えるほど分からなくなってゆく。

あいまいな言葉で例えるなら、資本主義社会とはそういう形でしか成り立たないものかもしれないが、自身の身体とボール一つで未来を切り開いてゆけるという現実がそこにあるから、世界が熱狂するのではないかと思ったのです。

歪んだ思い込みは人を幸せにするのだろうか。

2014-06-10 10:50:00 | 日記
朝刊に目をやると、殺人未遂等のほう助の罪に問われている菊池被告の裁判で検察側は菊池さんに懲役7年を求刑したとあった。

振り返って見ると、あの頃の僕は宗教感は家の仏壇や神社で手を合わす事位だったから、あの出来事は漫画をみるような不思慮な感覚であったように思う。

しかし、至らない知識ではあるけれども宗教と言うものが少しずつ理解出来てゆくと気づくことが増えていき、今改めて考えると、宗教団体の思想は普遍的な宗教思想からは逸脱しており、菊池さんはその被害者だったのではと思った。もちろん、彼女のした事は直接手を下したわけではないけれども人を傷つけた現実からは言い逃れは出来ないが、より良い生き方を目指して信仰の道に生きようと志した結果がこの事件を引き起こしてしまったのだとしたら、宗教が示す普遍的な思想よりも、生身の人間の言葉を信じ込んでしまったと言えるのではないでしょうか。

残念な事に神の言葉を都合のいいように解釈し己や団体自身を信仰するように仕向ける行いは、多くの宗教でも見られるように思う。

歪んだ世の中で生きてゆくのが辛いから、宗教によりどころを求めたが、その宗教自身も実社会の中の一部で歪んでいた。しかし、心のよりどころであるがゆえに、その歪みに対して盲目になってしまったのかもしれない。

生きる事は辛い。正しく生きようとすればするほどつらい。かといって自堕落にもなれない。自身と社会との間にある得体の知れぬ怪物におびえながら日々を生きてゆかなければならない事は他者には理解できぬことであろう。そこに宗教と言う光が手を差し伸べてくれるのであるから、信じて盲目になって行く事は自然であると思う。

あの宗教は何を目指したかったのであろうか。日常をそれぞれに生きている人々を無差別に殺める事件を起こしてもなお、形を変えて継続してゆこうとする人々が後を絶えないのは、そこに人を引き付ける何かがあるからであるが、信仰は人の力ではどうにもならない事に対して畏れ敬う事でしか生まれないのだとしたら、どんな宗教でも事の始まりは小さなサークル活動のように生まれたかもしれないが何百年、何千年という時と人の命を掛けて構築してきた宗教に対して突然打って変われるような新興宗教が素晴らしいものであるとは考えにくいと思うのです。

宗教を語る事は難しいかもしれないけれど、「思いやり」と言う気持ちを欠いた歪んだ思い込みは人を幸せにしないと思うのです。



こんな豊かな国であるのに・・・。

2014-06-02 23:40:47 | 日記
仕事から帰ってきてニュースを観ていたら男児遺棄事件の続報に愕然とした。子供を遺棄した理由が「新しい彼女が出来たから」だという。

彼は自身の欲望に正直で人の苦しみを理解しようとしない個人主義者である。

物があふれ、食べられる食べ物が捨てられてゆくほど豊かな国であるのに、餓死してしまう現実。

豊かな国であるがゆえに、人は他を忘れ自身の欲望に素直になれるのかもしれない。