歌人・辰巳泰子の公式ブログ

2019年4月1日以降、こちらが公式ページとなります。旧の公式ホームページはプロバイダのサービスが終了します。

はじめに

2022-10-02 10:06:35 | 月鞠の会

私はこれから、馬場あき子さん『鬼の研究』を読んでいきます。後でまとめやすいように、ツイッターやブログに着想を書き留めながら進めるかもしれません。これまでもそうしてきました。

私は大変怖がりなもので、映画を観てはいないのですが、宇崎竜童さんが、凶悪犯を演じておられます。その映画のテーマ曲は、「ハッシャバイ・シーガル」です。宇崎さんは、政治発言こそしないけれど、凶悪犯の役どころを引き受けられたところからも、テーマ曲からも、宇崎さんのイデオロギーがしかと受け取れます。普通の人が、疲れ切った状態で追い詰められたらどうなるかということは、人権思想が、初めに措定するところです。

私は、自分を含め、誰でもそうなりうるからこそ、世間のありようが変わっていかなければならないと考えているほうです。混沌のまま放置されることは、最もあってはならないことですが、厳罰だけでは解決しないと私は思います。

いちばん危険なのは、自分だけは大丈夫と考えてしまうことだと思います。それは、自分は常に正しいという前提を持ってしまっていますよね。自分は、自分たちこそは常に正しいという世間こそが、異質なものを許さない、イジメの温床ですから。押しくらまんじゅうという遊びがあります。あの遊び、誰が押したということはわからない。しかし、押された誰かが、その中に入っていなければならないとされる規範のメタファーから逸脱し、鬼となり、規範の中にいる集団から鬼の代わりを見つけようとして、自分はただ、鬼とされることから逃れたいがために、世間を脅かすことになります。……つまり、自分だけは大丈夫でいたい人たちが集まって、押しくらまんじゅうのように、鬼さんや、鬼さんの犠牲者を生んでいく世間が、あっちにもこっちにもあるのが、実際の世の中だと思います。

私は物心ついたときから、周りの子供たちとは異質で、混ざるのもイヤでした。したいこと、好きなことが、まるっきり違っていたのです。小学生の頃、魂を吸い取られそうに読んだのが、聖書や古典、詩歌でした。聖書を取り上げられて、ドッジボールに混ぜられる苦痛、遊びについて行かされることが、地獄の苦しみでした。遊びの輪は残酷で、必ずイジメが始まりました。

古典というと十二単を連想する人が多そうです。母方の先祖が、いわゆる女房として京都御所に出仕しておりましたから、その世界が血のつながりのなかに、あることはあるのですが、私が選んだバッグボーンは、生まれ育った混沌の十三のほうでした。むしろ、そちらに目を向けるのでなければ、いったい、何が高貴でありましょうか。血縁、地縁をひいて、自分を飾り立てるだけのスノッブという人種に混ざるのも、苦痛なのです。貧民窟で、励ましあって生きる絆を自分で築けることのほうが、大切でした。

もとからの考えを初めに書きました。この記事もまた、「月鞠」第21号の草稿です。ずっと前から、書く予定だったことを書くので、最近の見聞も体験も関係ありません。外部サイトに投稿した際、記名欄に自分のブログリンクを貼ったのを、自己宣伝ととらえる向きがあったのですが、騙り被害防止です。名を騙る人にもリンクは貼れますが、手続きが、ちょっとめんどくさいので、ハードルにはなると考えています。

ツイッターもそうですが、ブログは、私の仕事のなかでも、自由研究を仕事らしいものにしていくためのツールなので、そのなかに、誰それへのあてこすりを書くとかいうことは、あり得ないです。そういう目的を持っては、仕事になりませんよね。揶揄とかあてこすりとかは、一度でもそれをすると、他人の書いたものまで、そう見えてくるでしょう。こちらの受け取り方に、そういうバイアスがかかるのを避けたいので、したためるとしたら、直言します。書いているものを、特定対象への、揶揄とかあてこすりとか、そういうふうに、疑うのはやめてほしいです。でも、そうも読めてしまうというご指摘については、これを歓迎いたします。

では、勉強に本腰を入れたいと思います。




.


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 略歴(随時更新) | トップ | 鬼さんノートその1(読書ノー... »
最新の画像もっと見る

月鞠の会」カテゴリの最新記事