卯月です。
ふりだしに戻ってしまった。
震災後調子を崩して、不安定な状態で過ごしてる。
よくなってきたかなと思うと、ちょっとしたことに過敏に反応して、また落ちてしまう。
せっかく元気づけてくれる人の温かい言葉も、素直に喜べない。
黙っててほしい、と罰当たりなことを思ってしまう自分が嫌で、また落ち込む。
今週は母からちょっと面倒な頼まれごとをして、しんどいのにネットで調べものしたり連絡したり。自分の用事だって満足にできないぐらい具合が悪いんだから「今はできない」と言えばいいのに言えないで引き受けて、やってるうちに「あんたが元気だと思ってみんな元気だと思うな。あんたが暇だからってみんな暇だと思うな」と腹を立てては自己嫌悪。
自分がどんどん性格悪くなってきてる気がしてならない。
いや、もともと歪んでいたのか。
心が汚れているような気がして自分を責めたり、汚されたような気がして人のせいにしたり、行ったり来たりだ。
今日、いつもどおり、主治医の先生にいっぱい話を聞いてもらった。
話をするうち、「私は大好きなはずの先生のところにゴミを捨てにきているのか?」と思った。
なんでもかんでも、先生のところに持ってって「捨てている」「投げている」気がして、自力では何もがんばってないんじゃない?って思ったら、先生はずうっと私の汚いところばっかり見せられてもううんざりしてるんじゃないか、と勘繰ったり、申し訳ない気持ちになったりして、帰り道、「私自身がゴミじゃん。捨ててしまいたい」と悲しくなった。
今もまだもやもやしている。
「人の悪口を言ってもいい。嫌な気持ちを我慢し続けてたら自分が蝕まれて具合が悪くなっちゃうよ」と先生。
「人の悪口を言うぐらいなら具合が悪いほうがいいです」と私。
「あんまり自分をいじめないようにね」と先生。この言葉、何年前から言われてるんだろう。
昨日、学校だった。
クラス7人だったのが、1人夜のクラスに移って6人になってた。
ある15歳の女の子(架空)のケースについて、3人ごとのグループに分かれて意見を出し合って、ひとつの意見にまとめて発表、という課題だった。
ものごとの見る角度、捉え方、どの登場人物と自分の立場が近いか、などによって、まったく意見がバラバラで、「これをひとつにまとめて発表?」って思ったけど、話し合ってるうちに「あ、そういう見方もできるな」「なるほど、確かにそういう面もあるな」と納得し合い、うまくまとまった。
意見が違う=対立、とずっと思ってきた私には、新鮮な感覚だった。
6人がニックネームで呼び合うようになって(なんと言いだしっぺは私)、「『太陽にほえろ!』みたいですね」とか言われたりして(何十年前?)、笑顔で解散した。
次回のクラスは27日なんだけど、22日にその学校の母体となっているNPO法人の定例総会と、ちょっと聞いてみたい講演があるので、22日にまた学校に行く。
学校があってよかった、と思った。
クラスの担当の先生もメンバーも、みんな優しくて、個々を受け入れ合う(あるいはそうあろうと努める)心を持っている。
学校にいる時間は、純粋に勉強に夢中になれて、「自己嫌悪の迷路をぐるぐる」という状態から解放されていたので、緊張というよりもむしろ楽だった。
自分の心の中の収拾もつかないのに、カウンセリングの勉強? 百年早いわ!って感じだけど、いろんな「気づき」があると思うので、自分なりに学び考えていこうと思ってる。
自分のことを許せるようになるかな。
長々すみません。
おやすみなさい。
互いにニックネームで呼び合うなんて、楽しそう♪
タラさんは、タラさんなのかな?
先生に申し訳ない気持ちになっちゃうのは、タラさんが優しいからだね。
私は、先生にいつも荷物を受け取ってもらって、
手放して楽になって・・・そんな感じです。
でも先生は、その荷物をどう扱うかは、自由。
重いときは、何処かに置いてくるんだろうなって思う。
そういう職業だから・・・
だから、あまり気に病まないようにね。
学校があることが、本当に支えになっている。
ちなみに、私のニックネームは「タラ」ではなく本名(下の名前)のはじめの2文字+「ちゃん」または「さん」づけです。
東京シューレでバイトさせてもらってたとき、「卯月タラ」の名前で仕事してたんだけど、ずっと「卯月タラ」でいることが息苦しく感じられるようになってしまったことがあって。
学校は長く通うつもりなのと、誰も「卯月タラ」を知らないほうが楽かもってことで、本名です。
ドクターやカウンセラーは、やっぱりお仕事だから、私がものすごい荷物を預けても、私の感じる重さで受け取るわけではないのかもしれないね。悪い意味でなく、プロってそういうものなんだろうね。
同じ重さで受け取ったら、その人を支えることはできないもんね。
また来てくださいね、待っています。