歌人・辰巳泰子の公式ブログ

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鬼さんノートその2

2022-11-06 00:16:58 | 月鞠の会
この窓は、10月2日付の「読書ノート『鬼の研究』(馬場あき子著)」のつづきを書くために設けられました。アイデアのメモ、ブレストのメモなので、途中で口調が変わったり、内容錯綜したりするかと思われますが、ブレストなので、ご寛容いただければ幸いです。

1
私さぁ、鬼さん、怖いんよ。馬場さんは、鬼さん、かわいいと思ってはる。と言いますか、鬼さんのかわいいとこを、見出して、書いてはる。せやから、ええもん書けるんや。私は、誰でもみんな鬼さんになりうるし、かわいい人ばかりが集ってすることが、鬼の所業だったりすると思う。鬼さんにやられた人が、鬼さんになることもある。古典の鬼の切り取りは、常に、鬼でないものの中に、違和感ある存在として、鬼がいる。そこに、互換性はない。この点に注視すべき。

金太郎の話に戻るんだけど、怪力で、マサカリを常に携行し、振り回す童子は、その村人たちにとれば、すでに鬼ではないか。熊を従えたということだが、生態系の敵である。普通に考えて、村にいてほしくない子供ではなかろうか。しかし、いったんヒーローとなれば、そのすべてが美化される。そもそも古典の切り取り方に、相対性はない。絶対として単純化されたところから、説話としての姿が決まる。

私が探り当てたいのは、きっと、とても恐ろしいとされているものの、鬼やら神やらになるまえの、人間的な姿なのだ。それは、恐らく、馬場さんの希求と同根なのだ。さらにいえば、鬼は、役割でさえある。鬼ごっこの鬼のように、誰かに回ってくる。属性ではないのだ。

2
地方へ行くと、昭和年代の終わり頃にも、カミおろし、ホトケおろし、呪術が土着の職能として、まだ色濃く残っていたかと思う。オニとそうでないものを、峻別するベクトルを持てば、私にもまとめやすいが、とても、つまらなくなりそう。もともと境目を分けようがないからこそ、妖しいものなのに。

もともと分けがたいものを分けようとするのは、こちらに危害を加えようとするものと、そうでないものを分ける必要性からだろう。

最高につまらないのは、金太郎のような、教育的ステロタイプ。教育的ステロタイプの鬼の像は、正義によって破られる。こうなってはもうおしまいで、鬼は、死んでいる。いや、死んでいるとは、少なくとも生きていたものについていうのであって、伝説をもとに教育的ステロタイプとして成形された、まさに、金太郎飴の世界。徹頭徹尾、象徴でしかないうえに、なんにでもなれる幼いこころに、鋳型にはめるのだ。私には、その意思こそが、マサカリを振りおろすところの、オニの意思と見える。




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