みなさん、こんにちは!
夏休みに入りましたが、連日暑い日が続いておりますネー。
本館が休館中の当館では、現在『復元炭鉱住宅』を中心に無料観覧をいただいておりますが、8つの部屋のうち、エアコンが付いているのは3部屋しかありません(明治・大正・昭和の復元炭住なのでイタシカタありませんが。。。 山本作兵衛コレクションの展示室はエアコンで冷え冷えデス!)。
そんなアチー状況ではありますが、連日多くの皆さまにご来館をいただいておりまして、感謝カンシャでございます。
これからも「ココニキテヨカッタ!」と思っていただけますように、スタッフ一同元気にお迎えいたしておりますので、ぜひ遊びに来てくださいネ!
さてさて、タイトルにもあります「田川高校」、正式名称は「福岡県立田川高等学校」といいます。
先日のブログでご紹介した「香春町中津原の三連橋梁」のスグヨコにある高校です。
校門前に看板が立っておりますが、来年、創立100周年を迎えられるそうデス。
今から99年前、元号でいうと大正6年。
石炭産業が華やかなりし時代、旧制中学校の「田川郡立田川中学校」として開校した田川高校を語る上で欠かせない人物が『蔵内保房(くらうち やすふさ)』デス。
筑豊炭鉱王の一人「蔵内次郎作(じろさく)」の養子で、次郎作が衆議院議員になってから、実質的に炭鉱経営を行いました。
大正時代の学制における中学校とは、その先の高等学校(大学予科)・専門学校・高等師範学校などへ、そして最高学府である帝国大学へ進むための中等教育の場でした。
炭鉱の隆盛に合わせて人口もうなぎのぼりに増加した田川郡において、初等教育である尋常小学校から先の教育機関として創立された田川中学校ですが、設立に際しては資金難にあえいでいたそうです。
そこに、学校建設のための資金を提供したのが蔵内保房氏デス。
『田川郡の人のためなら』と、当時のお金で11万円(現在の価値で数億円相当)もの私費を寄付し、田川郡での中等教育の道を拓きました。
現在、田川高校の正門脇には、創立功労者として氏の銅像が建立されていマス。
その開校から僅か4年後、大正10年に59歳の若さで他界した蔵内保房氏。
それから約一世紀が経ち、田川高校からは約3万人の卒業生が巣立ったそうですが、その活躍を草葉の陰から見守っていたのではないかと思いますデス。
なお、蔵内次郎作・保房の邸宅は築上町に現存しておりまして、「旧蔵内邸」として一般公開されております。
当館からでしたらクルマで45分くらいですので、当館にお立ち寄りの際は、ぜひ、そちらにも寄ってみてくださいマセー♪