美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

画賛を読んで作品名を改めた具体例 小川芋銭の2点(2)

2015-07-30 11:36:33 | 小川芋銭
前回、書き洩らしたが、芋銭の場合、ほとんどが、自賛であるから、画賛の方が間違っているということはない。だから、例外はあるかもしれないが、画賛は絵の内容や思想に概ね合致するか何らかの意味でそれらを反映、もしくは補っているものと考えられる。すなわち、絵の内容と反対のものが、何の断りもなく画賛に書かれることはないと思う。

さて、次に「野狐禅」を「野狐狸」に改題した例であるが、これは画像がいたって単純な作品である。一人の人物が、虎に乗って歩み来る。それだけの作品だが、なぜ、虎に乗った人物の画像に「野狐禅」の名称がついているのだろう。その意味は?

小川芋銭の作品には、いろいろな画集を調べてみると、別に「野狐禅」という作品があることからもわかるように、確かにこの画題は、いかにも芋銭の作品にふさわしいように見えるかもしれない。

「野狐禅」とは、『無門関』という書の「百丈野狐」の話に由来する語で、まだ禅の真の覚りを得ていないのに、既に得ていると思い込んでいる偽りの禅を指す。

それとこの画像とがどう結び付くというのか。

虎に乗った人物など単なる奇行であって、野狐禅に過ぎないとでも言っているのだろうか。しかし、これは単なる推測に過ぎない。とは言え、この題名を見たら、そのように想像する人もいるかもしれない。

絵のタイトルはやはり大切だ。とくに芋銭のような作品はそれひとつで誤解を招くような場合もあり得る。

『無門関』に載っている「百丈野狐」の話は、前世で住職であった者が、覚った者は「因果に落ちず」と修業僧に応えたため、住職の僧自身が途端に野狐の身に堕ちたという話である。

この話では、野狐となった僧は、百丈和尚によって、やっと野狐の身から脱することができる。
これが「百丈野狐」の大筋の話だが、虎に乗った人物などどこにも出てこない。

虎に乗った人物というなら、前にこのブログでも紹介した松平雪江の「四睡之図」に出てくる豊干(ぶかん)禅師を思い出すのが最も一般的であろう。

だから、やはり画賛を読んでみる必要がある。文字数はきわめて少ない(下図)。

ちょっと見ると、最初の文字が2文字のように思う人がいるかもしれないが、文字全体の意味内容からすると、これを1文字と捉えて読まなければ読めないし、意味が通じない。すなわち「驚」という字である。これに気づけばあとは比較的簡単だ。すなわち、

驚殺
野狐狸


(野狐狸を驚殺す)

と書いてある。

しかし、これを
□□
野狐禅


と読んで、誰かがこれを作品名にしたのだろう。それが、共箱ではない軸箱に貼ってあった作品のタイトルだった。
「狸」の崩し字が「禅」に化けたのだから、ちょっとこれも小噺めいてはいる。

※このブログを書いた後、関連するブログがあることに気づきました。このブログが指摘しているように「七十にして愚を加ふ」を意味する落款印がありますから、この作品、確かに芋銭が満69、数えで70歳にときに描かれたと考えるのが妥当ですね。芋銭の最晩年の作となります。
コメント
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