秦郁彦wikiより抜粋--------------------------
山口県出身。鉄道省の技術官吏である父は太平洋戦争中に陸軍司政官としてフィリピン北部のカガヤン州における鉄道建設に従事して戦死した。1952年に山口県多々良学園高校を卒業後東京大学法学部に入学。在学中は戦史研究に没頭した。指導教官は丸山真男。二年次に結核と診断され(後に誤診と判明)一年休学し、巣鴨プリンズンに収監中のA級戦犯を含む旧陸海軍軍人百数十人のヒアリングを実施した。直接話を聞いた旧軍人には鈴木貞一、橋本欣五郎、荒木貞夫、嶋田繁太郎、佐藤賢了、今村均などがいる。
南京事件については自著『南京事件』において、日本軍の不法行為による犠牲者数を「3.8万-4.2万人」とし、以後も被虐殺者数は約4万人程度と推定している。2007年に出した同著の増補版では、「4万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下まわるであろうことを付言しておきたい」と追記しており、週刊新潮2007年12月27日号では、「だいたい4万人」とコメントしている。
百人斬り競争については、行ったとされる旧日本陸軍少尉が故郷鹿児島県において地元の小学校や中学校で捕虜殺害を自ら公言していたことを調べ上げて、1991年に日本大学法学会『政経研究』42巻1号・4号にて発表している。
東條英機は、仮に東京裁判の代わりに日本人による裁判が設けられていたとしても、当時の法律に則りチャハル作戦における捕虜殺害、憲兵を用いた弾圧等を罪状として有罪となっただろうと著作『現代史の争点』で主張している。また、昭和天皇が靖国神社に参拝しないようになった理由は「A級戦犯合祀」であると主張して、首相・三木武夫の「私的参拝発言」原因説を唱える岡崎久彦、渡部昇一、櫻井よしこらを『諸君!』誌上や産経新聞「正論」欄で批判している。
前田朗は、上記著作には国連組織への初歩的な間違いや憶測に基づいている記述が多いとも述べ、秦の手法に対して方法論的な疑問を提示している。これに対する秦の反論が「前田朗氏への反論」(『戦争責任研究』 2000年夏季)。
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大東亜戦争は当時の政府の東条内閣が昭和16年12月12日閣議決定した正式な日本の呼称です。真珠湾攻撃が12月8日ですから4日後の事です。占領政策で戦勝国の太平洋戦争と呼ぶことを強要されました。
当時大東亜共栄圏の欧米からの植民地侵略を解放したい、人種差別を無くしたい。という今考えればとても崇高な目的達成の為の戦いであったとも言えるでしょう。
それ以前の支那事変も含めたことが"後付け"の開戦理由と判断され、侵略戦争と解釈される要因にもなりました。
読売新聞は検証戦争責任と銘打って渡邊の歴史観を色濃く表現し、一連の戦争を昭和戦争とまで名付けて独自検証をしています。
この読売独自の読売史観と現代史家の秦郁彦氏の歴史観が生き写しの様に符合し酷似しているのです。
《満州事変》
【秦郁彦氏】
『「石原、板垣、本庄、林は陸軍刑法違反で死刑相当」と語っているが、当時彼らは軍法会議に呼ばれるどころか、軍の出世街道を驀進するのみであった。(中央公論)』
【渡邊氏】
『石原、板垣らの謀議の結果、31年9月18日、奉天北方の柳条湖で鉄道爆破事件を起こし、これが満州事変の発火点となる。事件を拡大したのは林銑十郎朝鮮軍司令官の満州への独断の越境進軍で、本庄繁関東軍司令官がこれに同調した。』とあります。
発火点になる柳条湖事件の以前に多発した事件には目を瞑り、秦氏はその首謀者を当時の軍法会議が見逃したことを強調し、暴走と軍部批判をして侵略であることを殊更強調します。
明治政府の統帥権の不備に乗じ石原莞爾は合法的に満洲事変を完遂させたという側面からは見ずに新聞が煽り国民も支持していた歴史から意図的に目をそらします。
当時の新聞は寧ろ石原らの作戦を支持し国民も
生きる為に戦い満洲に夢を描いていたのです。
《靖国》
【秦郁彦氏】
東京裁判の代わりに日本人による裁判が設けられていたとしても、当時の法律に則りチャハル作戦における捕虜殺害、憲兵を用いた弾圧等を罪状として有罪となっただろうと著作『現代史の争点』で東条をやり玉に挙げています。
戦犯合祀が原因で天皇陛下の御親拝が中断と富田メモを確定させています。
【渡邊氏】
『中曽根首相が1983年に参拝後、諸外国から反発が起こり始め、反対論は内外相呼応する。
そこで中曽根は腹心の瀬島龍三に頼み、A級戦犯遺族を歴訪、自発的に分祀を認めるよう説得、ほぼ分祀について合意ができた。
だが、さいごに東条英機元首相の遺族の猛反対で失敗に終わった。』
『聖戦と英霊という言葉を美化するために玉砕や特攻作戦が必要以上に美化されている。
特攻は敗色濃厚な局面で事実上ほとんど強制的な命令によって行われた『統率の外道』(発案者の大西中将に言葉)だし、玉砕は東条陸相が出した『戦陣訓』中の「生きて虜囚の辱めを受けず」に由来し、国際法上または先進諸国の「名誉の捕虜」とは全く反対の非人道的なもので、その犠牲者の霊のためにも「玉砕」の美化は許されるものではない。』
『渡邉自身、陸軍二等兵として応召したが、当時自分の周りで「靖国で会おう」という合言葉のもと喜んで戦線に赴いた事実を目撃したことはない。
開戦直後の勝利を信じて戦地に赴いた兵士たちと、敗戦確実と思いながら徴兵された兵士たちの思いは全く違う。
そういうものを全て同一視して聖戦で戦没した英霊という言葉を戦後世代が勝手に使うことは、正当だとは思えない。』
歴史の研究は史料に基づいて行います。しかし、古い記録のそこに書かれたことが事実であるとは限りませんし、事実(客観)を書くことは不可能です。個人の考え方(主観)からしか表現できないからです。そのために自己正当化し、不都合な点を省略、あえて虚偽を記す場合もあるのです。
当事者の戦後の聴き取り調査は一次史料の条件を欠いたオーラルヒストリーでしかありませんし、
戦勝国史観、つまり東京裁判史観に擦り寄った主観となり、敗戦国である日本軍はその膨大な量の資料を処分しています。
要するに、日本の近現代史、主に戦争史に関して戦後利得として手に入れた社会的地位を守る為の主観が入る為に秦郁彦氏と渡邊氏所謂読売史観が酷似することは当然の結果であり、慰安婦問題の様な国益が毀損されるテーマに関しては客観的にならざるを得ない訳です。
南京事件に関しては政治プロパガンダとして一部の日本人と支那人が共同で作りあげた捏造であり、侵略戦争を確定させる脚色材料の側面もあります。
一部の利得者の主観が歴史になる不都合が表面化して遂に彼等の歴史観の再考が問われる途上でもあるのです。日本人全体の利益になる歴史観を取り戻す事が今後の我々に課せられた使命かもしれません。