美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

モネの水平線

2015-07-02 13:22:22 | 西洋美術

 茨城県近代美術館の重要作品の一つにモネの「ポール・ドモワの洞窟」がある。
 
モネのこの作品は、1886年の制作年である。
 1880年代、モネの作品は、ごく大雑把にいうと、70年代の川の時代から海の時代に入った。

 ついでに言うと、90年代には連作の時代を迎える。積藁やルーアンの大聖堂、そしてポプラなどの<連作>を描く時代である。そして、1899年頃から有名な睡蓮の時代を迎えることになる。
 睡蓮で有名なモネだが、実はその睡蓮は、大部分が20世紀になってから描かれたものが多い。

 モネの作品展開は、このようにほぼ10年ごとに大きく変わっていく。とても覚えやすい。記憶に留めておけば、モネの絵を見るときの参考になる。

 1880年代になって、モネの水平線は、この茨城県の海の絵に見られるように、画面の上の方に描かれる傾向を見せる。もちろん、これは、一つの特徴であるから、例外も多い。
 しかし、モネの多くの絵に今までにはなかった特徴が現れてきたことが重要なのである。
 茨城県のモネはその一つの例である。

 この水平線の上昇は、今日では、ジャポニスムの一つの影響と見做される。
 北斎や広重などの日本の浮世絵風景版画を見ればよくわかるように、一般に東洋美術には非常に高い視点から俯瞰的に風景を描いた作品が多い。

 ただ、東洋美術に見られる俯瞰的な高い視点は、決して画家自身がそこに立って見ているという視点ではない。
 北斎、広重の浮世絵風景版画なら、実際にそういう高い視点から眺めて描いたと思われる作品が出てくるようになるかもしれないが、古い伝統的な東洋美術における俯瞰的な視点は、現実の画家の視点ではない。
 明瞭な水平線も、ほとんど見られず、装飾的な雲や霞の文様で画面が半ば以上、覆い尽くされている感もある。

 ところが、浮世絵も次第に時代が下ってくると、明瞭な水平線も現れ、不完全ながら線遠近法的な空間も表現されるようになる。浮世絵に多いモティーフの橋を描いた似たような構図の作品を、清親あたりまで順にみていくと、モネの水平線の上昇とは逆に、ここでは、視点が漸次下降していくのが観察されよう。

 画面上における水平線(もしくは遠方の地平線)の位置、これは、ルネサンス以来の西洋美術の伝統では、明らかに画面上における画家の目の高さに等しいものであり、(おそらくは西洋的な)<自我>の確立と関連している。自我が外界から分離され、しっかりと固定されていなければ、画面上のどの位置に水平線を描けばよいのかは分からない。

 このことを確認したければ、海岸から、賑やかな市街地を通り抜けて、海が見える小高い丘や住宅団地まで移動し、その地点から振り返って水平線を眺めてみるとよい。
 
 すると、今通過した市街地のビルや無数の屋根が、すべて青い海の水平線の下に見えるだろう。水平線は、それを見る人を追いかけるように上昇してくるのである。すなわち、水平線は自分という人間の眼の高さに存在する。

 茨城県のモネの作品は、水平線が画面のかなり上方にあるが、もっと高いところに画家の視点があるモネの作品も1880年代には見られる。

 1880年代にモネは目も眩むような断崖や峡谷をモティーフに、雄々しく、力強く、ダイナミックな作品を多く描いた。が、86年当時、40歳半ばを過ぎたが、まだ十分な芸術的評価は得ていない。経済的にも十分な安定は得られていない。

 しかし、筆触分割の印象主義の原理は着実に推し進められていた。この作品においても、光と影がつくりだす断崖、岩塊、洞窟は筆太のタッチでリズミックに力強く描かれ、海面は多様な青と緑の細かなタッチで捉えられる。こうした筆触で表現された光の反映と海面の揺曳は、見る人の感覚器官に直截に訴えてくるから、じっと見ていると、ある種のめまいの感覚を引き起こすほどである。

 
 ところがである、オランジュリーのモネの睡蓮が、彼が究極に行きついたところとするならば、ここには、もはや水平線というものはない。水面の世界がすべて俯瞰的に、ある意味で東洋的に眺められ、現実の世界と反映の世界が幾重にも交錯し、併存する。
 
 絵画空間が楕円形に閉じられて、あたかも眼が遍在するかのようである。自我の確立とともに生まれた、窓から眺められた線遠近法的な空間は完全に揚棄されている。これを見る人は、自分というものを忘れ、陶酔し、静かに包み込まれていくのを体験し、その感動を語るのだ。

 



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