美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

少年を描いたマネとムリーリョとレンブラント

2015-07-14 19:49:17 | 西洋美術
茨城県近代美術館にマネの版画腕白小僧・犬と少年」(1868‐74)がある。
少年と犬を描いた油彩画「少年と犬」(1860‐61)のリトグラフ版。エッチング版(1862)もあるが、茨城県にあるのはリトグラフ版。

この少年の名はアレクサンドルといい、1858年から1859年までマネのアトリエでアシスタントやら時にはモデルをつとめた。
ある時、少年はマネに叱られ、首を吊って死んでしまう。このことが、ボードレールに「紐」という散文詩(『パリの憂愁』所収)を書かせた。

ところで、マネの油彩画「少年と犬」は、ムリーリョの少年と犬を描いた作品にそっくりで、少年と犬の配置が鏡像関係で対応しており、明白な影響関係が認められる。人によってはアイディアの盗用だと言うだろう。私もそう思う。これは、明らかに、そう呼びたければ、アイディアの盗用だ。

茨城県近代美術館で、何年かにわたり、大掛かりなエルミタージュ美術館展が行なわれ、スペイン絵画編の時、ムリーリョのこの作品「少年と犬」(1650年代)も来たことがある。私は、ためらわず、この少年と犬の絵がポスターに使われるよう提案し、受け入れられた。
やはり、茨城県にマネのリトグラフ1点がある縁と言ってもよい。

確かその時、常設展の部屋ではマネのこの版画を掲げたように記憶するが、その関係に気づいてくれた来館者はどれぐらいいただろうか。
会場内の解説キャプションでは触れておいたが、今ほど、ネットなどによって容易に事前情報が取れない時代だったし、広報にも限界があったかもしれない。

マネには、自殺した少年アレクサンドルを描いた実に可愛らしい笑顔の肖像画もある。だが、実は、この肖像画も私から見るとレンブラントが息子ティトゥスを描いた1655年の作品「机の前のティトゥス」(ボイマンス美術館、ロッテルダム)からの影響が大きい。

こう言うと、何だか自殺したモデルの少年アレクサンドルに気の毒のような気がするし、マネを貶めているように受け取られると困るのだが、これまた、様々な道具立てや基本構図が、そっくりな作品である。「サクランボを持つ少年」(1859)という作品。ここに2点を並べて掲げてもいいが、画像は、ネットで良いものが容易に見られるだろうから、ここには載せない。署名の入れ方までそっくりだ。ボイマンスのレンブラントの作品を意識しているとしか思えない。

しかし、マネは、少年アレクサンドルを描いて、確かに彼独自の永遠性を与えた。が、そのアイディアは、明らかにどちらも200年ほど前の少年を描いたバロック絵画から想像の源泉を仰いでいたことは間違いない。これは偶然ではないだろう。(印象派の絵は、日本ばかりでなく、特にその初期の時点では、スペインやオランダ絵画からも大きな影響を受けているのだ。英国風景画の影響は、既に概論的に記述されているが。)

実在のモデルがいても、美術の世界では、このように、過去の作品から、アイディアが借用されることは、珍しくない。

いや音楽の世界だって、例えば、わかりやすい例が、バッハによるヴィヴァルディの作品のコピー(そう呼ぶとバッハの崇拝者には叱られそうだが)もある。
この時代に、こうしたことは珍しくはなかったと言っても、二人がもっと近くに住んでいたら、こんなことは起こらなかったかもしれない。

これは、マネとムリーリョ、マネとレンブラントのアイディアの借用より、もっとコピーに近いのではないか。楽譜だから多くの人にはすぐには気づかれないし、聴いてみなければ分からないだろうが、当時そんな機会があったかどうか。(それにしても、後の時代の研究者にも、そうは言わせないバッハの迫力はさすがと認めざるを得ない。)

(バッハとヴィヴァルディの例は、CDアルバムのタイトルとなると、「バッハとヴィヴァルディの<対話>」というようなことになるらしい。)

さて、マネは「サクランボを持つ少年」で、先に触れたように、署名の書き方までレンブラントを模倣して、気づく人は、レンブラントのあの絵に気づいてくれてもいいよと、笑顔で告白しているように見える。

そう言えば、マネは時々、署名の入れ方でユーモアぶりを示していることがあった。例えば来日したことがある当時のジャポニザン、テオドール・デュレを描いた肖像画は、確か、ステッキの先で、マネの署名をひっくり返しているように描いてあった。


コメント (1)
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