天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

江崎鉄磨沖縄・北方担当大臣の分祀発言を考える

2017-08-12 08:14:34 | 時事
仕事人内閣としてやりだまにあげられて叩かれ始めている江崎大臣だが、一点気になる発言に目が止まった。



沖縄地位協定見直しではない。

終戦記念日前後に靖国神社を参拝するかどうかを問われると、「10数年来、靖国は出かけておりません。理由はできうれば分祀かな、できうれば。これもなんか違った書き方されると困りますが」と述べ、A級戦犯の分祀が望ましいとの考えを示している。


自民党主流の考え方であり、安倍総理の歴史観とは一線を画しているように思える。

マスメディアの判断は江崎大臣の答弁書丸々コピペ朗読は問題視せず、広島長崎での安倍首相のコピペ朗読を一斉に批判している。

つまり、安倍首相のバランス感覚が成せる内閣ということだ。江崎氏に問題発言が無いと判断したのだろう。

あくまでも「できうれば分祀が望ましい」と微妙な言い回しにマスメディア自体判断がつかないのだと思う。

一見分祀を支持しているようでしていない、この様な表現は実に賢く誤解も招かない。
一旦合祀したものを如何なる理由があれ、分祀は不可能であることがわかっている証拠である。

沖縄問題と絡める必要性もないのだが、あえて靖国問題に触れたのはリスクと思考を分散させるためであることがわかる。

要するに議論が別れ外交問題に関わるような歴史認識の事は触れず対立を煽るようなことをやめ、憲法改正に纏まりたいとの現れだろう。

江崎大臣は仕事人の中でも必殺かもしれない。


戦争体験の書き方

2017-08-11 07:37:26 | 時事

8月10日livedoor'ニュースに次のような記事を見つけた。8月15日近くになれば戦争体験のニュースがまるでスクープのように、トップに躍り出る。

その書き方の特徴を記事を見ながらチェックしていきたいと思う。


《戦争を考える》日本兵による日本兵の殺害を証言した98歳「やり残したことがある」

 沖縄戦経験者の元日本兵、飯田直次郎さん(98)は、昨年ごろから、住民に対し悪行を働いた海軍の軍曹を殺害したことを証言し始めた。日本兵による日本兵の殺害に関する証言は極めて珍しい。



 飯田さんは1944年、東部第六二師団下田部隊に入隊し、沖縄へ向かった。

 それまでは教育部隊に所属、中国戦線に6年半、派兵された。いったん本土へ戻ったときに結婚。半年後に再び派遣されるが、このとき、妻は身ごもっていた。

「いつ召集がくるかわからないから、妻も覚悟のうえだったはず。それが当たり前でした」

 【沖縄戦は、アメリカ軍の本土上陸を遅らせる時間稼ぎの作戦だった。】飯田さんが沖縄に派遣されたのは、アメリカ軍の潜水艦攻撃が激しくなったためだ。

「最初は台湾に行くはずでしたが、途中の下関で船が止まって、別の部隊が台湾へ。そのため、私たちの部隊は沖縄に行くことになったんです」

 このころ、すでに飯田さんは“日本が負ける”と思っていたという。なぜか。

「最後に来た部隊は竹槍(たけやり)を持っていました。銃がないんです。“ああ、これはダメだな”とあきらめました」

 11月末、飯田さんらは那覇に上陸した。識名の守備軍として配備されたが、那覇は10月10日の大空襲ですでに廃墟になっていた。

 その後、飯田さんは沖縄戦最後の激戦地・摩文仁村(現在の糸満市)に移動。ここで「佐々木」という海軍の軍曹を殺害した。いったいどういうことか。


 ’45年6月ごろ、飯田さんは、一緒に逃げてきた日本海軍兵や周辺住民と過ごすなど交流があった。

「食糧が少なく、餓死した人も多い。でも、住民とは仲よくやっていました。部隊には軍から鯨の缶詰の配給がありましたから、それを住民にも配った。私たちは住民からサツマイモなどをもらって。イモの葉っぱは常食でしたよ」

 しかし海軍の軍曹・佐々木は、住民を殺害したり、女性を強姦したり、食料を強奪していた。近くで水が飲めた唯一の井戸を独占している、という話も【住民から聞いた。】

「住民が泣きついてきたんです。佐々木は自分だけ生き延びようとしていた。反感を持たれていました」

 ウワサだけでなく、飯田さん自身も佐々木の【蛮行を目撃する。】もう限界だと思った。

「見て見ぬふりをしている人もいた。佐々木の命令で同じようにしている人もいた。あまりにもひどい。【日本から兵隊が行ったからこそ、沖縄の島民は苦労したというのに」】

 そのため、佐々木を殺害することを思い立つ。

 「佐々木さえいなければ、なんとかしのげて、水も飲めるのに」

 飯田さんは、仲間と一緒に殺害計画を立てた。井戸で住民に嫌がらせをしていた佐々木に近づき、後頭部に銃を突きつけ、引き金を引いたのだ。

 この佐々木殺害の件について、飯田さんは2年前から証言するようになった。

 関係者がほとんど亡くなっているということもあるが、「やり残したこと」として、記録に残すことを決めた。

「本当は誰にも話さず、心に秘めて亡くなろうと思ったんです。日本人同士の争いは恥ではないかと。でも、そのことを知っている人はもう私しかいない」

 飯田さんは戦後2年たって実家へ戻った。その後、これまでに37回、沖縄へ行き慰霊の旅を続けている。

 戦友から寄付を募り、部隊が全滅した場所に慰霊碑も建てた。

 飯田さんはアメリカ軍から逃げる牧港付近で、背後から撃たれた。火炎放射器によって100人ほどいた兵隊はほとんど焼死。生き残った飯田さんは、そのときの銃弾がまだ身体の中にある。傷は、沖縄戦の悲劇を物語り、日本兵による日本兵の殺害は、貴重な証言となっている。

「沖縄ではいろんなことをした。嫌な思い出は残っているけど、いい思い出は何もないよ。戦争は勝っても負けてもよくない」


取材・文/渋井哲也

ジャーナリスト。栃木県那須郡出身。長野日報を経てフリー。いじめや自殺、若者の生きづらさなどについて取材。近著に『命を救えなかった―釜石・鵜住居防災センターの悲劇』(第三書館)

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気になる箇所に【 】を入れた。
戦争体験を記事にする場合、本人の発言を元に、どのような言葉を付け足すかで如何様にも印象操作出来る。基本的に歴史観には触れず、戦争への反省と贖罪意識の啓発の為に日本軍の加害性を強調し、出来る限り残虐な被害を語り、戦争自体の憎悪と恐怖を植付けるのだ。

最初にある【沖縄戦は、アメリカ軍の本土上陸を遅らせる時間稼ぎの作戦だった。】は飯田さんとの関連は沖縄戦だけである。つまり取材者渋井氏がこの取材を通して一番伝えたいことがこれだ。

沖縄戦は本土上陸を遅らせる日本の作戦であるかのようにかいている。これが『沖縄は捨石にさせられた』を形造るキモである。

正しくは、沖縄戦は本土上陸を結果的に遅らせたが時間稼ぎではない。このように反戦のためであれば歴史捏造も許されると言わんばかりに捨石と恣意的に解釈するわけだ。

詳しくは過去ブログ『「沖縄は捨石になった」のデマゴーグ』をご覧いただきたい。




更に飯田さんの発言

【住民から聞いた。】

【蛮行を目撃する。】

【日本から兵隊が行ったからこそ、沖縄の島民は苦労したというのに」】


彼の上官を射殺した根拠が【住民から聞いた。】と【蛮行を目撃する。】であるが、肝心な上官の蛮行に少しも触れておらず、聞いた話と印象で撃ってしまったようにとられてしまう可能性、戦争犯罪人のイメージで飯田さんは見られてしまうリスクが残る。

更には、【日本から兵隊が行ったからこそ、沖縄の島民は苦労したというのに」】との暴論を書くこととなってしまう。

書かなくても良いことを書き、書かなければならないことを書いていないのだ。

敗戦が濃厚で十分な兵力も送れない中、負けを確信したのは彼だけではないだろう。統率力も士気も下がっている中で、日本軍の使命は沖縄県民を守ることであるのは自明の理であり、敵アメリカから守るのだ。

海軍上官の厳しい飲み水や食料の管理の態度が必ずしも間違っているとは言えない。飯田さんの行為は県民を助けるという見方も出来る。

やはり、間違っているのは渋井氏の「時間稼ぎ」の為の捨石、「日本から兵隊が行ったからこそ、沖縄の島民は苦労したというのに」との飯田さんの発言を掲載したことである。

最後にチャンネル桜の水島社長が語る県民の話で終わる。











●沖縄戦のとき、沖縄の人たちは「鉄の嵐」といわれる、地形も変わるほどのものすごい米軍の艦砲射撃の中で、穴倉で兵隊も民間人も閉じ込められていた。
水も食糧も尽きようとしていたとき、一時だけ砲撃が休まったことがあった。その間に人々は穴からはいずり出して、病人を運び、食糧を調達した。
その時、人々が海の方向で見たものは、米戦艦に向かって一機、また一機と突っ込んでいく特攻機の姿だった。沖縄の人々の命を長らえるために、一人一人の特攻隊員が命を捧げて、そのわずかな時間をつくってくれた。沖縄県民たちは、両手を合わせ涙を流した…。
という話を沖縄の手登根安則さんから聞いた。これが日本人である。
     《水島総 チャンネル桜2014/9/26》

核兵器と9月危機

2017-08-10 16:19:54 | 時事
長崎の被爆者は安倍首相に核兵器禁止条約の交渉に参加しない政府の姿勢に「理解できない」「極めて残念」「あなたはどこの国の総理ですか。私たちをあなたは見捨てるのですか」などの厳しい想いをぶつけた。

保有国とその核の傘に守られた国は参加しないこの条約がどれ程の効力があるのか私でも疑問に思うが、原爆の日に原発と沖縄までセットにして
労組がデモする破茶滅茶振りには首相同様閉口する。

ここで核を殺虫剤、核の傘を蚊帳と例えて考えてみよう。

殺虫剤の撲滅を蚊帳の中で、刺されない状況で言えるのか?ということである。

蚊帳の外の北朝鮮が殺虫剤を持つのは当たり前にも思える。誰だって蚊に刺されたくはないし、敵が蚊である前提での話だが。


森友、加計、原爆の日そして8月15日終戦の日と安倍首相への御門違いな声は止むことはない。

北朝鮮は建国記念日の9月9日前後に、『6回目の核実験』か『ICBMの再発射』を強行する予定のようだ。



国防総省が北朝鮮に対する先制軍事攻撃の選択肢の一つとして、米空軍のB1戦略爆撃機による北朝鮮の弾道ミサイル発射基地などに対する精密爆撃を実行する準備を整えたと伝えた。トランプ大統領による命令があれば、いつでも実行できる状態にあるとしている。

これを最後の圧力と捉えれば9月の北の出方次第では精密爆撃はかなりの確率で実行される。

核兵器禁止条約が建前ならばアメリカの保有国核不拡散条約は実力行使の本音である。このように蚊帳の中で守られている日本は蚊帳の外という、
落語のような話で長崎の被爆者連絡協議会の要望がイタイかがわかるだろう。

言葉は悪いが、核の話をしたければ核をもてということである。

靖国懇「報告書」

2017-08-10 13:21:52 | まとめ・資料
閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会
「報告書」


[年月日] 1985年8月9日

[全文]
昭和60年8月9日

内閣官房長官

藤波 孝生 殿

閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会

林  敬三

芦部 信喜

梅原  猛

江藤  淳

小口 偉一

小嶋 和司

佐藤  功

末次 一郎

鈴木 治雄

曽野 綾子

田上 穣治

知野 虎雄

中村  元

林  修三

横井 大三

 我々は、昨年8月3日、内閣官房長官から、内閣総理大臣その他の国務大臣の靖国神社参拝の在り方をめぐる問題について意見を述べるよう要請を受け、今日まで検討を続けて来たが、別添のとおり意見を取りまとめたので、報告する。

 

目  次

1.はじめに

2.閣僚の靖国神社公式参拝問題の経緯

(1)靖国神社の概要等

(2)靖国神社公式参拝問題の発生

3.戦没者追悼の在り方

(1)国及びその機関による戦没者の追悼

(2)我が国における戦没者の追悼

4.閣僚の靖国神社公式参拝の意味

5.閣僚の靖国神社公式参拝の憲法適合性

(1)政教分離原則に関する最高裁判所判決

(2)公式参拝の憲法適合性に関する考え方

6.閣僚の靖国神社公式参拝に関して配慮すべき事項

(1)公式参拝の方式の問題

(2)合祀対象の問題

(3)国家神道・軍国主義復活の問題

(4)信教の自由の問題

(5)政治的対立、国際的反応の問題

7.新たな施設の設置

8.終わりに

 

1.はじめに

 我々は、昭和59年8月3日、藤波内閣官房長官から、内閣総理大臣その他の国務大臣の靖国神社参拝の在り方について、憲法上の論点、国民意識とのかかわりなどを幅広く検討し、意見を述べるよう要請を受けた。

 そこで、今日まで約1年間、合計21回にわたり懇談会を開催し、宗教団体等の意見や諸外国の実情を含め、この問題全般について調査を行い、自由な立場から討議を積み重ね、検討を行って来たが、ここにその結果を報告する。

 なお、我々の間には、いくつかの点について意見の対立があり、必ずしも、すべての点について全員の一致した意見を得ることはできなかった。そのため、この報告においては、意見の主なものを示すことに主眼を置くこととし、意見の一致を見るに至らなかった点のうち、重要なものについては、その旨を特に掲げることとした。

2.閣僚の靖国神社公式参拝問題の経緯

(1)靖国神社の概要等

 靖国神社は、明治2年に創建された東京招魂社にその起源を有しており、明治12年、靖国神社と改称、別格官弊社に列せられた。

 戦前は、国事殉難者を祀る国の中心的施設として、国家管理の下に置かれ、戦争・事変等による戦没者を合祀した。

 戦後、連合国の占領政策の一環として、いわゆる神道指令(昭和20年12月15日)に基づき、さらに、思想・言論の自由及び信教の自由に対する要求を背景として、厳密な政教分離が行われ、公務員の公的資格における神道の保証、支援等、公の財源による神社に対する財政援助等は禁止され、靖国神社は昭和21年2月2日に国家管理の手を離れて宗教法人となった。なお、地方公共団体等が戦没者に対する葬祭等に関与することも厳しく禁止されていたが、我が国の独立回復の際、緩和された。

 また、日本国憲法には、信教の自由・政教分離に関する規定(第20条・第89条)が置かれることとなった。

 しかしながら、宗教法人靖国神社は、戦後も、引き続き、先の大戦における多数の戦没者の合祀を行っており、同神社における合祀柱数は、昭和60年7月末現在で、246万4151柱となっている。

(2)靖国神社公式参拝問題の発生

 昭和27年4月28日、「日本国との平和条約」の発効により、連合国の占領が終了して我が国が独立を回復し、神道指令は効力を失うこととなった後、日本遺族厚生連盟(後の日本遺族会)を中心に、国民の間に、靖国神社を再び国営化ないし国家護持すべきであるとの運動が生じた。

 昭和50年頃から、上記の運動に代わり、従来、内閣総理大臣その他の国務大臣が靖国神社に私的資格で参拝していたことについて、公的資格で参拝(いわゆる公式参拝)すべきであるとの運動が展開された。これに対し、このような公式参拝は、憲法第20条第3項の禁止する国の機関の宗教的活動に当たり、違憲であるとの憲法論からする反対論も主張され、様々な政治的、社会的反響を呼ぶに至った。また、公式参拝に関連して、昭和53年10月17日及び昭和55年11月17日の2度にわたり、政府の統一見解が表明され、この見解をめぐる論議も活発となった。

3.戦没者追悼の在り方

(1)国及びその機関による戦没者の追悼

 祖国や父母、妻子、同胞等を守るために一命を捧げた戦没者の追悼を行うことは、祖国や世界の平和を祈念し、また、肉親を失った遺族を慰めることでもあり、宗教・宗派、民族・国家の別などを超えた人間自然の普遍的な情感である。このような追悼を、国民の要望に即し、国及びその機関が国民を代表する立場で行うことも、当然であり、諸外国の実情を見ても、各国の法令上の差異や、国家と宗教とのかかわり方の相違などにかかわらず、国が自ら追悼のための行事を行い、あるいは、例えば、大統領の公的機関が民間団体の行うこれらの行事に公的資格において参列するなど、戦没者の追悼を公的に行う多数の例が存在する。

(2)我が国における戦没者の追悼

 我が国においても、この間の事情は、これら諸外国と同様に考えることができる。先の大戦に至るまでの数次の戦争における戦没者に対し追悼の念を表すことは、国民多数の感情にも合致し、遺族の心情にも沿うものであって、国民として当然の所為というべきである。また、内閣総理大臣その他の国務大臣も、国民を代表する立場において、国民の多数が支持し、受け入れる形で行事を主催し、又は、行事に参列することによって、戦没者の追悼を行うことが適当であろう。

 戦後、戦没者を追悼するために、国は、独立回復直後の昭和27年5月2日、新宿御苑において全国戦没者追悼式を実施した。以後、昭和34年3月28日には千鳥ヶ淵戦没者墓苑を設立し、その竣工式に併せて同所において、また、昭和38年8月15日には日比谷公会堂において、昭和39年8月15日には靖国神社境内地において、昭和40年以降毎年8月15日(昭和57年以降「戦没者を追悼し平和を祈念する日」)には日本武道館において、それぞれ全国戦没者追悼式を主催し、さらに、昭和40年以降、毎春、千鳥ヶ淵戦没者墓苑において納骨並びに拝礼式を主催して、これらの各式典には内閣総理大臣その他の国務大臣等が公的資格で参列している。

 しかし、国民や遺族の多くは、戦後40年に当たる今日まで、靖国神社を、その沿革や規模から見て、依然として我が国における戦没者追悼の中心的施設であるとしており、したがって、同神社において、多数の戦没者に対して、国民を代表する立場にある者による追悼の途が講ぜられること、すなわち。内閣総理大臣その他の国務大臣が同神社に公式参拝することを望んでいるものと認められる。

4.閣僚の靖国神社公式参拝の意味

 内閣総理大臣その他の国務大臣の靖国神社公式参拝とはどのような参拝を言うかについては、内閣総理大臣その他の国務大臣が公的資格(内閣総理大臣その他の国務大臣としての資格)で行う参拝のことであり、したがって、閣議決定などは特に必要ではないと考える。

 その際、参拝の形式については、いわゆる正式参拝(靖国神社の定めた方式に従った参拝であり、昇殿を伴う。)又は社頭参拝等の形式に左右されるものではなく、さらに、神道の形式にも限定されない。すなわち。閣僚が自らの思うところの方式に従って拝礼するとしても、その資格が公的であればやはり公式参拝であると考える。また。靖国神社で行われる儀式・行事(例えば、多数の遺族によって行われる追悼のための儀式・行事も含む。)に公的資格で参列して拝礼するような場合も公式参拝と言うべきであろう。

5.閣僚の靖国神社公式参拝の憲法適合性

(1)政教分離原則に関する最高裁判所判決

 内閣総理大臣その他の国務大臣が靖国神社に公式参拝するについては、憲法第20条及び第89条のいわゆる政教分離原則との関係が問題となる。

 この政教分離原則に関する解釈等については、津地鎮祭事件に関する最高裁判所判決(昭和52年7月13日)(以下単に最高裁判決と言う。)が参考となるが、同判決は、特に、憲法第20条第3項の「宗教的活動」に関して、おおむね次のように述べている。

 いわゆる政教分離原則は信教の自由を制度的に確保するための原則であり、国家と宗教とのかかわり合いを全く許さないものではない。国家と宗教とのかかわり合いが許されるかどうかは、そのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが社会的、文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるかどうかによって判断すべきである。憲法第20条第3項の「宗教的活動」とは、行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為を言い、ある行為がこの宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って客観的に判断すべきである。本件地鎮祭は、宗教とのかかわり合いを持つものであることを否定し得ないが、目的はもっぱら世俗的なものと認められ、その効果は神道を援助、助長、促進し、又は、他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められないので、この宗教的活動に該当しない。

 これによれば、憲法第20条第3項によって禁止されない国及びその機関による宗教的活動又は宗教上の行為が存在し得ることは明らかである。

(2)公式参拝の憲法適合性に関する考え方

 靖国神社公式参拝が憲法第20条第3項で禁止される「宗教的活動」に該当するか否かについては、討議の過程において、多様な意見が主張された。これらの意見の対立は、おおよそ次のように集約することができる。

(その1)憲法第20条第3項の政教分離原則は、国家と宗教との完全な分離を求めるものではなく、靖国神社公式参拝は同項で禁止される宗教的活動には当たらないとする意見

(その2)最高裁判決の目的効果論に従えば、靖国神社公式参拝は神道に特別の利益や地位を与えたり、他の宗教・宗派に圧迫、干渉を与えたりすることにはならないので、違憲ではないとする意見

(その3)最高裁判決の目的効果論に従えば、我が国には複数の宗教信仰の基盤があることもあり、靖国神社公式参拝は現在の正式参拝の形であれば問題があるとしても、他の適当な形での参拝であれば違憲とまでは言えないとする意見

(その4)公的地位にある人の行為を公的、私的に二分して考えることに問題があり、(1){(1)は原文ではマル1}私的行為、(2){(2)は原文ではマル2}公人としての行為(総理大臣たる人が内外の公葬その他の宗教行事に出席するごとき行為)、(3){(3)は原文ではマル3}国家制度の実施としての公的行為、の三種に分けて考えるべきであるが、閣僚の参拝は(2){(2)は原文ではマル2}としてのみ許され、それ故に、私的信仰を理由とする不参加も許されるとする意見

(その5)憲法第20条第3項の政教分離原則は、国家と宗教との完全な分離を求めるものであり、宗教法人である靖国神社に公式参拝することは、どのような形にせよ憲法第20条第3項の禁止する宗教的活動に当たり、違憲と言わざるを得ないとする違憲

(その6)本来は(その5)の意見が正当であるが、最高裁判決の目的効果論に従ったとしても、宗教団体である靖国神社に公式参拝することは、たとえ、目的は世俗的であっても、その効果において国家と宗教団体との深いかかわり合いをもたらす象徴的な意味を持つので、国家と宗教とのかかわり合いの相当とされる限度を超え、違憲と言わざるを得ないとする意見

 しかし、憲法との関係をどう考えるかについては、最高裁判決を基本として考えることとし、その結果として、最高裁判決に言う目的及び効果の面で種々配意することにより、政教分離原則に抵触しない何らかの方式による公式参拝の途があり得ると考えるものである。

 この点については、最高裁判決の解釈として、靖国神社に参拝する問題を地鎮祭と同一に論ずることはできないとの意見もあったが、一般に、戦没者に対する追悼それ自体は、必ずしも宗教的意義を持つものとは言えないであろうし、また、例えば、国家、社会のために功績のあった者について、その者の遺族、関係者が行う特定の宗教上の方式による葬儀・法要等に、内閣総理大臣等閣僚が公的な資格において参列しても、社会通念上別段問題とされていないという事実があることも考慮されるべきである。

 以上の次第により、政府は、この際、大方の国民感情や遺族の心情をくみ、政教分離原則に関する憲法の規定の趣旨に反することなく、また、国民の多数により支持され、受け入れられる何らかの形で、内閣総理大臣その他の国務大臣の靖国神社への公式参拝を実施する方途を検討すべきであると考える。

 ただし、この点については、前記(その5)、(その6)記載のとおり異論があり、特に(その6)の立場から、靖国神社がかつて国家神道の一つの象徴的存在であり、戦争を推進する精神的支柱としての役割を果たしたことは否定できないために、多くの宗教団体をはじめとして、公式参拝に疑念を寄せる世論の声も相当あり、公式参拝が政治的・社会的な対立ないし混乱を引き起こす可能性は少なくない、これらを考え合わせると、靖国神社公式参拝は、政教分離の根幹にかかわるものであって、地鎮祭や葬儀・法要等と同一に論ずることのできないものがあり、国家と宗教との「過度のかかわり合い」に当たる、したがって、国の行う追悼行事としては、現在行われているものにとどめるべきであるとの主張があったことを付記する。

6.閣僚の靖国神社公式参拝に関して配慮すべき事項

 政府は、前記靖国神社への公式参拝を実施するに当たっては、以上のような種々の立場からの意見が存在することに留意するとともに、以下の事項についても、十分検討し、配慮すべきである。

(1)公式参拝の方式の問題

 靖国神社への公式参拝を実施する場合には、儀式の主催者の問題(例えば遺族会主催の行事が行われる場合にするか)、追悼の方式の問題(例えば正式参拝以外の方式にするか)、当該行為の行われる場所の問題(例えば社頭で行うか)等、具体的に検討を要する点は多々あろうが、政府は、社会通念に照らし、追悼の行為としてふさわしいものであって、かつ、その行為の態様が、宗教との過度の癒着をもたらすなどによって政教分離原則に抵触することがないと認められる適切な方式を考慮すべきである。

 なお、その際、最高裁判決が言う目的・効果に関し、同判決が言及するように、相当とされる限度を超えて、宗教的意義を有するとか、靖国神社、あるいは、同神社の活動を援助、助長、促進し、又は他の宗教・宗派に圧迫、干渉等を加えるなどのおそれのないよう、十分慎重な態度で対処する必要があろう。

(2)合祀対象の問題

 討議の過程において、靖国神社に合祀される対象については、「国事に殉じた人々」とされているものの、例えば、明治維新前後においていわゆる賊軍と称せられた人々が祀られていないことや、極東軍事裁判においていわゆるA級戦犯とされた人々が合祀されていることなどには問題があるとの意見があった。

 しかし、合祀者の決定は、現在、靖国神社の自由になし得るところであり、また、合祀者の決定に仮に問題があるとしても、国家、社会、国民のために尊い生命を捧げた多くの人々をおろそかにして良いことにはならないであろう。ただし、政府は、公式参拝を実施する場合、これらの点は依然問題として残るものであることに留意すべきであろう。

 なお、一般の戦争犠牲者及び人命救助や災害時の安全確保などに尽くして亡くなった人々も、靖国神社に祀られるべきであるとの意見があった。

(3)国家神道・軍国主義復活の問題

 国民の一部に、靖国神社公式参拝は戦前の国家神道及び軍国主義の復活に結びつくおそれがあるとの意見があり、討議の過程においても、そのような靖国神社へ公式参拝することは問題であるとの意見があった。

 しかし、現在、靖国神社は他の宗教法人と同じ地位にある宗教法人であり、戦前とは性格を異にし、また、憲法上も、国家神道の復活はあり得ない。いわゆる軍国主義の問題に対しても、憲法上の歯止めが存することや、現在の靖国神社は戦没者追悼と平和祈念の場となっていることを見れば、そのような懸念はないと言うべきであろう。ただし、靖国神社がたとえ戦前の一時期にせよ、軍国主義の立場から利用されていたことは事実であるし、また、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、時としてそれに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられたことも事実であるので、政府は、公式参拝の実施に際しては、いささかもそのような不安を招くことのないよう、将来にわたって十分配慮すべきであることは当然である。

(4)信教の自由の問題

 靖国神社への参拝という行為は、宗教とのかかわり合いを持つ行為である。したがって、政府は、内閣総理大臣その他の国務大臣の靖国神社参拝に当たっては、憲法第20条第2項(信教の自由)との関係に留意し、制度化によって参拝を義務づける等、信教の自由を侵すことのないよう配慮すべきである。

(5)政治的対立、国際的反応の問題

 討議の過程において、靖国神社公式参拝の実施は過度の政治的対立を招き、あるいは、国際的にも非難を受けかねないとの意見があった。

 政府は、この点についても、そのような対立の解消、非難の回避に十分努めるべきであろう。

7.新たな施設の設置

 靖国神社公式参拝の問題に関連して、一部のメンバーから、この際、戦没者のみならず、社会や人々のために平時の生活の中で自らの生命をなげうち、人命救助や安全確保などに尽くして亡くなった人々をも併せ追悼する公的な施設を新たに設置し、この新たな施設においては、宗教・宗派の別なく全く自由な追悼の方式が認められるべきである等の意見があった。

 しかし、この新たな施設の設置そのものは十分考慮に値することではあるが、かかる施設が設置されたからといって、大方の国民感情や遺族の心情において靖国神社の存在意義が置き換えられるものではないし、また、このことは、我々に課せられた要請に必ずしも直接関係する問題ではないと思われたので、具体的な検討は行わなかった。

8.終わりに

 政府は、以上の懇談会の意見を検討の上、閣僚の靖国神社公式参拝について適切な措置を取られたい。

まだ靖国神社NO3に拘泥するのか

2017-08-10 12:08:31 | 時事
 Yahooニュース

靖国神社元幹部「中曽根首相参拝の時は閑散としていた」


靖国神社元ナンバー3(禰宜)の宮澤佳廣氏が上梓した告白本『靖国神社が消える日』(小学館)。「靖国神社を宗教法人でなくし、国家護持に戻すべきだ」といった主張が議論を呼んでいるが、その一方で同書には、これまで知られてこなかった靖国神社をめぐる秘史が書かれている。著者の宮澤氏が、中曽根首相の参拝時のエピソードを紹介する。

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 私と靖国神社との出会いは、昭和60年に遡ります。この年の8月15日、中曽根康弘首相による初の靖国公式参拝が行われました。その日は、それから21年後に訪れる小泉首相による終戦の日の、あの劇場化した靖国参拝とは比較にならないほどに長閑な光景が広がっていました。左翼活動家の「公式参拝反対」のシュプレヒコールも、拡声器などは用いずに、それこそ地声のままでしたから、喧騒といった印象はまったくありませんでした。

 当時、神社本庁の関連団体である神道政治連盟の職員だった私の役割は、この公式参拝の一部始終を記録することにありました。当日、武道館で開催された「全国戦没者追悼式」に出席した中曽根首相は、しばらく休憩したのち、公用車で靖国神社に向かい第二鳥居前で下車、徒歩で神門をくぐり内苑の参道を直進しました。拝殿で記帳を済ませると首相は本殿に進み、事前に供えられた生花の置かれた階に立って深々と拝礼したのです。

 参拝に際しては、一般に用いられる「玉串料」ではなく「供花料」の名目で3万円が公費から支出されました。

◆警察官から羽交い締めに

 内苑の参道沿いには遺族が整列していましたが、その背後で数人の左翼活動家が「公式参拝反対!」と叫びはじめました。それを目撃した私は、すっかり職務を忘れて活動家に向かって突進していました。

 今となれば笑い話ですが、気づけば、私自身が背後から警察官に羽交い締めにされていたのです。若気の至りと言ってしまえばそれまでですが、ここで私の武勇伝を披露しようというわけではありません。

 靖国神社の巨大な門の内側を「内苑」と呼びますが、初めて行われた首相の公式参拝当日の靖国神社の内苑は、その程度の混み具合だったということです。活動家を全力で追い回せるほど閑散としていたのです。

※宮澤佳廣氏・著/『靖国神社が消える日』より

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もうネタギレの感がある靖国神社NO3禰宜の宮澤氏の書籍抜粋祭りである。

これをニュースにするYahooも恐らくこれが
最期となるだろう。内容は秘史と表現しているが

「中曽根首相参拝の時は閑散としていた」というだけのこと、これが秘史である。酷いものだ。

何故こんな事がニュースになるのか、理解に苦しむが、靖国問題を理解されていないのか、解っているが書けないのだろう。

そこで私が分かりやすく簡単に中曽根首相の参拝を解説し、中曽根首相参拝時のNO1宮司のエピソードを紹介する。


三木首相から始まった私的公的の問題、を何を血迷ったか公式、非公式とし、宗教色を消せば公式参拝が可能であると思い込み手水もせず、本殿に一拝したのみのマナー違反の参拝をしたのだ。



この時の参拝を時の宮司松平永芳氏が、書いている。

『私がいいましたのは、手水を使わないのはまあ宜しい。これは自分の家できちっと潔斎してくれば、それは心がけ次第だ。それから二礼二拍手というのも、これは中曽根氏のやることで、いくらかっこうばっかりやっても、心がなければしょうがないんだから、心をこめて拝をすれば、それはそれでもこちらからとやかくいうことではない、と譲りました。けれどもお祓いを受けないのは困る。 お祓いは神社のやることで、火とか塩とか水で清めるというのは日本古来の一つの伝統習俗です。津地鎮祭で合憲とされたのと同じ習俗だとすれば,それを拒否することにもなる。ところが先方では、宗教法人たる靖国神社がやる行為だから困るという回答なんです。そこでそれならばやむをえないから、結局うちはうちでお祓いをする、いわゆる陰祓いをすることにしました。

中略

八月十四日に藤波官房長官が来られた。そこで私は、はっきりお話したんです。神社というものはこうだ。 私がおそれるのは、本質が崩れていくということだ。よその神社でも知事なんかの公式参拝について、中曽根方式なら憲法に抵触しないということで、同じように祓いも受けないということになったら、神社参拝の本質が崩れてしまうことになるだろう。これは、単にうちだけの問題じゃないから、この点を私は非常に重要視して、先方でいう参拝のしかたで宜しゅうございますよ、とは簡単にはいえない。ただ、今回こちらはやむなく目立たないように陰祓いをしますが、そっちはあくまで祓いを受けなかったということでも結構です。ということで、結局、幕をコの字型に張りまして、記帳台を置き、神社としては総理の記帳時、外から見えないようにしてお祓いをしたんです。けれども、私は挨拶に出ないということを官房長官に言ったんです。それは、いかになんでも人の家に泥靴で踏込むような人の所に宮司が出ていって、よくぞいらしゃいました、ということは口が裂けてもいえませんから、私は社務所にいて出ないことにしました。あの時、総理は武道館での全国戦没者追悼式に参列した後、時間調整のためそこでお昼を食べ、遺族なんかを参道に並ばせておいて、それからやってきました。非常に芝居がかった演出だといっては適切ではないかもしれませんけれど、神門から拝殿までの間に、ずっと遺族さん方が並んで拍手で迎えるように取仕り切り、参道の総理に手を叩いている。まるでショーのようなつもりでやってるんです。しかも、あとで夕刊を見て驚いたのは、うちの荒木禰宜が先導して中曽根総理、それから幕僚として厚生大臣と藤波官房長官を従えているのはよいとしても、その横に四人のボディーガードを連れて行動していたんですね。私は前日、藤波氏に条件として、記帳したあと、拝殿から中の、いわゆる神社の聖域にはボディーガードなんか連れて行かないでくれ、と申しておけばよかったと後で後悔しました。まさかそんなことをするはずがないと思っていました。うちの神様方というのはみんな手足四散して戦場でなくなった方が大部分です。そこへ参拝するのに自分の身の安全をはかるため、四人もぴったりとガードをつけるなんていうのは、無礼・非礼のきわみというほかありません』