硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

人権擁護とは。

2012-11-29 18:27:03 | 日記
つい先日、職場で「人権擁護」についての研修が行われた。今日のニュースでも見られたが「施設における虐待行為」がなぜ行われるかその要因が語られ、どれも深く同意するものであった。でも、そこから先が進まないのである。何年たってもそこに留まったままで同じことが語り続けられている。また、不思議なことにその現象について誰も触れない。

つまり、「問題を解決しよう」という光が見えてこないのである。

なぜだろうか。そこで、個人的に思ったことをひっそりと語っておこうと思います。なぜ「ひっそりと語る」のか、それは異論があるかもしれないけれど、そっとしといてくださいね(笑)ということなのです。

人は感情があります。その感情を理性で制御する事はなかなか難しいものですよね。

自分がよいと思ったことは、他の人にも「よい」と思ってほしいものですよね。

でも、自身とは違う他者に、自身の気持ちをすべて理解してもらおうとするのは無理ですよね。そこに他者との間に気持ちのズレが生じます。

そのズレをどう扱うか。そこが最初のポイントである。

時間をかけてゆっくりと語りかけてゆくか。または他者と私の間にある隔たりをお互いが歩み寄れるように働きかけるか。もしくは自身の気持ち吟味しなおしたうえで引き下がるか。

以上の選択肢なら、比較的平和的な解決策である。しかし、理性は感情をドライブしきれない。

そうすると次の選択肢が予想される。

全く相手にしない。力ずくで理解させる。

この選択肢の場合、強者が弱者に働く選択である可能性がとても高い。なぜならば、危害が加えられないことが前提にあるからである。

これが、福祉施設で行われた場合職業的にどうであるかが問われるのであるが、「人対人」という原則は変わらない以上、職員と入居者である場合強者は常に職員である。倫理綱領が問われる処であるが、根本の原則が揺るがない以上どうする事も出来ないのである。

主人と奴隷という関係は、大変厄介である。もし、虐待をなくそうとするならば、入居者が大金持ちで社会的地位が遥かに上で、その権利を職員に対して行使する代わりに、それに見合った対価を払う事が条件になる。

でも、施設に頼るのは自身の力では生きてゆくことができない社会的弱者であり、施設で働く人々は「競争社会では生きにくいと感じる人達」が多いので、その構造をひっくり返すことは不可能なのである。

業界自体、日が浅いから文章化(マニュアル化)し切れていない処もあるという説明もあったが、それで問題解決するならば、「留まっていないはず」である。言葉で済むことなら、口頭でも可能なアドバイスであるからである。

「人にやさしく」それで済む。

でも、人の感情は複雑であるから済まないし、留まり続けるのであると思うのです。

では、どうしたらよいか?という問いがなされなければ、進まないし、進めるためにはその問いに答えられる人がいなければならない。

社会福祉事業所にその答えに答えられる人はどれくらいいるだろうか。こういう意地悪な問いはすべきではないけれど、施設内に置いての「虐待行為」がなくならないのは、意地悪な問いに答えられる人がいないからであると思う。

じゃあそこまで言うあなたはどうなの?という問いも答えなければならないだろうから、気持ちを正直に吐露しておきます。

イライラする時もあるけれど、笑い飛ばすように心掛けています。「隣人を愛するには心を思いを知力を尽くさねば」ならないのだから、凡人に出来る範囲で挑戦してゆくしかないのかなと日々自身に問いかけているのです。

あ~。なんだか辛口になってしまったなぁ。








なんだか・・・。

2012-11-28 16:48:28 | 日記
この間「死」について記した後、従兄弟の父の訃報が届いた。思わず絶句してしまった。

葬儀に参列し、改めて考えたのだけれど、「死」とは、そこに至るまでの過程がどうであったかが大切なのかなと思った。

「死んだらしまいだなぁ」という言葉を聞いたけれど、それも正直分からない。

しかし、もし、死んでしまって「無」になるのだとしたら、葬儀はいらなくなってしまう。

死者を弔うことは、魂を送ることである。それは「どこへ」という問いに繋がる。

仏の元へ。神のもとへ。表現は様々であるけれど、弔うという行為を執り行うのは私たちの奥深くにある何かが「その行為を必要としている」と思っているからではないでしょうか。

もちろん、思い込みかもしれないが、多くの人がそれを「必要」としてるし、残った者の気持ちの整理という、部分にも大きく関与していることは間違いなさそう。

真実は分からないけれど、私達は間違いなく死に向かって歩みを進めている事だけは事実である。

最近よく思うこと「人の死について。」

2012-11-26 10:04:41 | 日記
今日は雨。寒くて暗くて雨が降っているシチュエーションはどうも苦手。

今日は「最近よく思うこと」について少しだけ整理しておきたいと思います。

重いテーマなのですが、職業柄避けられぬテーマでもあるので人が生命を終える「死」についてよく考えるのですね。なぜ「死ぬ」のか?と。

人間にとって「死」は唯一の平等なんだけれど、「死」を迎える時というのは、それぞれ異なりますよね。

この世に生れてから、「生まれもった疾患」で、その命を絶たれる人もいれば、100歳になっても元気に過ごしていて、ある日突然眠るようにこの世を去る人もいる。

この違いはなんなのかなと。

また、事故による「死。」誰かの手によって命を奪われる「死。」というのも不思議でなりません。

不慮の事故や事件のニュースを観ていて、亡くなられた方が「なぜ、その場所にいなければならなかったのか。」を考えてしまうのですね。その場所にいなければ死なずに済んだはずなのになぜかその場所にいなければならなかった。

そう考えるとそれは偶然ではなく必然なのかなと思ってしまうのです。

とても不謹慎なことかもしれなけれど、自殺にしても、そこまで追い込まれる環境に陥る事が「その当事者」とって回避できないものだったのなら、必然的にその場所へ導かれたしまったのかなと考えてしまうのです。私の意志を超えた「何か」が、予定調和の為に、その場所へ肉体をけん引してゆくのかなと。

「袖振りあうのも多生の縁」という諺があるけれど、「多生」というのは「前世」のこと。つまり、その環境その場所、その出会いも前世からくるものだとしたら、私たち自身の力ではどうしようもできないということにもなる。

失われた命に対して加害者と被害者という立場が、生じてしまった場合、そこには「念」が生じる。しかし、その「念」が生まれる事も必然なのではないかと思う。そこに生じた「念」容易に断ち切る事が出来ないから、人はまたそこで苦しまなければならなくなる。それが、生まれたばかりの子と母の立場であってもです。

しかし、必ず肉体の滅びだけは約束されている。そこで、リセットされるとだれしもが思うところだけれども肉体の滅びによってその苦しみや念が断ち切れるかという疑問は消えることはない。そんなことはないと思っている人でも、無意識下でそう思うところがあるから「死」が怖いのだと思う。「袖振りあうのも多生の縁」であれば、次もまた、同じようにめぐるのかもしれない。人が自我の声を聞き自我を欲している以上、断ち切れぬ永遠回帰なのかもしれない。

けれども、「死」は唯一の平等と考えた時、それは大変「尊いもの」なのではとも思ってしまうのです。

また、大切な人、最愛の人に先立たれる事は残された者にとっての喪失感は耐えがたいものであるけれど、先立たれた人より生きてゆかなければならない事を赦された人はそれを乗り越えてゆくかなければならない使命を、出逢ったときから「何か」の力によって選ばれているのかもしれません。「あなたなら、この先に訪れる苦難の中でも、(彼もしくは彼女)を変わることなく愛する事が出来るだろう。」と。

そうして、その人にとっての「物語」が出来てゆくのかなとも思うのです。人は「物語」抜きには生きてゆけないでしょう。

だからこそ「死」は必然であるのかもしれません。

と、思ったりしつつも、あ~でもない、こ~でもないと結論の出ぬこと考え巡らせているのです。




賛否両論ではあるけれど。

2012-11-20 23:13:19 | 日記
「悪の教典」の試写会でのAKB大島さんの行動について思ったことを少しだけ。

仕事として、その仕事を放棄する事はいけない。たとえしんどくても仕事なのだからやるべき事はやるべきだと思う。これはごくごく当たり前なお話。

でも、彼女のコメントはとても理解できるのですね。僕自身もバイオレンス系の映画は耐えられない。気を張って作り物だと思って観ていても気持ちが滅入ってくる。マンガやアニメ、時代劇でもリアリティがあるものはかなりキツイ。

だから、あれは「やらせ」であるというような噂もあるけれど、そこまで疑う事の方が変じゃないかと思うのですね。
作り話であれ、20歳そこそこの娘さんが自身の感性を理性でコントロールし「人が次々殺されてゆく様」を観て「楽しい」とか「素晴らしい」とか批評してしまう方がなんだか嘘っぽい気がします。

大島さんのすべてを擁護するわけではないけれども、彼女の素直な感性くらいは信じてあげたほうがいいのではと思うのです。

その方が、観ていても爽やかで気持ちがいいと思うんだけどなぁ。

もし、やらせだとしても女の嘘は黙って見逃すのが男だぜぃ(笑)

何が駄目なんだろうか。

2012-11-19 20:27:17 | 日記
此処の処、ニュースの話題は政局が中心。選挙は当事者にとっては死活問題であるから大切なんだろうけれども、僕たちにとってどれほど重要なのかが全く伝わってこない。政局をエンターティメントとして観るなら昨今の報道番組もわくわくするけれど、政治ってそういうものではないような気がします。

これは個人的な考えなのだけど、野田首相ではなぜ駄目なんでしょうね。僕が思うにこの難局でこれだけ持ち堪えている総理大臣は「できる人」なのではと思うのです。それをなぜ敢て降ろしてしまおうとするのか理解に苦しむのですね。考え方は其々であり、ましてや政治家は我の強い人が多いのだから、合わない事が多いのは当り前。また、国民全員をお金持ちにすることなんてできはしない。働けど生活が楽にならざるが大半であり、自身の身体と能力をフルに生かしお金を増やすことのできる者はどんどん裕福になってゆく。それが現実なのではないでしょうか。

でもです。それでも政治って必要なんでしょう。絶妙なバランスを取り続けるために機能させ続けなければならないのでしょう。
だったら、足の引っ張り合いとかやってていいのかなと思う。一国の主がころころ変わることが国にとってどれほど不利益をもたらすか考えないのだろうか。

名を残した戦国武将は良くも悪くもその時代の中で精いっぱい出来る事を行ってきた人です。その志を見習うことは大変いいことだけれど現在とはスケールが違うし、内戦等ないのだから目的も異なる。また、明治維新は近代化に成功したように見えるけれど、先の大戦で白紙に戻ってしまったのではないか。そこからの再構築とはどういった形象をめざしているのだろうか。

また、支持率とはそもそも何を表わしているのだろう。そんなものを基準に物事を考える人たちに、明日を任せられるだろうか。

よく分からないのだけれど、政治とは未来に向けて現在よりも幸福を感じることのできる人を少なからずとも増やす事を目標としなければならないのだと思う。抽象的すぎる言葉かもしれないけれど、これ以上に当てはまる言葉が今の僕には見つけること出来ません。

でも。よく分からなくとも、投票日には自身で考えて投票しようと思います。

ほんの少しの感動と・・・。

2012-11-18 20:16:02 | 日記
夕方、TVを点けると「笑点」が画面に映し出された。この時間、ほとんどテレビを観ないので「笑点」も何年かぶりである。
しかも出演者は「江戸家猫八さん」であった。見事な形態模写におもわず「おお~っ」と声を出してしまう。しかし、猫八さんの隣には見たことのない人が共に演じている。どうやら現在の子猫さんらしい。そう思った時、前、江戸家猫八さんがやはり同じように子猫さんと共に舞台に立ち、芸を披露していた記憶が蘇ってきた。

そうか、あの子猫さんも「猫八」を襲名し、今やお弟子さんを育てているのですね。そうか、僕も随分年を重ねたしなぁ。当り前かぁ(苦笑)

それはさておき、僕たちは伝統芸でもある形態模写が、次世代に受け継がれてゆく場面に立ち会っているのである。

そして、全国の寄席が減りつつある中での伝統芸の継承はかなり難しいと思うのだけれど、それでも、誰かがその芸に感動しその道を目指して来た事、お呼びがかかるまでの下積み生活は華やかな芸事の世界とは対照的な暮らしを乗り越えてゆこうとするその意思を感じることができます。

また、師匠という立場であっても、多くの人を心を感動させることは大変難しい事であるし、それ以上に一人の人の人生を決めてしまう程の感動を与えることもまた難しいと思うのです。

昨今のTVにはウンザリすることも多いけれど、こういう場面に出会うと純粋に感動してしまうのです。