今日(8月26、27日)。 2011年3月11日、日本いや世界を驚嘆させた東日本大震災から一年半後の被災地(宮城県女川町)にご縁有って視察に行く。
ここは東北の空の玄関、仙台空港です。海から僅かな距離に有る飛行場に津波が襲来、巨大な飛行機や資材が流されて行く様子はテレビでも何回か放映されましたが、今は何事も無かった様な一階です。
この写真の左の丸い柱に「ここまで津波が来た」と記されています。右のパネルに被災した飛行場の様子が展示されていますが、いち早く米軍が滑走路やターミナルの瓦礫を片付けて震災復興の前線基地にして支援をしてくれました、感謝、感謝でした。
壊れた家が見えますがこの道路沿いは家が立ち並び遠方は見えなかった所ですが現在は草が生い茂り、一見土地が空いている様に見えます。この様な所はいたる所に有り復興には遥かに遠く、やっと瓦礫が撤去されたと云う感じ。
瓦礫の山はいたるとひ所に有りました。被災地以外の全国で処理して欲しいと野田総理や環境庁は各自治体に呼び掛けたが地域エゴの人々のほとんどの自治会が受け入れ出来ず。ただ東京都知事の石原さんは最初から瓦礫を受け入れ被災地の苦しみを分かち合った素晴らしいリーダシップ示した。
その後、宮城県女川町の商工会にお邪魔して経営指導員の方より一時間半にわたって震災や津波の凄まじさをスライドを交えて説明して頂く。この写真は高台に有る「女川町地域医療センター」から街を見下ろした写真ですが街の形は完全に消失し唯一件三階建ての建物が横たわっていました。震災の痛ましさを後世に残すのか、いや嫌な思い出になる建物は早く撤去しよう、と意見が分かれている様です。
高台に有る「女川町地域医療センター」です。右側が海です。センターの建物をよく見て下さい。一階と二階部分でタイルの色が別れていますがこの部分まで津波が来たとのことです。女川の皆さんは医療センターが避難指定場所だったのですがここまで逃げても津波に襲われた、津波の高さは20mを遥かに超えていた。先ず『逃げよ』ですが本当に自然の猛威から逃げる事の難しさを肌に感じた。
女川町の商工会の方々の努力で出来た仮設店舗です。写真には写って無いのですがこの敷地の右側には銀行や信金の金融機関の仮設店舗も有ります。ここは高校の第二グランドですが最初は国や県や町の行政がバラバラでこの仮設店舗を建てるのも本当に苦労した、しかしやっと日頃お目にかかれない政治家や放道機関やタレントが来て全国にここを紹介してくれたそうです。私達が帰る頃にはNHKの大形放送車が取材に来ていた。
仙台空港から中部国際空港までは珍しいプロペラ機です。震災復興で建設土木関係は今後10年間は特需で忙しいとのこと。しかし一番気になったのは瓦礫の処理です。報道では瓦礫の処理の目途は経ったので地方で受け入れて貰わなくてもよい様ですが、変な市民団体が放射線で汚染されていない瓦礫までエゴむき出しで反対運動を未だしている。自分だけ良けれは他の嫌な事には手を貸さない、目を背ける、見苦しい国民に日本は成ったとつくづく思う。
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