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鬼さんノートその1(読書ノート『鬼の研究』馬場あき子著)

2022-10-02 12:24:47 | 月鞠の会
このノートは、対象書籍の要約ではありません。読書しながら、私自身が感じたことや着想を、順次、追記していきます。


1
「はじめに」を書いて、ふと思ったのですが、押しくらまんじゅうなどの子供の遊びの中の鬼は、『鬼の研究』の対象となっていません。ここを、私自身の独自の視点とすることが可能だと思いました。ただしかし、子供の遊びの中の鬼を、それ自体研究するのは、至難のわざで、専門家にまかせます。敷衍するときに、自分の視点を添えられればいいと思います。


2
以下、ツイッターからの転記を、少しずつ直し中の記事。

馬場あき子はいう。カミもオニも身を隠すものであったと。後年、オニは隠れなくなったと。隠れなくなったところから、カミとオニが分離していったと。平安末まで、「鬼」の字は、「もの」とも読まれ、それはつまり、物の怪の意味を含んだと。

であれば、鬼には、そもそも、もともとヒトではないオニと、もとはヒトだったオニがいたということになる。

馬場さんは、カミからかけ離れていく、まさしくオニについて、身を隠さず、あるいは進んで自己顕示し、その狂暴性をさらけ出すことにカミでもモノでもない、まさしくオニを見ておられる。そのまさしくオニは、やはり、もともとヒトであったほうのオニではなかろうかと、私は思う。

なぜまさしくオニが、凶暴性をさらけ出して自己顕示するのか。それは、オニになる前のヒトが、おなじヒトであるがゆえにヒトの世間と何らかのつながりを持っていたために、世間にアピールするのではないか。カミであっても、モノであっても、それがもともとヒトでないなら、ヒトの世間にアピールしたくなるほどの業はなかろうし、隠れているのは、業を作らぬためでありましょう。

普通の人ののぞみは、自分がオニにされないことと、オニとコミットしないことである。オニをわざわざ退治しようとするのは、オニとすでにコミットし、その必要を感じた人であって、無関係なのに、つまりコミットしないのに、オニ退治に乗り出すというのは、普通の人は、しない。では、誰が、当事者でもないのに、正義のために、オニを退治しようとするのか。

昔話の一つに、困っている都の人のために、地方からわざわざ徴兵されて、鬼を退治するという、金太郎伝説がある。金太郎伝説自体は、とても古くからあるのだが、後代、この説話が、中世以降の武家社会の価値観を如実に示すものとなっていくことをとらえておきたい。端午の節句、その武者人形のモデルが金太郎に由来するまで、現代の庶民にも定着したオニ退治の話である。しかし、よく考えれば、不自然な話なのだ。昔話の荒唐無稽さは、その混沌にかえってリアリティを感じさせるものが多いのに、現代に残る金太郎伝説は、その中心が、子供がマサカリを常に担いでいることの不自然さが薪割りのためであると、どこかしら、言い訳めいていたり、源頼光による、いわば徴兵に我が子を差し出すことを手本とするような、ヒトの世間の描写にあって、御伽草子に見られる、大江山の鬼の所業の生々しさは、金太郎をヒーローとして描くときには、希薄となる。昔話の一つの型が、正義の御旗をふりかざした、侵略戦争を正当化するための型ではなかったかという一つの疑念が、ここでもたげはしまいか。大江山の鬼は、金太郎が退治のための軍に加わったとされるのだが、いまに伝わる金太郎伝説として、その鬼の具体は、御伽草子のそれのようには、如実には描かれない。私は日本霊異記の鬼も、ぬえも、大江山の鬼も、実在のヒトや獣に由来したと考える。原文のリアリティに、圧倒されるからだ。そして説話は、時代に合わせて形を変えていく。金太郎伝説が、武家社会の男児養育の手本となってゆくプロセスで、金太郎が退治に加わったとされる大江山の鬼の生々しさが、薄められて伝承するのは、なぜか。いずれにせよ、金太郎伝説は、徴兵制度の刷り込みを作りやすい構造、戦争を美化しやすい構造を持っていたはずである。

金太郎のオニ退治を正当化するのであれば、それがいかなる凶悪なオニであるかを描いた、御伽草子の生々しい描写を残したほうが、口実を得やすいにもかかわらず、その部分が具体的でなくなったのは、戦争から生々しさを抜きとって、正義のためという綺麗事に仕立てる作為であると私は考えている。

馬場あき子さんが研究したオニに、これは含まれません。しかし私は、このことが、随分前から気になっており、いずれにせよ、現代にもっとも浸透したオニ退治の説話、金太郎伝説で、本来、最大の見せ場であったはずの、大江山の鬼の存在感が薄められていることが、どんなことよりも気になる。

裏を返せば、古典のオニは、戦争の仮想敵として、いかようにも印象操作を受けうるということ。


3
超越者と逸脱者! もともとヒトでないオニは、カミないしはモノ。超越者であろう。対して、もとはヒトであったオニは、逸脱者。ヒトからオニになるとき、それは、ヒトであるゆえ、超越ではありえない。世間からの逸脱である。ただしかし、超越者に扮することはできる。身を隠すというかたちで……。『鬼の研究』の冒頭部にある、女と鬼を考察したいくつかのエピソードに、それは示される。

古典のオニとしては、超越者としてのオニ、逸脱者としてのオニ、もう一つは、戦争美化のための仮想敵として、印象操作されたオニの3つを、考えておく必要がある。


4
馬場あき子さんは、鬼を描いて、鬼と対話している。馬場あき子『鬼の研究』の世界は、あき子と鬼の、一対一だ。逆にいえば、世間の猥雑さは捨象されている。馬場あき子は、鬼を苦しめる世間を、鬼の前から取り除いたのである。これほどの手柄があろうか。

私は、何をなすべきか。オニと世間は表裏一体。それは、異質なものは価値が低いとみなして止まない価値観。ある者が、自ら異質でありながら、その異質さを謙遜という名の卑下自虐において封印しないとき、これをオニの価値観に照らした場合、もとより異質であることによって価値が低いうえに、自身の価値の低さを自覚せず開陳する、この不届き者!……ということになる。異質なひとが、誹謗中傷やイジメを受けやすいカラクリの一つは、こういうことである。言うまでもないことですが、オニの価値観は、個人の資質ではなく、あくまでも、価値観。この価値観を共有する世間では、世の中のあらゆるイジメが正当化されているはずです。こういうことなら、私は書ける。世間に、変わっていってもらいますよと、私は思っているから。


5 こちらの読書ノート、まったく途中になってしまっており、ひと月以上も中断しました。このノートは、もっと以前から書くことを決めていたものですが、1~4を書くまでのあいだ、小難あって心乱れ、体調も崩しました。それら、11月5日現在、何かと収まりましたので、記事タイトル「鬼さんノート つづき」に、このつづきを書きますね。







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