歌人・辰巳泰子の公式ブログ

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鬼さんノートその13

2023-11-11 22:24:27 | 月鞠の会
鬼さんノートを書かなければと思ったきっかけは、「定家十体」に挙げられ、『毎月抄』においても言及された「鬼拉の体」の由来を、わからないままにできないと思ったからでした。「定家十体」の成立に定家本人がどこまでかかわったかについては、専門家にもいまだ不明のようですが、現時点で、情報更新されているかもしれません。

「定家十体」に挙げられた例歌は、むくつけき歌では決してなく、これのどこがいかようにして「鬼を拉」いでいるのかとの疑問を持たれる歌ばかりです。ですので、定家は例歌を挙げなかったのではないかと言われてもおり、定家がいかなる意味において「鬼を拉ぐ」と表現するのかが、謎であるそうです。(このあたりの典拠はひっぱってくるのにそう苦労しなさそうです。)

定家は、『毎月抄』で、「鬼拉の体」について名状しているのだから、なんといってもそこでの記述が手がかりでしょう。定家の記述と結ばれていい点が欲しい。馬場あき子さん『鬼の研究』を読み直せば、手がかりを得られそうに思ったのでした。

言うまでもないことですが、「鬼」とは超常的なるものです。そして、近接した超常的なる概念に、カミとホトケがあります。中世以前、オニ・カミ・ホトケは、明確に峻別されておらず、少なくとも「オニ」が、現在のような「ひたすら恐ろしい」「害をなす」存在の意味に落ち着いたといえるのは『風姿花伝』の時点では、そうだと思いました。あえて「風姿花伝」を挙げる理由を示します。まず世阿弥は、和歌だけは能楽と並行して学んでよいものだとしています。さらに世阿弥は、古典和歌における、なかでも俊成・定家の頃に確立され、美の第一位に置かれた幽玄の美を、能楽の美の第一位として推し進めています。であれば、「鬼拉の体」の意味を解き明かすのに際し、世阿弥が説く「鬼」「神」の演じ分けについても、押さえておきたく思いました。世阿弥の「物まね十体」は、「定家十体」を意識していそうだからです。

ところで、オニ・カミ・ホトケについて、私がどういった立場から述べようとしているかを明らかにしておきます。次に述べるのは、私自身の、個人的な措定です。

オニもカミも、そこはかとない気配によって、その存在を、おのずから感じるもの。ホトケとは、ホトケを中心とした世界観にいて、現世の事物にかたちを借りて恣意的に表現されるもの。もしくは供養されて成仏した霊魂として感じられるもの。……つまり、オニとカミを感じることはできるけれども、ホトケは、ホトケを中心とした世界観という枠組みを意識するなかで初めて、とらえ得るもの。ホトケとは、そもそも感じるものとして輸入されたのではなく、古代から中世初めにかけての仏教は、政治の道具として、専ら有効に活用された機構でした。そして、あえてこれをいうのは、このように捉えておくことで、本地垂迹思想と補完しあうからです。五感の領分を思想の領分が侵犯したことから、本地垂迹思想が編み出されたと私は思うのです。(研究者は、論証できない五感がどうとか言いません。違う表現で論考され尽くしたことかと存じます。)

さて、現代。オニ・カミ・ホトケについて、その現代的な意味は、一般的にはどうでしょう。「カミは神と書き、人間に恩恵を与えたり懲らしめたりする超常的な存在で、オニは鬼と書き、強烈な否定的感情によって、あるいは徹底的な非情さによって、人間に人知を超えた危害をくわえる存在で、ホトケは仏と書き、そもそもはお釈迦様で、善行を積んだ人は死後、仏となる。」……このようにしておけば、首都圏で都市生活をする現代人のコモンセンスには、だいたい合っていると思われます。そして、ホトケを、先祖の霊・守護の霊として感じられる行事が、お盆でありましょう。古代から中世初めにかけての政治的仏教に、当代の庶民がそうであったように関心などはなくて、現代人とて、やはり、素朴な情感として感じられるもののほうに、その身が馴染むのです。

私は『津軽のカミサマ―救いの構造をたずねて』(池上良正 どうぶつ社)を読んで、私のなかで乱麻であったカミとホトケが、するっとほどけました。そして、カミを、カミとして、感じられるようになりました。『中国の呪術』(松本浩一 大修館書店)を読んで、「鬼」は中国からの輸入語で、中国では人や動物の死霊を意味したことを知りました。中古の日本で、「鬼神」が自然霊を意味していたと知り、これまで、自然界の事物に触れて、五感にそのまま感じていたものが、まさに、オニでありカミであったことを知りました。私自身は、仏教徒です。ですので、どちらからでも説明はつくのですが、人が、何かを感じるときには、それこそカミもホトケもなくて、無形の愛に包まれていると素朴に感じるものですし、また逆に、不穏な空間に鳥肌が立って脚が進まなくなることがあります。私の実感では、オニとカミが紛らわしいこと、カミとホトケの紛らわしいことはありますが、オニとホトケの紛らわしいことは、断じて無いのです。先祖の霊や守護の霊がわるさをするはずがないと、私たちは、全身で感じ取ることができるのです。

超常的存在の感じられ方というのは、そもそも、それがオニかカミかホトケであったかというのは後付で、このように原始的で、本来は、思想の介入する余地のないものでしょう。

(感じることを、考えることの隅に置かないで、考えることが感じることに背かないよう整えていくという自己統合をしています。)


つづく。(誤字脱字、気づいたときに直します。)
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