春のお天気は安定しませんね。
今朝も寝室の窓から見ると降りしきる雪で辺り一面真っ白。
雨なら土砂降りと言いたいけど雪の場合は何と言えば良いのでしょう?
ところが雪雲が遠ざかるとすぐに止んで今は太陽が出ています。
おかしな天気ですね。
春らしい。
ところで、森友学園の騒動で度々話題に上る教育勅語。
あなたは読んだことがありますか?
私はちゃんと読んだことがありませんでした。
なので、昨日はたっぷり教育勅語の勉強をさせていただきましたよ。
この学園の騒動に私が興味を持ったきっかけが、
子供に教育勅語を暗唱させている幼稚園があるらしい、と云う噂でした。
その噂を追っていくうちに塚本幼稚園の園児の動画に行き着いたのです。
その辺りから、教育勅語に関するタイトルを見ては
そこに何が書かれているのかをできる限り読んでいます。
私自身、子供たちが教育勅語を暗唱する姿を見て何を感じたのか?
どうしてそう感じたのか?
よく検証する作業を続けています。
教育勅語には色々と
道徳的な教えが書かれていますね。
親孝行しなさい、とか
兄弟仲良く、夫婦睦まじく、などなどです。
私など幼い時に祖父や、おじ、おばなどによく言われた世代ですよ。
教育勅語は読まなくても兄弟は仲良くするものだと思っていました。
人に親切にすることも、教わったと思います。
私はね、そう云う道徳的なことは決まった言葉で教えるべきではないと思うのです。
色々な人から、色々な言葉で教えられ経験して学んで行くのがいいです。
なぜなら親孝行や、家族の絆の持つ意味合いは人それぞれ別のものだからです。
愛しているなら共に暮らして老後の面倒を見なければならない、とか。
こうしなければああしなければそれは孝行と言えないとか、決めつけて欲しくないのです。
教育勅語を丸暗記して本来人それぞれ自由であるべき親孝行の姿を
他人に決めつけられるような社会はごめんです。
小さい時から、
意味もわからずこの言葉を唱え続けると、
親孝行の意味を
自分自身で考えることなく、周囲にいる大人が教える意味のまま鵜呑みにしてしまうような気がします。
そしてその意味以外のものは悪いと判断したり、自分と違う意見のものを非難したり、
排除したりする人間になるような気がします。
籠池理事長のような人間になるかもしれません。
籠池理事長の話している様子を度々動画で見させていただきましたが、
その姿勢を見るとどんな教育がされているのか空恐ろしくなるのです。
今は騒動が大きくなって、みなさんそれぞれ言い分を変えていますよね。
安倍首相をはじめ色々なみなさんが、
一度は口にした自分自身の言葉を
一週間後には反故にしてしまう様子を見ると本当に情けなくないですか?
自分の言った言葉に全く責任を持っていませんよね。
みなさん平気で嘘をつく。
政治家の皆さんが国民の前で平気で嘘をつく国が美しい国ですか?
ごめんなさいちょっと横道それましたかね。
いろんな人のいろんな考え方を尊重するためには、
様々な理解を許容する懐の深さが必要です。
だいたいネット上、教育勅語と云うキーワードで何かは発言している人は、
擁護者の方が多いような気がしますが、
稲田防衛大臣をはじめとして、たいていの方が同じ論点に目を向けていますね。
これは共通の返答の仕方があるかのようです。
例えば教育勅語に反対するものにはこう答えよう、みたいな例が語られているのかもしれませんね。
日本会議とかでですよ。
知りませんけどこれは想像です。
大抵の擁護派の人は親孝行しろ、兄弟夫婦みんな仲良く、
それが悪いのか?と返してくるのです。
皆さんなぜそう云う反論しかしないのでしょう。
国民が、
「そうよね、近頃親孝行の精神が忘れられているとかんじてたわ、とか、」
簡単に同意しそうな気がします。
そう云う部分だけを取り上げているのでしょう。
それが本当に気持ち悪いのです。
教育勅語を子供に暗唱させることのどこがいけないとお考えですか?と、
なぜ聞けないのでしょう。
反論者の意見を聞かずして自分勝手な判断に基づいて断定してくる姿勢は民主的ではありません。
恐れたり、反対したり、びっくりしている人の気持ちを聞こうとしない傲慢な態度が
とても気になります。
批難するとたちまち、じゃあそれは悪いと云うのか?
と決めてかかってきて論点をすり替えることが多いと思いませんか?
少なくとも私は
教育勅語が良いか悪いかを問題にして反対しているのではありません。
もちろんその問題も議論したいところですが、
子供に暗唱させると云うところが一番問題だと感じているのです。
それはある種洗脳行為になるからです。
そしてまた、学校を運営されている方の人格を見るにつけ、ある種の怒りがこみ上げてきます。
こんな偏った人が何を子供達に教えると云うのか、
あの方自身が使った、「おぞましい」と云う言葉をそのままお返ししたいくらいです。
「おぞましい」と云う言葉をあの理事長が嫌いな人種に対して呟いたとき、
私はそれを動画で見たのです。
びっくりしました。
そう云う言葉の存在は確かに知っていたのでしょう。
しかし私の人生の中でその言葉を使う機会は一切ありませんでした。
そんな言葉があったのを知っていた自分にも驚きました。
そう云う意味で彼は、
人に向かって放った言葉が今自分に返ってきているのだと悟るべきでしょう。
グダグダハンロンシテイルトキジャナイ
もう一度、この問題が発覚した始めの頃の理事長のインタヴューを見てください。
みなさんどんな印象を持たれるでしょう。
この時、彼はまだ
事態がこんな風に展開していくことを全く知らずに
のんきに調子のいいしゃべりを展開しています。
愛国心ってなあに。
そんな議論も深めないで自分の考える愛国心だけが美しい愛国心で
それ以外は認めない。
それはあまりに狭心的。
特に自分の考えに反対するものは愛国心を持たないものと決めつける。
反対するものの意見は尊重されることなく、
反日などと決めつける。
これ本当に困ります。
あまりにも短絡的で一方的な論理の展開です。
そしてそれをごり押しするだけなのです。
私はそう云う社会には生きたくない。
民主主義は多数決だから数で負けたものは
数で勝ったもののルールに従わなければならない、
と
思っているのですね。
おっとどっこい、ところがね。
民主主義って、自由な考え方が許されているのだから
この度は負けたけれどどうしてもその考えには従いたくないし
または自分の考えるルールの方がより良い社会を作れると
信念を持って考える人はみんなの意見を変えるためにそれなりの運動をして良いのです。
何より大事なのは
民主主義の法の下では、どちらがより良いと考えるか人々の意見を聞いて
議論を進める権利を持っていると云うことです。
反対するものをすぐに敵対視する姿勢が怖いのです。
私はこっち、あなたはあっち、と
線を引きたがります。
なぜ意見の違うものと楽しく過ごせないのでしょう。
まず最初にそれができなければ平和は望めません。
違うものを認めない社会はごめんです。
戦後、まがりながらも自由民主主義を謳歌して生きてきた者にとって
今更全体主義は到底ついていけません。
すぐに話が逸れますね。
教育勅語に戻りましょう。
さて、この文言で反対派が一番問題にしたいのが
最後のくだりだと思います。
原文は興味のある方は調べてみてください。
今は私の理解したところによって意味を伝えます。
問題は、国の危機が訪れた時には天皇のために身を捧げなければいけないと云うくだりです。
この部分が、反対派の一番問題としている部分ですよね。
擁護派の人はこの文言に対してのコメントはないことが多いです。
ここが、問題なのは毎日毎日身を捧げることを誓っていると、
いざという時に嫌だと言えないってこと。
国の危機は何も戦争のことばかりを言ってるんじゃない、
あらゆる災害などにおいても身を捧げて救出作業に当たったりするがそれと同じだ、などと云う人がいましたが、
自然災害などの場合、教育勅語を毎日読まなくても援助はできています。
この文言をもしも戦争が起きた時に利用されたら
戦争に行くことを拒否できなくなります。
嫌だと言えば非国民と呼ばれるでしょう。
それがこの前の戦争で起きたことです。
同じ轍を踏まない、
賢人ならば過去の経験から学ぶべきではないでしょうか。
間違いを起こした過去の習慣をなぜまた復活させようとするのか理解できません。
稲田防衛長官は国のために命を捧げることが真の愛国心だと、
以前から強固に主張しています。
ご自分の子供さんを戦場に送ることを厭わないのでしょうか?
命をかけてとか、血を流して身を捧げるとか、
空想の世界でヒロイズムに浸っているようにしか思えません。
ずいぶん長くなってしまいました。
全部読んでくださった方がいたらお礼申し上げます。
私の愛するこの国が、
いつまでも平和でありますように、
自由に物言える社会でありますように、
議論ができる国民に成長できますように、
静かに祈るばかりの夜です。
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今朝も寝室の窓から見ると降りしきる雪で辺り一面真っ白。
雨なら土砂降りと言いたいけど雪の場合は何と言えば良いのでしょう?
ところが雪雲が遠ざかるとすぐに止んで今は太陽が出ています。
おかしな天気ですね。
春らしい。
ところで、森友学園の騒動で度々話題に上る教育勅語。
あなたは読んだことがありますか?
私はちゃんと読んだことがありませんでした。
なので、昨日はたっぷり教育勅語の勉強をさせていただきましたよ。
この学園の騒動に私が興味を持ったきっかけが、
子供に教育勅語を暗唱させている幼稚園があるらしい、と云う噂でした。
その噂を追っていくうちに塚本幼稚園の園児の動画に行き着いたのです。
その辺りから、教育勅語に関するタイトルを見ては
そこに何が書かれているのかをできる限り読んでいます。
私自身、子供たちが教育勅語を暗唱する姿を見て何を感じたのか?
どうしてそう感じたのか?
よく検証する作業を続けています。
教育勅語には色々と
道徳的な教えが書かれていますね。
親孝行しなさい、とか
兄弟仲良く、夫婦睦まじく、などなどです。
私など幼い時に祖父や、おじ、おばなどによく言われた世代ですよ。
教育勅語は読まなくても兄弟は仲良くするものだと思っていました。
人に親切にすることも、教わったと思います。
私はね、そう云う道徳的なことは決まった言葉で教えるべきではないと思うのです。
色々な人から、色々な言葉で教えられ経験して学んで行くのがいいです。
なぜなら親孝行や、家族の絆の持つ意味合いは人それぞれ別のものだからです。
愛しているなら共に暮らして老後の面倒を見なければならない、とか。
こうしなければああしなければそれは孝行と言えないとか、決めつけて欲しくないのです。
教育勅語を丸暗記して本来人それぞれ自由であるべき親孝行の姿を
他人に決めつけられるような社会はごめんです。
小さい時から、
意味もわからずこの言葉を唱え続けると、
親孝行の意味を
自分自身で考えることなく、周囲にいる大人が教える意味のまま鵜呑みにしてしまうような気がします。
そしてその意味以外のものは悪いと判断したり、自分と違う意見のものを非難したり、
排除したりする人間になるような気がします。
籠池理事長のような人間になるかもしれません。
籠池理事長の話している様子を度々動画で見させていただきましたが、
その姿勢を見るとどんな教育がされているのか空恐ろしくなるのです。
今は騒動が大きくなって、みなさんそれぞれ言い分を変えていますよね。
安倍首相をはじめ色々なみなさんが、
一度は口にした自分自身の言葉を
一週間後には反故にしてしまう様子を見ると本当に情けなくないですか?
自分の言った言葉に全く責任を持っていませんよね。
みなさん平気で嘘をつく。
政治家の皆さんが国民の前で平気で嘘をつく国が美しい国ですか?
ごめんなさいちょっと横道それましたかね。
いろんな人のいろんな考え方を尊重するためには、
様々な理解を許容する懐の深さが必要です。
だいたいネット上、教育勅語と云うキーワードで何かは発言している人は、
擁護者の方が多いような気がしますが、
稲田防衛大臣をはじめとして、たいていの方が同じ論点に目を向けていますね。
これは共通の返答の仕方があるかのようです。
例えば教育勅語に反対するものにはこう答えよう、みたいな例が語られているのかもしれませんね。
日本会議とかでですよ。
知りませんけどこれは想像です。
大抵の擁護派の人は親孝行しろ、兄弟夫婦みんな仲良く、
それが悪いのか?と返してくるのです。
皆さんなぜそう云う反論しかしないのでしょう。
国民が、
「そうよね、近頃親孝行の精神が忘れられているとかんじてたわ、とか、」
簡単に同意しそうな気がします。
そう云う部分だけを取り上げているのでしょう。
それが本当に気持ち悪いのです。
教育勅語を子供に暗唱させることのどこがいけないとお考えですか?と、
なぜ聞けないのでしょう。
反論者の意見を聞かずして自分勝手な判断に基づいて断定してくる姿勢は民主的ではありません。
恐れたり、反対したり、びっくりしている人の気持ちを聞こうとしない傲慢な態度が
とても気になります。
批難するとたちまち、じゃあそれは悪いと云うのか?
と決めてかかってきて論点をすり替えることが多いと思いませんか?
少なくとも私は
教育勅語が良いか悪いかを問題にして反対しているのではありません。
もちろんその問題も議論したいところですが、
子供に暗唱させると云うところが一番問題だと感じているのです。
それはある種洗脳行為になるからです。
そしてまた、学校を運営されている方の人格を見るにつけ、ある種の怒りがこみ上げてきます。
こんな偏った人が何を子供達に教えると云うのか、
あの方自身が使った、「おぞましい」と云う言葉をそのままお返ししたいくらいです。
「おぞましい」と云う言葉をあの理事長が嫌いな人種に対して呟いたとき、
私はそれを動画で見たのです。
びっくりしました。
そう云う言葉の存在は確かに知っていたのでしょう。
しかし私の人生の中でその言葉を使う機会は一切ありませんでした。
そんな言葉があったのを知っていた自分にも驚きました。
そう云う意味で彼は、
人に向かって放った言葉が今自分に返ってきているのだと悟るべきでしょう。
グダグダハンロンシテイルトキジャナイ
もう一度、この問題が発覚した始めの頃の理事長のインタヴューを見てください。
みなさんどんな印象を持たれるでしょう。
この時、彼はまだ
事態がこんな風に展開していくことを全く知らずに
のんきに調子のいいしゃべりを展開しています。
愛国心ってなあに。
そんな議論も深めないで自分の考える愛国心だけが美しい愛国心で
それ以外は認めない。
それはあまりに狭心的。
特に自分の考えに反対するものは愛国心を持たないものと決めつける。
反対するものの意見は尊重されることなく、
反日などと決めつける。
これ本当に困ります。
あまりにも短絡的で一方的な論理の展開です。
そしてそれをごり押しするだけなのです。
私はそう云う社会には生きたくない。
民主主義は多数決だから数で負けたものは
数で勝ったもののルールに従わなければならない、
と
思っているのですね。
おっとどっこい、ところがね。
民主主義って、自由な考え方が許されているのだから
この度は負けたけれどどうしてもその考えには従いたくないし
または自分の考えるルールの方がより良い社会を作れると
信念を持って考える人はみんなの意見を変えるためにそれなりの運動をして良いのです。
何より大事なのは
民主主義の法の下では、どちらがより良いと考えるか人々の意見を聞いて
議論を進める権利を持っていると云うことです。
反対するものをすぐに敵対視する姿勢が怖いのです。
私はこっち、あなたはあっち、と
線を引きたがります。
なぜ意見の違うものと楽しく過ごせないのでしょう。
まず最初にそれができなければ平和は望めません。
違うものを認めない社会はごめんです。
戦後、まがりながらも自由民主主義を謳歌して生きてきた者にとって
今更全体主義は到底ついていけません。
すぐに話が逸れますね。
教育勅語に戻りましょう。
さて、この文言で反対派が一番問題にしたいのが
最後のくだりだと思います。
原文は興味のある方は調べてみてください。
今は私の理解したところによって意味を伝えます。
問題は、国の危機が訪れた時には天皇のために身を捧げなければいけないと云うくだりです。
この部分が、反対派の一番問題としている部分ですよね。
擁護派の人はこの文言に対してのコメントはないことが多いです。
ここが、問題なのは毎日毎日身を捧げることを誓っていると、
いざという時に嫌だと言えないってこと。
国の危機は何も戦争のことばかりを言ってるんじゃない、
あらゆる災害などにおいても身を捧げて救出作業に当たったりするがそれと同じだ、などと云う人がいましたが、
自然災害などの場合、教育勅語を毎日読まなくても援助はできています。
この文言をもしも戦争が起きた時に利用されたら
戦争に行くことを拒否できなくなります。
嫌だと言えば非国民と呼ばれるでしょう。
それがこの前の戦争で起きたことです。
同じ轍を踏まない、
賢人ならば過去の経験から学ぶべきではないでしょうか。
間違いを起こした過去の習慣をなぜまた復活させようとするのか理解できません。
稲田防衛長官は国のために命を捧げることが真の愛国心だと、
以前から強固に主張しています。
ご自分の子供さんを戦場に送ることを厭わないのでしょうか?
命をかけてとか、血を流して身を捧げるとか、
空想の世界でヒロイズムに浸っているようにしか思えません。
ずいぶん長くなってしまいました。
全部読んでくださった方がいたらお礼申し上げます。
私の愛するこの国が、
いつまでも平和でありますように、
自由に物言える社会でありますように、
議論ができる国民に成長できますように、
静かに祈るばかりの夜です。
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