いつものクリニックに行こうとバスを待っていたら、ベンチで隣に座った30代と思われる女性が、独り言を言っているのに気づいた。
「?」と顔を見たんだけど、目を合わすでもなく、彼女はひとりでしきりに何か言葉を発したり、ときどき「ひ~」というような声をあげたりして、やがて歌いだした。
聞いていると、どうやら「バスが来ない」「いつ来るの」というような言葉をうたっている。また顔を見てみたら、うたっているけど楽しそうではなくて、固い表情に見えた。
私自身、バスは苦手。バスを待つのも苦手なので、彼女も待っているのがつらいのかな、と思って、声をかけたい気持ちが湧き起こった。「バス、なかなか来ませんね」とか、「もうすぐ来る時刻ですから、あと少しですよ」とか。
でも、結局、声をかけることができなかった。というか、しなかった。
私が、知らない人に声をかけられるのが嫌いだから。もしかしたら彼女も、私が声をかけることでよけい気分を悪くするかもしれない、そう思ったのだ。
でも、それが気になってて、今日の診察ではその話をおもにした。
そもそも、彼女に声をかけようと思った時点で、私は彼女を「自分より下」に見ていたから、声をかけたかったのか。
そして、声をかけなかったのは「私が彼女だったら」と想像してのことだったけれど、それは彼女と自分の境界が引けていないということなのか。
彼女と自分をごっちゃにしたつもりはないけれど、自分を基準にして想像してよかったのか。等々。
先生は私に、やさしい口調でいろいろ言葉をくださった。その中で強く印象に残ったのが、「そういうとき、バスが来ないという不安を、一緒に味わえたらいいですね」というものだった。それなら上下はなく、対等だと。
そうだ。
「一緒に味わう」、それだ。私がしたいこと。できないでいること。
先生が、セラピストさんが、私にしてくれていること。
なんか、その言葉が、北極星みたいに、はるか遠くに、でもはっきりとした道しるべとして、見えた気がした。
なんとかしてあげようとするんじゃなくて、一緒に味わうこと。
それが自然にできるような人間に、私はなれるだろうか。