つい先日、職場で「人権擁護」についての研修が行われた。今日のニュースでも見られたが「施設における虐待行為」がなぜ行われるかその要因が語られ、どれも深く同意するものであった。でも、そこから先が進まないのである。何年たってもそこに留まったままで同じことが語り続けられている。また、不思議なことにその現象について誰も触れない。
つまり、「問題を解決しよう」という光が見えてこないのである。
なぜだろうか。そこで、個人的に思ったことをひっそりと語っておこうと思います。なぜ「ひっそりと語る」のか、それは異論があるかもしれないけれど、そっとしといてくださいね(笑)ということなのです。
人は感情があります。その感情を理性で制御する事はなかなか難しいものですよね。
自分がよいと思ったことは、他の人にも「よい」と思ってほしいものですよね。
でも、自身とは違う他者に、自身の気持ちをすべて理解してもらおうとするのは無理ですよね。そこに他者との間に気持ちのズレが生じます。
そのズレをどう扱うか。そこが最初のポイントである。
時間をかけてゆっくりと語りかけてゆくか。または他者と私の間にある隔たりをお互いが歩み寄れるように働きかけるか。もしくは自身の気持ち吟味しなおしたうえで引き下がるか。
以上の選択肢なら、比較的平和的な解決策である。しかし、理性は感情をドライブしきれない。
そうすると次の選択肢が予想される。
全く相手にしない。力ずくで理解させる。
この選択肢の場合、強者が弱者に働く選択である可能性がとても高い。なぜならば、危害が加えられないことが前提にあるからである。
これが、福祉施設で行われた場合職業的にどうであるかが問われるのであるが、「人対人」という原則は変わらない以上、職員と入居者である場合強者は常に職員である。倫理綱領が問われる処であるが、根本の原則が揺るがない以上どうする事も出来ないのである。
主人と奴隷という関係は、大変厄介である。もし、虐待をなくそうとするならば、入居者が大金持ちで社会的地位が遥かに上で、その権利を職員に対して行使する代わりに、それに見合った対価を払う事が条件になる。
でも、施設に頼るのは自身の力では生きてゆくことができない社会的弱者であり、施設で働く人々は「競争社会では生きにくいと感じる人達」が多いので、その構造をひっくり返すことは不可能なのである。
業界自体、日が浅いから文章化(マニュアル化)し切れていない処もあるという説明もあったが、それで問題解決するならば、「留まっていないはず」である。言葉で済むことなら、口頭でも可能なアドバイスであるからである。
「人にやさしく」それで済む。
でも、人の感情は複雑であるから済まないし、留まり続けるのであると思うのです。
では、どうしたらよいか?という問いがなされなければ、進まないし、進めるためにはその問いに答えられる人がいなければならない。
社会福祉事業所にその答えに答えられる人はどれくらいいるだろうか。こういう意地悪な問いはすべきではないけれど、施設内に置いての「虐待行為」がなくならないのは、意地悪な問いに答えられる人がいないからであると思う。
じゃあそこまで言うあなたはどうなの?という問いも答えなければならないだろうから、気持ちを正直に吐露しておきます。
イライラする時もあるけれど、笑い飛ばすように心掛けています。「隣人を愛するには心を思いを知力を尽くさねば」ならないのだから、凡人に出来る範囲で挑戦してゆくしかないのかなと日々自身に問いかけているのです。
あ~。なんだか辛口になってしまったなぁ。
つまり、「問題を解決しよう」という光が見えてこないのである。
なぜだろうか。そこで、個人的に思ったことをひっそりと語っておこうと思います。なぜ「ひっそりと語る」のか、それは異論があるかもしれないけれど、そっとしといてくださいね(笑)ということなのです。
人は感情があります。その感情を理性で制御する事はなかなか難しいものですよね。
自分がよいと思ったことは、他の人にも「よい」と思ってほしいものですよね。
でも、自身とは違う他者に、自身の気持ちをすべて理解してもらおうとするのは無理ですよね。そこに他者との間に気持ちのズレが生じます。
そのズレをどう扱うか。そこが最初のポイントである。
時間をかけてゆっくりと語りかけてゆくか。または他者と私の間にある隔たりをお互いが歩み寄れるように働きかけるか。もしくは自身の気持ち吟味しなおしたうえで引き下がるか。
以上の選択肢なら、比較的平和的な解決策である。しかし、理性は感情をドライブしきれない。
そうすると次の選択肢が予想される。
全く相手にしない。力ずくで理解させる。
この選択肢の場合、強者が弱者に働く選択である可能性がとても高い。なぜならば、危害が加えられないことが前提にあるからである。
これが、福祉施設で行われた場合職業的にどうであるかが問われるのであるが、「人対人」という原則は変わらない以上、職員と入居者である場合強者は常に職員である。倫理綱領が問われる処であるが、根本の原則が揺るがない以上どうする事も出来ないのである。
主人と奴隷という関係は、大変厄介である。もし、虐待をなくそうとするならば、入居者が大金持ちで社会的地位が遥かに上で、その権利を職員に対して行使する代わりに、それに見合った対価を払う事が条件になる。
でも、施設に頼るのは自身の力では生きてゆくことができない社会的弱者であり、施設で働く人々は「競争社会では生きにくいと感じる人達」が多いので、その構造をひっくり返すことは不可能なのである。
業界自体、日が浅いから文章化(マニュアル化)し切れていない処もあるという説明もあったが、それで問題解決するならば、「留まっていないはず」である。言葉で済むことなら、口頭でも可能なアドバイスであるからである。
「人にやさしく」それで済む。
でも、人の感情は複雑であるから済まないし、留まり続けるのであると思うのです。
では、どうしたらよいか?という問いがなされなければ、進まないし、進めるためにはその問いに答えられる人がいなければならない。
社会福祉事業所にその答えに答えられる人はどれくらいいるだろうか。こういう意地悪な問いはすべきではないけれど、施設内に置いての「虐待行為」がなくならないのは、意地悪な問いに答えられる人がいないからであると思う。
じゃあそこまで言うあなたはどうなの?という問いも答えなければならないだろうから、気持ちを正直に吐露しておきます。
イライラする時もあるけれど、笑い飛ばすように心掛けています。「隣人を愛するには心を思いを知力を尽くさねば」ならないのだから、凡人に出来る範囲で挑戦してゆくしかないのかなと日々自身に問いかけているのです。
あ~。なんだか辛口になってしまったなぁ。